沖縄県名護市日蓮正宗妙隆寺離脱策動粉砕記




妙隆寺住職福田雄尊師夫人と父親の機転から離脱の謀議が発覚した


平成5年(1993年)2月13日土曜日の21時、埼玉県華光寺住職浅井広昌師より、沖縄県那覇市光明寺住職川瀬慈証師(当時・故人)に1本の電話が入った。

実は妙隆寺住職福田雄尊師の父親は華光寺所属の法華講員で、たまたま妙隆寺に電話したところ、住職夫人が出られ、最近二、三度学会の幹部の来寺があり、その中に創価学会のY弁護士やM青年部長、T副会長の顔も見受けられたとの話があった。その後福田師の父親が心配になり華光寺に相談があったのである。

川瀬師は、突然の話で非常に驚いたがとにかく通報をされた華光寺住職には「妙隆寺に連絡を取り事情が判り次第連絡する」旨答えすぐに妙隆寺に連絡を入れた。

妙隆寺では、住職夫人が電話に出られ、非常に悩んでいたらしく、すぐに学会のY弁護士をはじめ大幹部連中が来たことを認め、更に本日福田師は夕勤行を済ませた後に外出したまま帰らない、とのことであった。川瀬師は、ともかく本人に会って話をしてみなければ判らないと判断し、明日13時に訪問する旨を約束して電話を切った。


 福田雄尊師は一旦は離脱を表明したものの光明寺住職川瀬慈証師と家族、所属法華講員の説得にあう


 翌14日9時、妙隆寺住職夫人より光明寺に電話があり、住職が4時頃帰宅し、その際「今日の午前中に離脱僧を連れて来るから話を聞いて欲しい」と言われたとのことであった。川瀬師は驚いたが、ともかくも13時頃妙隆寺に駆けつける旨夫人に伝え、電話を切った。

川瀬師はただちに、名護市近辺にいた光明寺の法華講員に、妙隆寺に詰めるよう指示し、また妙隆寺の講頭に連絡して大至急講員を妙隆寺に集合させるよう命じた。更に石垣島唱行寺住職と宮古島仏法寺住職に、手配が整い次第妙隆寺に集合するように要請したのである。そして妙隆寺に向かった。

川瀬師が妙隆寺に到着したのは11時過ぎであった。そこには7、8名の法華講員が集合しており不安げな様子であった。しかし幸いなことに、離脱僧たちはまだ来ていなかった。

川瀬師は妙隆寺住職夫人に対して、学会青年部の襲撃に備え、出入り口は本堂正面玄関のみにして、他は全て施錠する旨を指示し、福田師の帰りを待ったのである。

13時過ぎ、福田師が離脱僧3名とともに帰ってきた。車庫から庫裏に入ろうとしたが内鍵がかかって入れずにいるところに、川瀬師と講員たちが出て行き応対をした。

離脱僧たちは、川瀬師が突然出てきたので多少驚いたようであったが、川瀬師より「日蓮正宗とは無関係の人間は退去するよう」厳しく通告すると、ヘラヘラ笑いながら素直に従って寺院境内より退去した。

そして福田師のみを寺院に導きいれて話を聞こうとしたが何とも要領を得ず、手間取っているうちに14時半になりUと名乗る学会の弁護士と総代3名が男子部を引き連れてやってきてしまった。

川瀬師は弁護士に対して、境内地へ立入を拒否したが福田師より、「妙隆寺代表役員の権限で、私が依頼したので案内する」旨を主張するので、やむを得ず、弁護士と総代のみを寺院に入れることになった。

弁護士は寺院内に入るや、「妙隆寺の福田住職は現在の時局に鑑み、色々と考えた結果、宗門を護るため、猊下を護るため、どうしても離脱する必要があるという結論に至り、本日午前中に責任役員会を開催し、全員一致の決議を以て日蓮正宗との被包括関係を廃止する旨決定したことをお知らせします」(趣意)という妙隆寺の離脱声明をしたのである。更に「福田住職より離脱に関する一切の事柄を委任されており、只今より作業を開始します」等と言って、川瀬師等に委任状を提示した上、公告を掲示して、川瀬師と法華講員たちに退去を迫ったのである。

しかし川瀬師は、福田師に対して

「あなたが妙隆寺に来て2カ月足らずとはいえ、その間に世話になったのは今ここにいる法華講員たちだけだと思う。その法華講員たちは、突然、離脱という話を聞き、本当に驚いている。一言でもいいから自分の口で、はっきりした説明を行ってもらいたい」

