神楽解説神楽創作にあたり登場人物
採り物衣裳資料年表報道関係お礼

 - 神楽解説 -

この演目は島根県益田市多田町に実在する史跡「扇原関門跡」(益田市指定文化財 指定 昭和46年6月21日)にまつわる実話を基に創られた神楽である。
慶応2年(1866年)6月16日、参謀、大村益次郎(村田蔵六)率いる長州軍約1500名は横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守「岸静江国治」(浜田藩士)は通過を許さず僅かな部下と急募の地元農民と共に門の守についた。
しかし圧倒多数の敵兵を前に、岸静江はまず部下と農民を退去させ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、仁王立ちのまま絶命したと云われる。
岸の志に感嘆した大村は、近くの住職に埋葬と石碑建立を依頼した。
この戦いを四境戦争の一つ、「石州口の戦い」と言い、近代国家の礎となり、僅か2年後には明治時代を向かえることとなる。
現在もこの関門跡と岸静江の墓は、多田町に奉られています。
1999年9月制作
※一部 益田市教育委員会 史跡案内板より引用

 舞歌

吹きすさぶ 益田の山の 山風は
  今も身にしむ 松の音かな

我が君の ためにと思う 真心は
  末の世かけて 残りけるかな

益田川 岸辺の梅は 散り行けど
  今も香れる 多田の関跡

幕末の 水無月暗き 扇原
  花と散り行ゆく 岸の静江は

石見潟 あれのみまさる 汐風に   (松平武彦が岸家に贈った歌)
  くだけて清き 岸のしら浪

 −神楽の流れ−
・長州軍の舞   −大村と使いが現れ扇原関門へ向かう
・扇原関門にて −岸は長州軍の進軍を聞き、関門にて様子を伺う
・農兵の集兵  −農兵を集め関門の守備に就く
・長州の使い   −長州の使いが現れ、開門を要求するも固く拒絶す
・別れ        −圧倒多数の敵兵を前に、農兵、部下を退去させる
・大村現る    −参謀の大村が自ら現れ開門を要求
・戦         −開門を断固拒否し戦いとなる
・敵弾       −岸は敵弾を受け仁王立ちのまま絶命す
・願い        −岸の死を聞き、庄屋、農民が集まり埋葬を懇願す
・益田へ      −岸の志に感嘆した大村は形見の品を許し、賞賛す。長州軍は益田へと向かう
・弔い        −大村より形見を受け取った庄屋らはここに岸を祀る


 - 神楽創作にあたり -

この「扇原」は、以前より町民をはじめ各方面より創作を望まれていました。そこで多田須郷田山大元神社500年祭を前に保存会員の手により資料収集、聴き取りまた県内外の資料館に足を運び、台本作成から採り物作成を行い、1999年10月に初回奉納を果たしました。
この調査では、職務の合間に農作業を手伝ったり、習字を教えたりと岸の人柄が偲ばれるエピソードも知る事ができました。

神楽の多くは「古事記」や「日本書紀」を基に創られていますが、この「扇原」は時代設定が江戸時代末期と比較的新しい事と、採り物に火縄銃やライフル銃を使用する事で、所作が非常に難しくなってしまいました。
当初は銃の代用として神楽らしく弓矢の使用も検討しましたが、出来るだけ忠実にということで火縄とライフルが採用されました。火縄銃については、当時の物(多田自治会所有)を採寸しレプリカを製作。また、ライフル銃は当時使用されていたミニエー銃が見つからず、外観やサイズの似たモーゼルカービンを使用。またこれらは独自方法での発火も行えるように改善しました。
岸の採り物である十文字槍についても満足できるものが無く、ジュラルミン削り出しにて製作。
また衣装や面についても試行錯誤を重ね、現在の形に落ち着いています。

岸に対しての町民の思いは熱く、没後100年以上経っても墓の手入れをする人や参拝の人が絶えません。
その思いを代表し、この神楽を通して「岸」の威徳や無念さを後世に伝えることが、我々「多田神楽保存会」の責任であると決意しています。

