
手術年齢44歳
2002年の冬のことだった。左の乳房下部に何か固いものがあることに気づいた。
でも私は放っておいた。
それは何故か…
何か得体のしれない怖さと、「私が、がんなんかになるわけがない」といった根拠のない、とても複雑な気持ちとからだった。
しかしその後、年が変わって、パジャマに血がついていたことがあった。
これは放っておいてはいけないと思い、知り合いにどこの病院へ行ったらいいだろうかと尋ね、近くの総合病院に乳腺の良い先生がいることを教えてもらった。
何も情報を持たずその病院に行くと、その日は乳腺専門医の外来診察日ではなかった。
その日の担当の医師は、診察するなり、院内にいた乳腺専門医に連絡を取ってくれ、すぐに専門医は外来へ来てくれ、診察を受けることができた。
もう2003年の春になっていた。
4月9日『乳がん』だと判明した。医師からは「90%以上乳がんでしょう」、と言われていたので覚悟はしていたが、それは一人息子の誕生日の前日だった。
「お母さんオレの誕生日に、いいプレゼントをくれたなぁ」
「あげようと思って あげてるわけやないで」
家族みんなが悲しみでいっぱいだった。
「オレまだ10代やで。お母さんに死んでいらん。生きていてほしいんや」
私は乳房をなくすのかなくさないのか悩んでいたのに、息子は命をなくすのかなくさないのかと考えていたのだ。
医師は「僕は聖路加国際病院で、同時再建を学んできた。全摘して、もしほかの病気で医者にかかった時に、胸を開けるのを戸惑うこともあるかもしれないが、再建するとそういう抵抗はないよ。同時再建しませんか」と言われ、私は頭が真っ白のまま、首を縦に振っていたのだ。
ただ、夫は「お乳の形なんかどうでもいい!お前の命の方が大事や」と言った。夫と息子のその時の言葉は今でも鮮明に覚えている。
医師は「僕は医大と同じことをしています。この病院でも安心して治療できますよ」「でも、もしほかの病院へセカンドオピニオンに行きたければ、検査結果をお渡しします」
14年前、時間をかけて丁寧に説明してくれ、医師の方から‟セカンドオピニオン”と言い、私はその医師のことを誠実で信頼できると直感した。
左乳房の乳がんは3.5㎝あり、右側もあやしかったので念入りに2回針生検をしてくれたが はっきりせず、手術の際に組織を取って調べてくれた。
もし両側ともに乳がんだったら、両方再建する予定だった。
同時再建は広背筋にするかインプラントにするかの選択をしなければならなかった。背中も切るのかと思うと、それはどうしても嫌だったので、インプラントでの同時再建をしてもらうことにした。
幸い右側はがんではなかった。
手術のあとは、脇が広い範囲で ものすごく痛かった。
まるで誰かぶら下がって引っ張っているのかと思うほど痛かった。
センチネルでリンパ節にも転移があることが分かっていたので、リンパ節郭清もしていた。
「こんな痛い思いをしてまで生きていかなければいけないのだろうか」
そんなことを思うほど痛かった。
傷跡は綺麗だが今でも寒い日や雨の日などは痛むことがある。
術後1週間で退院。1ヶ月ほどして化学療法が始まった。
3週間に1回の抗がん剤を3か月ほど続けた。
ホルモン剤の効かないタイプだった。
抗がん剤の副作用で髪の毛は抜け、味が分からなくなり、爪も変形した。
夫が出勤し、息子が学校へ行き、昼間独りぼっちになると、副作用の辛さもあり、自死を考えることもあった。
買い物も知り合いに会わないように出かけ、思いつめ、そして自分を責めた。 検査に行けばよかった…
家族に辛い思いをさせている…
お乳も髪の毛もなくなった。みんなあるのに…
そんな時に患者会の記事を新聞で見つけ、切り抜いて持っていた。
元気になったら電話してみよう、と思った。
一人きりで苦しい思いをしていても、息子が帰る時間が近づくと我に返り、食事の支度をした。
義母は「気をしっかり持ってよ」と言ってくれた。
そうして身体と心が元の状態に戻るのに2年ほどかかった。
同時再建、そして2年後にインプラントの入れ替えをした。
このときは部分麻酔だった。切ったのは体の横側で、主治医が見えにくい所を
切ってくれた。
そして11年後、主治医が遠方へ転勤することになったので、その前に3回目の手術(入れ替え)をしてもらった。
このときは1回目と同じ所を切った。
診察は最初の2年は3か月ごと。
それからは半年ごとになり、5年経つと1年に1回になった。
インプラントを入れているという圧迫感は常にあり、途中、もう胸の形にこだわらず外してしまおうかと考えたこともあった。
鏡に映る姿はやはり再建すると綺麗だ。
まあ、年月が経つと型崩れは多少してくるが、下着はワイヤーなしのブラジャーで普通に過ごせた。今はユニクロのブラトップで十分。
再発の不安は、2年ほどたった頃、右耳の後ろに何かできているような気がして主治医に言って診てもらった(触診)が、全く関係なかった。
再発するのは同じ側が多いと言われた。
それ以外再発の不安はなかった。
でも「もし再発しても、もう抗がん剤はしないよ」と夫に言うと、
「そんなこと言わないで」と言われたことがあった。それほど抗がん剤の副作用は辛かった。
3回目の手術の際に、医師は夫に「最初の時は、実は厳しいと思っていました」と告げたそうだ。
ステージⅢだった。
今でも重だるい感じはする。
重い物を運ばなければいけないことも多いが、リンパ浮腫にもなっていない。 切り抜いた患者会の新聞記事はずっと持っていて、4年後にやっと電話することができた。
長い闘いだった。
同時再建の経験者としては、これから同時再建をする人たちには、この圧迫感がなければいいのにな、と思う。
本当に辛い経験をしたが、今では夫と二人で孫の顔を見るのが何よりの喜び。 心から幸せを感じています。

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