と、誠意を尽くして説明した。

その間においても学会の弁護士は川瀬師や法華講員に対して、退去を促し、福田師を別の部屋に引きずり出そうとさかんにまくし立ててきたのである。しかし川瀬師はそれを無視し、「5分でもいいから法華講員たちに説明して欲しい」と必死に食い下がったのである。

ようやく、しばらくの間黙って聞いていた福田師はコクリと頷いた。すると傍らにいた弁護士は慌てて住職を別室に連れて行こうとしたが、すかさず川瀬師より弁護士に対して、「貴方は先程、代表役員の委任を受け、離脱の代理人を務める為に来たと言ったが、その依頼人が同意すると言っているのである」と反論すると弁護士はやむなくその場を離れた。

そこで、川瀬師より、福田師に対して「離脱の理由として挙げていることは全ていわゆる創価学会によって捏造されたクロウ事件や、芸者写真偽造事件等猊下に関わることである。この際本山に登山して猊下に直接話を伺ったらどうか」という提案が出された。更に「離脱に関する事務上の手続きは全て完了しているとのこと。今更1日2日遅れたところでどうこうないと思われる。どうか本山に行って自分の判断に間違いがないかどうか確認して欲しい」と提案したのである。

その時、側にいた住職夫人と小学生の娘も「お父さん本山に行って猊下様にお会いしましょう」「お父さんお山にいこうよ」と泣きながら懇願したのである。また法華講員たちも、是非本山に行って欲しいと頼んだのである。

福田師は暫く俯いていたが周囲の説得に心を動かされたのかようやく頷いた。すると影から様子を伺っていた学会の弁護士は慌てて福田師の腕を掴んで別室に引っ張り、必死に本山に行かないように」と翻意を促したのである。

川瀬師は直ちに飛行機の手配を依頼するよう命じた。また妙隆寺法華講員たちも急いで各所に連絡を取ろうとしたのであるが、1か所で電話を使用しているために他の電話が使用できない状態であった。しかるに気の動転していた法華講員たちは逆上し、創価学会員によって電話線が切られているのではないかと勘違いし弁護士に猛烈な抗議をしたのである。弁護士は突然の抗議に面食らい住職と話ができなくなり、その間に住職は奥に入ってしまった。

住職は庫裏に入ったきりなかなか出てこない。弁護士は入口のところでオロオロしていたが、住職の許可なく庫裏に入ることができず、またそれをさせない為に川瀬師は弁護士と対峙したのである。

そうこうしているうちに、17時35分名古屋行きの最終便のチケットが取れたと連絡が入る。ならば16時には出発しなければ間に合わないと 講員たちは緊張した。然るに住職は庫裏から出てこない。皆は必死の思いで心の中で唱題していた。

しばらくして庫裏から住職夫人が出てきて、川瀬師に「住職が今日は疲れたと云っている。何とか説得して下さい」と頼んできた。川瀬師は「飛行機の中でも休める。今この機を逸すると大変なことになる。とにかく本山へ行かないと」と福田師を説得した。

住職はロビーに出て、学会弁護士に対して今日は引き取るよう指示し、また離脱に関する掲示物は一旦外しておくようにと、何度も念告したのである。すると学会弁護士は慌てふためき住職を説得しようとしたのであるが、そこへ急を聞いて駆けつけた石垣島唱行寺住職が川瀬師夫人に連れられて乗り込んできた。そして唱行寺住職は学会弁護士に対して委任状の提示等を求め、種々説明を求めていた。その間に福田師は家族と共に車に乗り、急遽那覇空港に向かうことができたのある。

後に残されてしまった学会弁護士は何とか妙隆寺を手中に納めようと、妙隆寺の管理責任者としての権限を執拗に川瀬師に主張した。しかし川瀬師は福田師より空港に向かう直前に留守中の管理責任者としての依頼を受けていたことから双方が対立した。

お互い平行線のまま時間が経過していったが、学会弁護士はとにかく空港に向かった福田師の動向も気になる上、今後の対応の指示も受けなければならなくなったのであろう。掲示している公告を外さないことを要求しつつ妙隆寺からそそくさと退去していったのである。

 


福田師一家飛行機に乗り遅れる


那覇市光明寺では、その日は月1度の法華講の清掃日になっていたため講頭が来寺しており、騒ぎになるのを防ぐ意味もあって講頭のみに一連の妙隆寺事件の経緯を話し、家での待機を指示してあった。

