言葉を超えた演劇《祈りの芸術〜身体詩〜》で世界22カ国を駆け巡る
しんたいし
Art spiritual theatre《Body Poetry》
TAICHI-KIKAKU
さよならデモーニッシュな時代
そして、今、あたらしい祈りの時代の幕開けへ
TAICHI-KIKAKUが提唱する祈りの芸術《身体詩》とは、あらゆるデモーニッシュな力を使ったものとは対極を成すものです。
私たちTAICHI-KIKAKUは少数のグループながら、1988年より芸術にとって最も大切なものは《祈り》であるとの信念を持ち、世界を駆け巡ってきました。
20カ国を超える国々での公演の過程で生み出されたアートスピリチュアル《身体詩》とは、芸術の立場から精神世界を追求してゆくために生み出された言葉を超えて世界で伝わる〈劇芸術〉です。
そして、アートスピリチュアル《祈りの芸術》とは、私たちTAICHI-KIKAKUの芸術活動の核となる《祈り》、芸術にとって最も大切なものは《祈り》であると考えるTAICHI-KIKAKUの〈芸術理念〉です。
20年以上前に訪れた“アウシュビッツの悲劇を持つポーランド”、1995年、96年に訪れた“憎しみの連鎖で21世紀になっても解決の糸口さえ見えないイスラエル”、2000年には“隣人同士が殺し合った近い歴史を持つボスニア・ヘルツェゴビナ”へ……
私たちTAICHI-KIKAKUは何故か導かれるように、悲しみの深い地で公演をすることが多かったような気がします。
悲しみの深い地で公演する時、その地の劇場で私たちと気の交流をする観客は目に見える生者であり、そして、たくさんのもう目で見ることができなくなった死者たちであります。
「生者のみならず、死者たちの幸せを祈ること、祈りつづけようとすること」、そして、その《祈り》のおもいを捧げることこそが、祈りの芸術《身体詩》―私たちが今世の生でつらぬいている生き方(=芸術活動)なのです。
深い悲しみの土地を巡ったからこそ、生まれた祈りの芸術《身体詩》。
そして今、2011年、私たちTAICHI-KIKAKUは祖国日本でとてつもない大きな悲しみと不安に遭遇しています。私たちは悲しみの深い地となった日本に今立っているのです。
私たちが深い悲しみの土地を巡ったからこそ身につけたものがふたつあります。
《祈り》と、そして、みじんもゆるぐことのない鋼(はがね)のポジティブシンキング=陽の気を希求する力です。
TAICHI-KIKAKUは、アンチを唱えない主義です。
しかし、いつのまにか時代は、あからさまであれ隠されたものであれ、デモーニッシュに偏りすぎていたのではないでしょうか?
深い悲しみに遭遇している今こそが、私たち日本人が《祈り》をとりもどす時なのではないでしょうか?
自分以外のひとの幸せを、〈彼岸〉へ旅立った人々の幸せを、無心、一心に、ひとりひとりが心の中で祈ることこそが、ほんとうの祈りであり、あたらしい祈りであると私たちは思うのです。
そして、それこそが芸術にとって最も大切なものであると思うのです。
さよならデモーニッシュな時代、
そして、2011年の今、ここ日本から私たちTAICHI-KIKAKUは、あたらしい祈りを唱える、祈りの芸術《身体詩》をいまいちど宣言いたします。
あたらしい祈り〜生きる意味を知るために〜
山のなかで あなたがほんとうに哭(な)いているのなら
わたしが たすけてあげる
さっきから あなたはもう とても大きな哭き声でわたしを呼んでいるから
わたしは みじんも まよわずに そこへ たどりつくことができるだろう
火をおこして あたたかいおゆを のませてあげる
そして抱っこしてあげる
あなたが眼をさますまで わたし哭かずに ずっと笑ってあなたの顔を
みていてあげる
眼をさましたら チョコレートを分けあってたべる
それから山をおりていく
ふたりで山をおりていく
ふへんてきな神さまがいる
ふへんてきな神さま いつも ぢっと みんなをみていてくれるから
まよわずに わたしとあなたは山をおりていける
わたし あなたの手 にぎってる
百年たって 肉体がここから消えても わたし あなたの手
ぜったいに ぜったいに はなさない
やがて あなたが哭きやむころ
あなたの耳にも また山からの哭き声がきこえてくるだろう
そうしたら あなたもまた ひとりで山をのぼっていく
哭いているひとの髪をとかして あたたかいおゆをのませて
ぎゅっと抱っこしてあげるために
そのとき もうあなたは笑っている
ふへんてきな神さまが いつも ぢっとみていてくれるから
わたしもまた まよわずに いくつもの山をのぼっていくだろう
両手をあげて 踊りながら
ゆっくりと ゆっくりと
山をのぼっていくだろう
太陽詩人 モリムラルミコ