アプトの道を散策 2023年7月30日(日)
新宿駅―(埼京線)−赤羽駅−(湘南新宿ライン)−上尾駅−(高崎線)−高崎駅−(信越本線)−横川駅−(JR関東バス)−熊ノ平駐車場…アプトの道折り返し…(アプトの道)…碓氷峠鉄道文化むら
本日の鉄道研究部の活動は、アプトの道の散策、SLぐんまよこかわの撮影、碓氷峠鉄道文化むらの見学です。新宿駅に集合し、青春18きっぷで在来線に乗って、横川駅へ行きました。JR関東バス軽井沢行きは大変混み合っていましたが、何とか全員乗れました。途中の熊ノ平駐車場で降りました。
階段を登り、旧熊ノ平駅へ行きました。旧熊ノ平駅は、1893年に信越本線横川−軽井沢間が開通し、熊ノ平信号場が、給水給炭所として設置されたものです。丸山信号場−矢ヶ崎信号場間は単線のため、列車交換設備もありました。1906年に鉄道駅となりました。1937年には熊ノ平変電所が建設され、アプト式廃止後も改修されて横川−軽井沢間の廃線まで使用されました。
1966年に信号場になりました。1997年9月30日の北陸新幹線(高崎駅−長野駅間)開通により、信越本線横川−軽井沢間廃線が廃止され、熊ノ平信号所も廃止されました。部員たちは熊ノ平信号所を見学してから、アプトの道を下りました。アプトの道は、鉄道の廃線跡を利用した遊歩道です。1885年官設鉄道横川線、高崎駅−横川駅間が、1886〜1888年にかけて官設鉄道直江津線、軽井沢駅−直江津駅間が開通し、東京と新潟を鉄道で結ぶことが望まれました。
1893年に官営鉄道中山道線として横川駅−軽井沢駅間が開通しました。18の橋梁と26のトンネルを有する11.2 kmの区間でした。当初は全区間が単線・非電化であり、中間に開設された熊ノ平給水給炭所で列車交換が行われました。1901年には丸山信号所・矢ヶ崎信号所が開業し、横川駅−丸山信号所間と矢ヶ崎信号所−軽井沢駅間が複線区間となりました。1906年には熊ノ平給水給炭所が熊ノ平駅となりました。1909年には中山道線を含む高崎駅−新潟駅間が信越線(後の信越本線)となりました。
横川駅−軽井沢駅間はトンネルによる煤煙が問題となりました。1911年に横川駅付近に火力発電所が設置され、1912年に横川駅−軽井沢駅間は直流電化区間となりました。日本の国鉄の幹線としては初めての電化区間であり、当初の電圧は直流600Vで、第三軌条方式が採用されました。1963年に旧線のやや北側を並行するように新線が単線で開通しました。粘着式の新線は、電圧・集電方式を他の区間と同じ直流1500V・架空電車線方式になりました。
1966年には新線がもう1線開通し、横川駅−軽井沢駅間は全区間が粘着式の運転による複線となり、丸山信号場・矢ヶ崎信号場は廃止されました。
しかし、旅客列車・貨物列車の単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63を常に連結することとなりました。勾配を登る下り列車(横川駅→軽井沢駅)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢駅→横川駅)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能でした。そのため、必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結されました。
1997年、北陸新幹線が開通し、横川駅−軽井沢駅間が廃止される前に、鉄道研究部がこの当時の様子を撮影しに行きました。
アプトの道は、横川駅を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯、碓氷第三橋梁(めがね橋)を経て、旧熊ノ平信号場まで通行できます。碓氷峠鉄道文化むらから峠の湯までの2.6kmの区間は、アプトの道に併走する旧下り本線を利用してトロッコ列車が運転されています。
アプトの道は、1963年に廃止された旧国鉄信越線の横川駅−軽井沢駅間の旧線跡で、1996年より横川駅−碓氷第三橋梁(めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年に完成しました。
2012年には、横川駅−旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが完成し開通しました。
部員たちは、蒸気機関車の煤煙対策の排気口のついたトンネル、耐震補強を加えたレンガ作りのめがね橋、丸山信号所跡、トロッコ列車などを眺めながらアプトの道を歩きました。