あれこれと気をもんでいると、突然15時過ぎ妙隆寺より「本日中に本山に到着できるよう、飛行機の手配を大至急するように」との連絡が入った。

旅行社に航空券の手配を頼むが、日曜日でもあり突然なのでなかなか手配がつかず、やっと南西航空の名古屋行きの最終便が確保できた。確認のために妙隆寺に電話を入れ、福田師夫人を呼んで飛行機の時間と便名を知らせて空港での待ち合わせを打ち合わせる。また講頭に連絡し、旅行社で航空券を購入の上、間違いなく福田師一家を飛行機に載せるように指示する。

16時過ぎに妙隆寺に電話を入れると「今出たところだ」と返事があった。時間的にギリギリであり、ひょっとすると間に合わないかもしれないという不安がよぎった。

17時過ぎに妙隆寺にいる川瀬師より「万一飛行機に乗れなかったら光明寺に宿泊させるように」との指示があった。また法華講壮年部に非常召集をかけ、光明寺近辺警備の厳戒態勢を取るように指示。早速非常召集をかける。同時に光明寺に居合わせた婦人部員に事情を説明し、もし飛行機に乗れなかったから何としても光明寺に連れてくること。何があっても逐一連絡することを指示して空港に向かってもらった。

17時25分、空港より妙隆寺の家族がまだ来ないと連絡が入る。搭乗手続きを済ませてギリギリまで待つこと、また別便のキャンセル待ちをしておくことを指示する。

17時50分、空港より連絡。飛行機に乗り遅れたが福田師夫人の強い要望で、どうしても今日中に本山に向かうとのこと。現在別便のキャンセル待ちとの報告。万一どうしても取れなかったら、明朝一番のチケットを購入し、何があっても福田師一家を光明寺に連れてくるように指示する。

少し遅れて川瀬師夫人が那覇空港に到着し、ロビーに駆けつけると福田師一行を携帯電話や無線機をもった50人以上の学会員たちや離脱僧が取り囲んでおり全く異様な光景であった。

福田師一家を守っているのは光明寺法華講員数名と妙隆寺講頭夫妻、川瀬師夫人だけである。電話をかけようとすれば、尾行し邪魔される。しまいにはトイレの中まで尾行する始末。その間にも離脱僧や学会大幹部が福田師にコンタクトを取ったり、会館に連れて行こうとするのであった。少ない人数で必死で福田師を守る。

18時30分、全便キャンセル待ちが取れないことが分かる。福田師に光明寺に宿泊するよう説得する。しかし福田師は「ホテルに宿泊する」と主張。もしホテルに行ったら学会に連れ去られるのは目に見えている。川瀬師夫人をはじめ、皆必死で光明寺行きを説得した。

19時10分、福田師、光明寺行きに同意する。

19時30分、光明寺到着。光明寺には石垣島唱行寺住職と宮古島仏法寺住職が名護から到着しており、すぐに福田師との話し合いとなった。

さて一行が着くや、光明寺の全ての出入口を閉じ、各部署に警備を立たせ非常警備体制を取ることになった。20時頃、光明寺の正門階段下に学会男子部がぞくぞく集まっているとの報告が入る。

しばらくしてUと名乗る弁護士から福田師宛に電話が入る。拒否すると再三取り次ぐように云ってくるが一切拒否する。すると総代から抗議の電話。また架空の葬儀・法事依頼がひっきりなしにかかってくる。受付の電話はパンク状態になる。おそらく外部との連絡を不能にさせようとする企みと思われた。21時U弁護士から再び連絡が入り、福田師を不法監禁していると一方的に決め付けた上、これより光明寺に向かう旨通告して来る。

本人の意思で光明寺にいる以上、不法監禁等と言われる筋合いはないが学会によって警察に虚偽の通報をされ、騒ぎになる可能性はあった。一応警察にはそういうことがないように前もって福田師夫人より話を通してあったので安心ではあったが今後の対策の為に万全の態勢を整えた。

21時30分、川瀬師より電話で弁護士が光明寺に向かったという連絡が入る。弁護士は那覇市内に来ていると思っていたが名護に居たとわかり、光明寺までは1時間以上はかかるので、対応の体制が取れると安心した。またこちらの状況を話し、光明寺の電話は切り今後は公衆電話で連絡する旨を打ち合わせする。

22時、光明寺を男子部が取り囲み、その数200人以上だと報告が入る。

23時、学会弁護士が光明寺に到着。山門前で福田住職を出せ、不法監禁だと大声でわめいたが、明かりを消し警備を引きあげさせ一切返事をしない。

しかし、もし門を乗り越えてきたら不法侵入で取り押さえる準備は整っていた。しかし暫くわめいていた後、何をするでもなく、男子部はそそくさといなくなった。

 


