
和歌山県在住 52歳 2019年11月
体に異変を感じたのは、今から5年前の2015年5月。自宅の畑の草刈りをしていた時のこと。右脇の痛みと腫れを感じたので、翌日地元の病院の外科で診察(マンモとエコー)してもらいました。
結果は異常なしということで、痛み止めだけいただきました。
でも、母が乳がんを患ったことがあったので不安がよぎり、また、自分で触ると右脇にゴルフボールくらいの腫れ、乳首の左のほうに固いしこりがあります。
痛みも取れず不安になり、和歌山市内の乳腺科クリニックに診察に行きました。
再度、マンモとエコーをしてもらい、乳がんと診断されました。
それから、細胞診検査をして、それで乳がんが確定。
「顔つきは、悪くないから大丈夫だよ、初期だし」。ということでした。
それで、その先生に手術をお願いしました。
手術までの日々は、不安と恐怖で笑うことを忘れ、落ち込んでばかりの日々でした。
どうして私が、がんに…、と家族に八つ当たりしたり、幸せそうな人をみて腹がたったりもしました。一人になると涙があふれ、子供たちのこれからのこと考えると、また泣いてという日々が手術まで続きました。
手術は、温存でリンパ節郭清。トリプルネガティブでステ−ジ2。
術後、手術してくれた先生のクリニックで副作用の少ない抗がん剤だけする予定でしたが、その治療で、再発しないかと心配でした。
そんなことや通院の大変さもあり、転院することをお願いしました。
その後、田辺市の総合病院で化学療法と放射線療法をしました。
そこで分かったことですが、リンパ22個中16個にがんがあったこと、切り取った断片にがんがあったことを聞きました。
手術の時、がんが広がっていれば、全摘にしてほしいと伝えていましたが、
温存でした。
再発した時、このことだけは本当に悔やまれました。
その後治療も終わり、定期検診だけで毎日穏やかに生活していました。
そして子供たちの高校進学があり、わたしの生活環境は大きく変わりました。
子供たちと私の三人で京都でのアパ−ト生活が始まりました。
3か月ごとの定期検診は、帰省して田辺市の総合病院で受けていましたが、手術から3年が経とうとしていた2月に、術側と反対の脇に違和感があり、MRI をお願いしました。
やはり再発でした。
縦隔リンパ(肺と肺をつなぐリンパのこと)、左脇リンパにがん再発。
この時の血液検査は、異常なし、でした。
それなのに…。
その時のショックは、最初のがんがみつかった時より何十倍も何百倍もでした。
主治医の先生に「どれくらい元気で生きられる?」と聞くと、答えてくれず、こちらから「5年くらいは大丈夫?」と聞くと、先生はうなずきました。
その上、「完治はなく、延命治療になるよ」と言われました。
そのあと車で自宅に帰った記憶が全くないほど、ショックでした。
それからは、終活のことばかり考え、いろいろ断捨離しました。いつ自分が死んでも大丈夫なように、ノ−トに保険や貯金、その他のこと書き、主人が、困らないようにと。
子供たちと京都で生活していたこともあり、少しでも治りたいと思い、京都の大学病院に転院することにしました。
その病院では、検査ばかりで1か月。その後トリプルネガティブの治験のための検査で1か月。転院してから2か月過ぎていました。
治験コーディネーターさんから治験の説明を受けた時に初めて、治験では本当の薬を使えるグループと偽薬のグループのどちらかに入るかわからない、と聞きました。
大学病院の主治医からは、新薬が使えるとしか聞いていなくて、とても驚き不信感を抱きました。
それにその時がんは、ずいぶん大きくなっていました。
わきのリンパは、わきが閉じられないくらい大きく腫れ、痛みもありました。
鎖骨には、数珠つなぎにがんができていました。
首のあたりにも、しこりができ、怖かったです。
そのしこりは日に日に大きくなり、また広がっていくがん細胞が怖くて、毎日自分で触っておびえていました。
主治医にそのことを伝えると、「そうなったから治験が使えるんだ」と冷めた口調で言われ、その時のぞっと背筋が凍り付いたような感覚は、今でも忘れることができません。
そこの化学療法のドクタ−からも、デリカシーのない言葉を投げ掛けられたこともあったので、この病院での治験は受けてみたいという気持ちはありましたが、本当にこの先生たちに自分の治療をお願いしていいのかと悩んでいました。
京都に乳がんのサークルがある話を聞いて、その京都の乳がんサ−クルに電話しました。
すぐに会っていただき、病気のこと家族のこと、病院のことなど話を聞いてもらいました。
いろいろアドバイスをもらい、励ましてもらいました。