 - 登場人物 -
岸 和紙面 岸静江国治 面 (和紙面)

凛とした表情の中にも憂いを帯びた面持ち。
岸の責任感と心情を感じさせる。
岸の死に様については諸説ありますが、当保存会では「仁王立ちのまま絶命」の形を採っています。

1836年〜1866年
松平右近将監(群馬県館林市)家臣の家に生まれ、半年後、お国替えにより一家浜田へ。
1866年、幕府軍の多田村扇原関門頭として赴任。
同年、石州口の戦いにより殉職(31歳)。

大村 木彫り面 大村益次郎 面 (一刀彫り面)

医者から身を起こした大村だが、幕府の「勝海舟」も恐れる程の采配を振るった。
石州口と芸州口の参謀として知的で強い志を持った面持ち。
実際の戦場で大村と岸が対峙する事は無かったが、この舞中では直接対決させています。
また、大村の出で立ちに「赤熊(しゃぐま)」を使用していますが実際には陣笠を使用していた様です。
実際に赤熊を使用していたのは土佐軍士官で四境戦争以降の江戸開城後になります。長州士官は「白熊(はぐま)」を同じく使用していました。
舞中では大村の威厳を現す為に、あえて赤熊を着用しています。

(1825年〜1869年)
周防国鋳銭司村に医者の息子として出生。
1853年宇和島藩に出仕し、1860年には長州藩士となる。
1866年四境戦争では、石州口、芸州口の参謀を務め勝利するも、1869年凶徒に襲われ大阪の病院にて死去。
庄屋 (素面)

多田村庄屋(城市氏)。戦いに向け、地元の農民(狩人)を集め岸に加勢させた。
里人 (素面)

多田村の農民(狩人)。石州口の戦いに加勢。
長州軍使い (素面)

関門に現れ岸に開門を要求。
 - 採り物 -
十文字槍 岸静江 採り物
「十文字槍」

宝蔵院流槍術、指南であった岸の使用した十文字槍。
舞殿用の1.5Mタイプと大舞台用の2.4Mを準備。
火縄銃 農民兵 捕り物
「火縄銃」

多田農民兵(狩人)の使用する火縄銃。
石州口の戦いで使用された実物より採寸しレプリカを作成。
実物は全長121,3cm 銃身96,4cm 口径1.4cm
(多田自治会所有)
ライフル銃 長州軍使い 採り物
「ライフル銃」

兵器の近代化を進めていた長州軍の使用したミニエー銃。
(市販のモーゼルカービン玩具銃を流用)
 - 衣裳 -
岸 衣裳 岸静江 衣装 (肩切)

表には岸家の家紋「蔦の角字」を刺繍。
切落とし後は背に水龍と波に日を象る。
日は日本を現し、徳川幕府を象徴する。主君を守る者として水龍を象る。
大村の衣裳と対をなし、それぞれの立場で自分の信念に従い戦う様子を表す。
大村衣裳 大村益次郎 衣装 (肩切)

表には大村家の家紋「桔梗」を刺繍。
切り落とし後は背に飛び龍と雲に日を象る。
日は日本を現し、徳川幕府を象徴する。近代国家設立を目指す者として飛び龍を象る。
岸の衣裳と対をなし、それぞれの立場で自分の信念に従い戦う様子を表す。

 - 資料 -

「岸静江国治の墓」  島根県益田市多田町

案内板
「益田市指定文化財(昭和46年6月21日)

慶応二年(一八六六年)六月十六日朝、横田を出発した大村益次郎(旧名 村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り開門を要求した。隊長 岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについたのであった、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげたのであった。

昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

                                               昭和五十二年四月
                                                   益田市
                                               益田市教育委員会」
扇原関門跡 「岸静江戦死乃地」 島根県益田市多田町

案内板
「元治元年(一八六四)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたと言われる。
慶応二年(一八六六)六月十六日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始された。俗に「石州口の戦い(せきしゅうぐちの戦い)」といわれ、大島口(周防大島)・芸州口(安芸)・小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌十七日には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。
                                                     益田市
                                               益田市教育委員会」
「標柱」 島根県益田市多田町

