夏期合宿 名古屋市交通局 レトロ・でんしゃ館 2018年8月10日()

堀田駅−(名市交名城線)−八事駅−(名市交鶴舞線)−赤池駅…レトロでんしゃ館・見学…名古屋市交通局日進工場・取材…赤池駅



神宮前駅で名古屋鉄道を撮影した後、名古屋鉄道、名古屋市営地下鉄を乗り継ぎ、赤池駅近くにあるレトロ・電車館へ行きました。名古屋市電や名古屋市営地下鉄の各車両が展示されています。



レトロでんしゃ館は2000年に、名古屋市交通局日進工場敷地内にオープンした地下鉄・路面電車車両の静態保存施設で、館内には名古屋市交通局でかつて使用されていた地下鉄や市電の車両が3両展示されています。



また、常設・企画展示コーナーや鉄道運転シミュレータがあります。入口の近くにある事務所には、各種資料や鉄道運転ゲームなどの交通局グッズが販売されています。
展示されている車両には自由に入られ、車内には当時の新聞記事やポスターなどが展示されています。




名古屋市交通局1400形電車 軽量化に留意し、流線型をとり入れるなど、従来の名古屋市電の車両からモデルチェンジした車両です。昭和戦前期の日本の路面電車を代表する形式のひとつです。



1400
形は1936年から1937年にかけてまず20両が投入され、汎太平洋平和博覧会の観客輸送に備えました。その後も5次にわたって増備が続き、1941年から1942年月の最終増備まで日本車輌製造・木南車輌製造・新潟鐵工所により、75両が製造されました。




名古屋市交通局3000形電車 連接構造を採用した2車体3台車の車両です。戦時中の工員輸送を目的に、資材に特別の割当を受けて製造された車両です。2600形に続く2形式目の2車体連接車として、1944年に木南車輌製造によって10編成が製造されました。



低床型・間接制御方式で設計されたましが、電気部品が納入されず、電動機や制御器は旧型から捻出して竣工し、戦中戦後は収容力を活かしました。車体は側面窓配置
1D3D3の車体を背中合わせに2両1組としており、張り上げ屋根を採用。前面は1400形の流れを汲む3枚窓です。



「木南スタイル」とよばれる、深いカーブのデザインです。前面中央窓上に付けられた方向幕の上に小型の水切りを設けました。前灯は竣工当時は方向幕上に設けられていましたが、戦後に前面中央窓下に移設されました。



中央の連接台車も低床型を採用したため、車内はフラットになり、側窓の天地寸法も扉間と連結面側が揃えられました。直接制御方式で、モーターは
50PSのものを2基装備しました。




名古屋市交通局2000形電車 1956年から1958年にかけて29両が日本車輌製造と輸送機工業で製造されました。名古屋市電の中では最後の新形式となる車両です。同時期に投入された800形がメーカーが提案・主導して、新機軸をとり入れて製造された車だったのに対し、2000形は当時の路面電車車両の最新技術を集大成した仕様となりました。



車体構造は、
1900形(1902以降)を引き継いで、床下まで一面をスカートで覆う形となっているが、側面窓配置が1900形までとは異なり、運転台直後の小窓が省略されました。従来車両では中央を除く乗降扉は2枚引き戸か折り戸を採用していましたが、この車両では全てが1枚引き戸となったことから、従来小窓があった部分までドアを拡大したためです。



側面窓も全面的に大型化され、上段窓下部がサッシュレスとなり、下段窓上部のアルミ枠が細かったので、同じような窓構造を採用したモハ
71001同様、一枚窓のように見え、集光性が高まりました。前面は1800形以降の新車同様、方向幕の左右に通風器のルーバーがついたオーソドックスな3枚窓です。集電装置は、ピューゲルに代わってZパンタを採用しています。空気ブレーキには、ブレーキシューでなく電機子軸を外締め式のブレーキドラムで締める方式を採用しました。




名古屋市交通局100形電車 名古屋市営地下鉄東山線で使用されていた通勤形電車です。1957年の東山線名古屋駅〜栄町(現・栄駅)間開業に際して導入され、1963年までに40両が製造されました。ボディーマウント構造・モノコック車体を採用し、車体塗装は画家の杉本健吉により選定された菜種色(黄色、ウィンザーイエロー)でその塗装から「黄電」と呼ばれました。



この塗装は名古屋市営地下鉄の普通鋼製車両全般に使われましたが、東山線では車体に帯を巻かない車両を用いるため、やがて「黄色が東山線のラインカラー」となりました。全長
15.5 m級、幅2.5 m級の片開き3扉車体です。3扉で扉間の窓が4枚というのは市電車両(路面電車)と共通していました。