福田師一家無事大石寺に登山を果たす


翌15日月曜日0時、唱行寺住職より福田師が離脱撤回の意思を表明したとの連絡が入る。唱行寺住職は早速離脱撤回のための事務上の手続きを開始する。

1時、大勢がこちらに傾きつつあるのを感じ、一層福田師一家を無事本山に送ることが重大であることを一同確認する。

2時、学会によって拉致される危険性が高い為、福田師一家を無事飛行機に乗せるための作戦会議を開く。

4時、講員が車3台でコンビニに行くふりをして表の様子を探る。かなりの車やバイクが見張っているという。

5時、再び表の様子を探る。見張りの者たちが油断していることを察知し、早めの決行を決める。

6時、ワゴン車2台、乗用車1台、内ワゴンの荷台に唱行寺住職と妙隆寺家族を乗せ、毛布で隠して空港に出発。到着次第他の2台はそのまま職場に向かうよう指示する。

8時、ダミーの車3台に仏法寺住職、川瀬師夫人が分乗して9時45分発の飛行機に乗るふりをして出発。見張りの車7、8台で一斉に後をつける。

8時30分、ダミー一行空港到着。学会員男子部・女子部その他50人以上空港におり、一斉に色めき立つ。

9時30分、創価学会青年部長Mが9時45分発名古屋行き飛行機の搭乗手続きを済ませてゲートに入るのを確認。

11時、空港より全員光明寺に帰る。

11時30分、唱行寺住職より、無事福田師一行とともに羽田空港に到着し、本山に向かっているとの連絡が入る。光明寺法華講員大歓声。

13時、宗務院より「一行無事登山しました。妙隆寺光明寺法華講の皆様に感謝します」との連絡が入る。再び大歓声。中には泣き出す人もいた。

以降終日、光明寺の門扉を閉め交替で警備につく。学会員による監視も執拗に続いていた。

23時、川瀬師、光明寺に帰寺。居合わせた者に事件の経過を説明し、皆の協力に感謝する。

 


御本尊様の御加護のもと僧俗が力を尽くし妙隆寺を護り切る


16日17時、宗務院より、宗務院庶務部主任斎藤栄順師が宗務院派遣の担当弁護士と共に那覇に到着。

川瀬師が空港に迎えに行き、そのまま妙隆寺に直行。しかるに学会はどこから情報を得たのか、要所要所に車を配備し、20台以上の車が前後左右を取り囲み名護に行くのを妨害する。

連絡を受けた光明寺では法華講員に連絡し、妙隆寺に直行し、住職一行の守護ならびに、名護までの道程に異常が無いか調べるよう指示を出す。

18時30分、一行無事に妙隆寺に到着。19時妙隆寺にて法華講員に事件の経緯を説明し、弁護士立合のもと公告を取り外す。この時100人を超す学会男子部員が公告を取り囲み、一触即発の気配であったが、彼らに対して法律に基づいて取り外すことを宣言し、毅然として措置した。

 

学会はY弁護士を筆頭に5人の弁護士とT副会長、M青年部長、さらに地元学会幹部、その上3名の離脱僧が加わり、綿密に計画を練り、一挙に襲ってきたのです。対する日蓮正宗は4人の僧侶と10数名の法華講員、また妙隆寺に至っては10名に満たない講員でその上動ける壮年部は3名という状態でした。

しかし妙隆寺にいる川瀬師と連絡を取る時、朝でも昼でも夜でもいつ連絡しても電話の奥から唱題の声が聞こえてきたのです。また光明寺においても、聞きつけた講員たちが夜を徹して唱題を続けたのです。

「絶対に自分たちのお寺を護るんだ。日蓮正宗の寺院を創価学会という邪教団体の魔の手に渡してなるものか」という一念に僧俗の心が1つになり、見事に実証を勝ち取ったのであります。

僧俗各自が自分の持ち場に全力を尽くし、互いに信頼し協力し合う。まさに「日蓮が一類は異体同心なれば人少なく候へども大事を成して、一定法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども一善に勝つことなし」という御金言の通りであったと思いました。

数時間もホテルの部屋において夜も寝かされず、朦朧とした状態で「今の猊下をお守りするための離脱なんだ」という離脱僧や学会幹部の嘘に騙されてしまった福田御尊師は幸いにも総本山に登山された後、御法主日顕上人猊下より直々に御指南を賜り、深くその過ちを反省・懺悔し今では、日蓮正宗の信仰の原点に立ち返って、総本山に於いて御家族とともに修行をされています。

これもひとえに、御本尊様の御威光はもとより、妙隆寺光明寺法華講員たちの真心からの訴えと、福田師夫人の信心に基づく説得の賜物と言えるでしょう。