横浜中華街・港の見える丘公園を散策 2017年10月3日()

滝頭―(横浜市営バス)―横浜スタジアム…横浜中華街・昼食…港の見える丘公園…外人墓地…横浜埠頭



横浜市電保存館を見学した後、横浜市営バスに乗って中華街へ行きました。中が街で中華料理を食べた後、港が見える丘公園、外人墓地や洋館を見学しました。



横浜スタジアムでバスを降り、中華街大通りを歩きました。



横浜翠鳳本店という店で、中華料理を食べました。



昼食の後、港の見える丘公園へ行きました。



港の見える丘公園のフランス山区域にあるフランス領事館の遺構を見学しました。フランス山は、幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯した所です。フランス領事館遺構は、1930(昭和5)年、スイス人建築家ヒンデルの設計で建てられた領事官邸です。



横浜は、1859(安政6)年6月2日に開港しました。一方で1862(文久2)年のイギリス人殺傷事件(生麦事件)など、攘夷派の浪人などによる外国人殺傷事件が起きました。そのため、イギリスとフランスは、横浜居留地へ自国軍を駐屯させました。フランス軍は、1863(文久3)年からフランス山に駐屯を開始、イギリス軍は1864(文久4)年から山手115番から116番に駐屯をし始めました。



1875(明治8)年にフランス軍が撤退した後のフランス山には、領事館の建設が予定され、1896(明治29)年、領事館と領事官邸が完成したが、関東大震災によって倒壊しました。1930(昭和5)年、スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計による領事官邸が再建されましたが、1947(昭和22)年に不審火で焼失しました。現在残されているのはその遺構です。フランス領事館遺構の横に設置されている風車は、井戸水をくみ上げるために設置されたものです。




次に、港の見える丘公園の展望台から横浜ベイブリッジなど横浜港を見渡しました。



外国人墓地、イギリス館、山手111番館を見学しました。



横浜の外国人墓地には、19から20世紀半ばにかけての約40ヶ国、約4400人の外国人が埋葬されています。1854(嘉永7)年に、2度目の来航により横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズがフリゲート「ミシシッピ」のマスト上から誤って転落死しました。艦隊を指揮していたマシュー・ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことに由来します。



その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861(文久元)年に外国人専用の墓地が定められました。3月から12月までの土・日と祝日に公開されています。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館もあります。




アメリカ人の両替商ラフィンは、乗船していた船に修理の必要が生じ、予定に無かった横浜に立ち寄ることとなりました。修理を待つ間箱根に出かけたラフィンは、そこで出会ったミヨと結婚し、横浜で暮らすことになりました。ラフィン夫妻は8人の子供に恵まれ、この家は結婚する長男のために1926(大正15)年に建てられたものです。



ラフィン夫妻の手を離れたのちに所有者は数度変わったものの、創建当時の意匠がほぼ残っています。1996年に横浜市の所有となり、1999年より一般公開されています。199911月には、横浜市指定有形文化財に登録されました。現在は港の見える丘公園の施設として、館内を一般公開しているが、建物保護のため2階の回廊の公開は月1回程度に限られています。地下1階ではカフェが営業されています。




港の見える丘公園を散策した後、横浜埠頭の入口にある貨物線跡を撮影してから、氷川丸を見学しに行きました。