左側 從是北濱田領 (此れより北、浜田藩領)
右側 ??南津和野領 (??南、津和野藩領)
「火縄銃」 幕長戦争で使われた実物 (多田自治会所有)

全長121.3cm 銃身長96.4cm 口径1.4cm
岸静江着用「籠手」 (浜田市教育委員会所蔵)
浜田市指定文化財

岸の死後、長州の没収を避けるため山中に埋め、明治2年に掘り出し岸家に遺品として送った物
岸静江国治の「脇差」 (多田自治会所有)

刃長48.9cm 反り0.6cm
銘 源祐正 作
長州軍使用と同型の「ミニエー銃」 (鋳銭司郷土館所蔵)

この銃は1836年頃から輸入され、四境戦争や戊辰戦争で使用されました。
特に四境戦争における長州藩の勝利は、この銃の数と性能によるところが大きいようです。
当時の銃の性能
名称 距離(m)と命中率 参考
200m 500m
ミニエー銃 45% 30% 長州軍使用の主力銃
ゲーベル銃 10% 0% 幕府軍使用の主力銃
火縄銃 0% 0%
大村益次郎の陣笠 (鋳銭司郷土館所蔵)

大村家(村田)の家紋「丸に桔梗」の入った大村使用の陣笠。
大村益次郎直筆の石州益田の作戦図 (鋳銭司郷土館所蔵)

幕府軍追撃の参謀として「石州口」と「芸州口」の参謀を務めた大村の益田攻めの作戦図。
図面左に「此道三ヶ寺の敵兵敗走の道」と記入してあり、敵兵に対して無駄な犠牲を出さぬように努めた大村の配慮がわかります。
「大村益次郎の墓」(国定史跡) 山口県山口市鋳銭司

益次郎の柩は大阪より鋳銭司に運ばれ神葬されました。
右側は妻ことの墓です。
昭和10年に国の文化財に指定されました。
この他、益次郎の右足は大阪「緒方洪庵」の墓の傍らに埋められています。
「大村神社」 山口県山口市鋳銭司 

長沢湖畔に改築された大村神社。
もとはこの社の北約500mの山中にあったが、昭和21年に全国よりの寄付金により建立しました。
多田神楽 背景幕

扇原関門を描いた染め抜きの背景幕
多田神楽 出幕

岸静江の兜と十文字槍を描いた染め抜きの出幕
文献関係

益田市誌、幕長戦争展パンフレット、大村益次郎写真集、花神(司馬遼太郎著)、その他名前不明本等

 - 年表 -

1836年 1854 1859 1860 1863 1864 1866
日本の歴史 日米和親条約 ・長州外国船砲撃事件
・8月18日の政変
・池田屋事件
・禁門の変
・第一次幕長戦争
第二次幕長戦争
岸静江関係 松平右近将監(群馬県館林市)家臣の家に生まれる。
生後半年で祖父国均、父源太夫国道とともに国替えとなり、浜田に移る。
高木馬之助の娘と結婚 近習席になる ・5月7日静江家督相続、浜田藩物頭となる
・5月27日多田村扇原関門の頭として赴任
・6月15日長州軍の侵攻に対し、庄屋に命じ付近の狩人を徴発させる。
部下、狩人を退去させ、一人にて殉職
 − 「扇原」報道関係

・山陰中央新報社 1999年11月26日版 「幕末の石州口戦で奮戦」
・中国新聞社    1999年11月29日版 「郷土の歴史語り継ぐ舞」
・日本海TV社    1999年11月29日  「ニュース日本海プラスワン」
・広報ますだ     2009年12月1日号

 - お礼 -

この神楽を創作するにあたり、多くの方のご協力とご尽力をいただきました。

木彫り面   神楽面彫り師 龍月様
神楽衣裳  福屋神楽衣裳店様
資料提供  多田自治会、各資料館、その他個人所有
採り物製作 多田神楽保存会
台本製作  多田神楽保存会

多くの方のおかげで「扇原」を創作することができました。
誠に有難うございました。




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