床下機器には当時新規製造されていた市電車両と同様に静寂性を重視して弾性車輪が採用されました。車輪径
762 mm、台車軸距1800 mmと足回りもコンパクトサイズです。朝の混雑が激しい藤ヶ丘方の先頭車は、戸袋窓の破損防止のためガラスの代わりに車体と(室内側は壁と)同色のボードをはめました。1988年までに全車が廃車されました。



先行試作車として製造された
101号は下之一色線での試験運行時には貫通扉上に方向幕が設置されていましたが、営業運転開始時に撤去され、量産車と同様に貫通扉に方向板が設置されました。本形式から1975年までに製造された東山線・名城線車両は、すべて室内照明が天井の両隅、側壁上部に設置され、荷棚がなかったです。




高2B組 高神の剣凪 名古屋市営地下鉄
名古屋市営地下鉄は、名古屋市交通局が運営する地下鉄である。現在は6路線で、営業中で守山区を除く名古屋市15区と日進市に路線を持ち営業キロ数は93.3km、駅数は67駅、車両数は788両を数える。一日あたりの乗車人員は約129万人。なお、名古屋市の例規上の正式名は、名古屋市高速度鉄道である。名古屋市による市営地下鉄の建設計画は、人口が100万人を突破した1936(昭和11)年に発表されたものが最初である。この計画によれば、以下の7路線約52kmを2期に渡って建設する予定であった。この計画は、地下線での計画を基本にしながら、田端 - 市役所や桜山 - 柴田などでは高架線での建設も予定されていた。その後、1937(昭和12)年に名古屋駅が笹島から現在の位置に移転すると、1938(昭和13)年6月、その跡地に関西急行鉄道の名古屋乗り入れにあたって地下に関急名古屋駅(現:近鉄名古屋駅)が建設され、名古屋で初の地下線による鉄道が開業した。日中戦争の長期化により、名古屋市の財政が悪化する一方で、軍需産業都市としての発展もあり、1939(昭和14)年に臨時名古屋市並近郊交通調査会が発足し、地下鉄計画を再検討した結果、以下の基本4路線約29kmが発表された。この基本計画のほかに将来計画として大規模な地下鉄整備計画も発表されており、実際にボーリング調査の準備まで行われたものの、第二次世界大戦開戦の影響により、具体的な着工までは至らなかった。戦後になるとまず、1946(昭和21)年1月、高速鉄道網検討用基礎案として以下の4路線約43kmが立案された。これは、戦災復興のため将来人口を200万人と想定した都市計画として立案されたため、鉄道着工よりも鉄道用地を先行確保するのが主目的の計画であった。この計画では、平田橋、上飯田、守山、八事などで既存の鉄道との相互乗り入れが重視されていたため、現在の地下鉄路線とはかなり違う経路を通っているものが多い。1950(昭和25)年1月19日には建設省告示第9号でこれらのうち約48.4kmが名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網として都市計画決定された。この都市計画決定は、日本国有鉄道(国鉄)名古屋駅0番ホームを借り受け、そこに地下鉄を乗り入れ、栄生まで延長し名鉄名古屋本線と相互直通運転をする計画のほか、名古屋市、名鉄、近鉄の三者の協定により、新川橋、八田、大曽根、水分橋でも相互直通運転をすることが予定されていた。その後、建設資金分担や国鉄ホームの使用を巡る問題などにより、上記計画は頓挫した。名古屋市は独自に相互直通を前提とせずに地下鉄を建設することになり、第三軌条方式を採用し、すでに免許を取っていた名古屋 - 田代間及び市役所裏 - 金山間の早期開業を図った。1954(昭和29)年8月には名古屋 - 栄町間について着工し、1961(昭和31)年には名古屋市電下之一色線での試作車による運行テストを開始した。1957(昭和32)年1115日常、名古屋市営の最初の地下鉄として、名古屋 - 栄町(現:栄)間2.4kmが開業した。当初の料金は名古屋 - 栄町間で大人15円・小児8円の均一制。名古屋市内の1世帯に1枚ずつ試乗券が配布されるようになった。



高2D組 リョー レトロでんしゃ館(名古屋市 市電・地下鉄保存館)
名古屋市を走っていた市電の代表的な車両(1400型、2000型、3000型)3両と、昭和32年の地下鉄開業当時に名古屋・栄町間を走った100形車両の2両とその台車が展示されており、展示車両は実際に車内に入って見学することができます。保存されている地下鉄100形や市電2000型は乗ることができ、さらにイスに座ることもできます。地下鉄100形のイスはふかふかで度座ったら動きたくなくなるほどの座り心地の良さでした。鉄道模型ジオラマでは、部の車両は自分で運転することができ、楽しんで運転している様子を見ることが出来ました。