夏期合宿 彦根城を散策  2018年8月11日()

彦根駅…彦根城・玄宮園・散策…近江鉄道ミュージアム・見学…彦根駅



彦根駅に戻ってから、彦根城や玄宮園を散策しました。彦根城は彦根駅近くの小高い丘の上にあり、天守閣から琵琶湖が綺麗に見渡せました。



私たちは、彦根駅から彦根城の入口にあるいろは松を眺めながら佐和口に入りました。いろは松は、表門橋に向かう中濠の沿道の47本の松並木です。現在34本が残り、当時の面影が偲ばれます。第3代井伊直孝が、諸国から取り寄せた竹木を城内に移植した時に、通行の妨げにならないように、根が地上に出ない土佐松が植えられました。



表門から表門山道を登り、廊下橋を渡りました。非常時には落とし橋となったそうです。天秤櫓が、廊下橋を中央として左右対称に建てられています。天秤の様な形をしています。日本の城郭でこの形式のものは彦根城だけです。



更に石段を登ると、時報鐘があります。城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。隣接する聴鐘庵は茶屋として薄茶を飲むことが出来ます。



私たちは、本丸への最後の関門である太鼓門櫓をくぐりました。東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。 登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。



太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら天守を眺めることも出来ます。




天守閣の前で記念写真を撮り、天守閣を見学しました。



彦根城の天守は北西に附櫓が、さらに長い多聞櫓が連なります。天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化があります。



二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北に唐破風が設けられています。この切妻破風、入母屋破風、唐破風を組み合わせは美しいです。一層目は、大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっています。




彦根城の天守閣を見学してから、玄宮園にも立ち寄りました。



玄宮園は、彦根城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられました。4代藩主直興により1677(延宝5)年に造営されました。



毎年9月中「虫の音を聞く会」が催され、大名庭園ならではの趣が味わえます。



魚躍沼を挟んで眺める臨池閣や彦根城は趣がありました。今日も30度を超える真夏日でしたが、天守閣の中、沼や堀の周りは涼しかったです。



高2C組 トミー 彦根城
「彦根城」は、滋賀県彦根市金亀町にある日本の城です。この城を作ったのは「徳川四天王」のひとりといわれる「井伊直政(いいなおまさ)」の息子である「井伊直継(いいなおつぐ・後の直勝)」です。その創建された時の天守閣がそのままの姿で残っています。そういうお城は有名な「姫路城」をいれて全国でも少数しかありません。
この城を作った井伊氏は大河ドラマ『おんな城主 直虎(おんなじょうしゅ なおとら)』や幕末で有名な『桜田門外の変』で殺された大老で知られる「井伊直弼(いいなおすけ)」もそうです。
「関ヶ原の戦い」などの功績を家康に認められて、石田三成の領地だった「近江国佐和山(滋賀県彦根市)」18万石を与えられました。それは家康が西国の見張りと、朝廷を護るために徳川最強の井伊家軍団を配置したといわれています。それだけ直虎に対する信頼は厚かったのでしょうね。
1602年、直政は家康への長年の奉公の過労と、たぶん関ヶ原の戦いでの傷が完治することなく、戦場を駆け抜けた一生を終えました。直政が近江へ移転して来た場所は、石田三成の「佐和山城」でした。この城は「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近に佐和山の城」といわれるくらいの名城でしたが、直政は石田三成が大嫌いだったために、対岸の米原市に城を建て直すつもりだったそうですが、その前にお亡くなりになってしまったために、その計画はつぶれました。直政の死後、嫡男の「井伊直継」が家督を継いたのですが、まだ幼かったので家老の「木俣守勝(きまたもりかつ)」が、家康と相談して直政の「新しい城を」という遺志を継いで、1603年琵琶湖に浮かぶ「彦根山(金亀山、現在の彦根城のある場所)」に彦根城の築城を開始しました。