それからは、いろいろなところに誘っていただき出かけて食事、花見と楽しく、また、再発患者さんだけで食事会を開いてもらい、再発患者さんから元気もらい、再発しても生きることあきらめなくていいんだと学びました。
再発患者さんからいろいろな話を聞くたびに、今の病院で治療を受けることに疑問を感じ、乳がんサークルの代表の方に再度相談しました。
そしてセカンドオピニオンをすすめられました。
そのセカンドオピニオンの先生が、西宮の腫瘍内科の先生でした。
先生のことは、再発を何度もし、そのたび克服し、現在寛解した兵庫県の患者さんの先生だということで以前から知ってはいました。
少しここでその患者さんのお話をさせていただきますね。
その方はトリプルネガティブで、術後7か月で右肺3か所に再発され、抗がん剤治療でがんが消え、またその後脳に転移。それも放射線治療にて、がん消滅。
それなのにまたがんが髄膜に髄膜播種。
髄膜に抗がん剤治療し、がんを消滅、現在寛解しています。
そんなすごい先生にセカンドオピニオンを受けてみたいと思い、勇気を出して電話しました。
先生は、やさしく丁寧に話を聞いてくれました。
「治験は、チャンスだから受けたくても受けられない人がいるのだから受けてみるほうがいいよ。ただし2回位受けて効果がなければ、こちらに来てください」と言ってくれました。
だから、治験を受けようと思いあと何日かで治験にはいるという時、やはり大学病院の主治医に対する不信感が消えず、また患者サークルの代表に連絡しました。
その時言われました。
「先生が治療を決めるのではなく、自分が先生を選び治療を選ばないとダメ。それにもっと自分のことなんだから、乳がんのことを勉強しないとダメ。そうしないと、治療について聞く時にも困るし質問もできないよ」と言われました。
その言葉で、西宮の先生のところに行く決心をしたのです。
先生は、すぐに来なさいと言ってくださり、ポートの手術もすぐに予約してくれて、翌日には抗がん剤をしてくれました。
先生の治療は、抗がん剤の耐性をとって抗がん剤をすること。耐性ができるから、抗がん剤が効かなくなって使える薬がなくなってしまう、とのこと。
この先生の治療方針に感動しました。
それに、延命治療ではなく、治そうとしてくれること。
そう、私は延命ではなくて寛解したいのです。まだまだ子供たちのためにいろいろしてあげたい、応援したいのです。
先生のところでは、抗がん剤1回で、脇のしこり・首のしこりは消えてしまい、鎖骨にあった数珠つなぎのがんも小さくなりました。
2017年4月に先生が病院を変わり、私も転院しました。
その年の6月に撮影したPET画像では、胸の真ん中あたりに薄く赤く光っている状態だけでした。
その年の12月には、がんはどこにもない状態まで抗がん剤治療の効果はありました。
現在もPET検査は異常なしで、腫瘍マーカーも下がり正常値を保っています。
でもまだまだ抗がん剤はやめられません。
がん細胞を抗がん剤で抑え込んでいる状態なので、先生が大丈夫だと言ってくれるまで、抗がん剤の副作用との闘いは続きます。
再発したら怖い、治らないなどと決して思わないで下さい。
治療に不安を持っていたら是非セカンドオピニオンも考えてください。
私も勇気持てずに、悩んでばかりでした。
でも勇気もって転院することも大事です。
大学病院から言われました。「そんな無名な病院に行っても治らないし、もうここには来られないよ」と。
でも今、その時勇気出して転院してよかったと心から思っています。
最高のお医者さんに出会えたことで、こんなに元気になったから。
不安を抱えて治療するのではなく、納得して治療できることが一番だと思います。
納得するまで主治医に質問して聞いてみることが大事です。
再発しても決して諦めないでください。
医療は日進月歩です。怖がって時間を無駄にするのではなく、前向きに考え大切な時間を有意義に過ごしてください。
「好きなことして好きなもの食べて好きなところに行って楽しむ」
これは、先生が私に言ってくれたことです。
がん患者でも、我慢しなくていいのだと思うと、気持ちが楽になりました。
がんになって家族に迷惑かけています。金銭面、精神面、本当に申し訳ないです。 でも誰かのせいでこうなったわけではなく、いつ誰ががんになるかもしれません。
元気でいることが家族にとって一番大切なことです。
だから自分を責めることもやめました。
私の話で少しでも希望や元気を与えられたら幸いです。
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