路面電車の動く博物館 広島電鉄 2017年8月2日()

ホテル…胡町―(広島電鉄)―紙屋町西・広島電鉄・撮影―(広島電鉄)―広島駅―(広電貸し切り電車)―広電本社前



本日、鉄道研究部は、広島電鉄本社にある千田車庫を取材しました。朝のラッシュ時ならば、650形も運行していると聞き、紙屋町西へ行き朝のラッシュ時を行き来きする電車を撮影しました。



紙屋町停留場は広島駅前から広島の中心街を通り広電西広島駅までを結ぶ本線と、広島の中心街から南へ伸び広島港までを結ぶ宇品線の2路線が接続する停留場です。



紙屋町停留場は、広島市の幹線道路である相生通りと鯉城通りが交差する紙屋町交差点にあり、広島の繁華街の中心地です。交差点の紙屋町東・紙屋町西の停留所があります。



1912(大正元)年1123日に開業しました。元々は旅客案内上でも東西両方の停留所を合わせて「紙屋町」と称していましたが、2001111日より東西の停留所を紙屋町東と紙屋町西に呼び分けられる様になりました。



広島電鉄が定める乗換え指定電停の一つであり、紙屋町停留場で行先の異なる電車どうしを乗り継ぐことができます。乗り換えの際は紙屋町東・紙屋町西の両停留場に加えて、南隣にある宇品線の本通停留場も同一の停留場として扱われ、これらを相互に移動することができます。



3950形電車。1997年に登場しました。3900形に次ぐ連接車です。アルナ工機(現・アルナ車両)で製造されました。3900形のマイナーチェンジ形で性能的には変わりませんが、ヘッドライトが従来の2灯式からバス用の部品を利用したロービームライトとハイビームライトを別々にした4灯式となりました。ロービームライトには日本の鉄道用車両では初採用となったプロジェクター式ヘッドライト(ハロゲンランプタイプ)が採用されました。グリーンムーバー5000形に繋がる物になっています。3900形と異なりパンタグラフがシングルアームとなりました。はこの形式も「Green Liner」(グリーンライナー)という愛称です。合計6編成が製造されました。当初は全車が宮島線直通電車の用途として導入されました。



1000(2代目)電車。2013年から運用を開始した路面電車です。1000(初代)は、広島電鉄とその前身会社で、1922(大正11)年に導入された宮島線用高床車C形を、1939(昭和14)年に改番して誕生した車両です。2代目1000形は、2013年に千田車庫で出発式を開催し、7号線(横川駅―広電本社前間)・8号線(横川駅―江波間)・9号線(白島―江波間)の直通運用で運行しています。2014年に2編成が増備され、5号線(広島駅―比治山下―広島港)でも運行される様になりました。2016年に1009号が投入されてから3号線(広電西広島―広島港)にも運用される様になり、広電全ての路線で超低床車両(1000形、5000形、5100形)が運行されることになりました。



3900形電車。1990年に登場しました。愛称は「ぐりーんらいなー」、3950形は英文表記であるため、ひらがな表記としては最後です。3800形に続く連接車です。3800形のマイナーチェンジ形でモーター出力が60kwから85kwにされ、加速・減速がスムーズになりました。市内線と宮島線を直通運用出来ます。合計8編成が製造され、宮島線の主力として運用されています。



3100形電車。3100形は、後年2500形を3車体連接構造化し、冷房装置の搭載など各種改造が実施された車両です。2500形は、広島電鉄が市内線から宮島線への直通運転用車両として、1961年から1967年にかけて導入した2車体連接構造の路面電車車両)です。1985年から1986年にかけて、3車体連接編成化が施工され、改造後に3100形と改称・改番されました。車番は西日本鉄道から譲り受けた1300形より採用され、1編成全車を同一の車番とし、車番末尾にA・B(先頭車)とC(中間車)の記号を付けて区分する方式に改められました。



800(2代目)電車。1983年に700(2代目)に次いで登場しました。1997年までに14両が製造されました。製造当初の車体は、同時期に製造された700(2代)と殆ど同じでした、集電装置をZパンタに変更、三菱電機製の回生制動付電機子チョッパ制御に変更、駆動装置などを平行カルダン駆動に変更し、台車の軸バネにシェプロンゴムを採用しました。製造年により、その時の連接車のデザインを取り入れ変化しています。駆動装置の機器などには大きな変更はないです。



5000形電車。アルミニウム合金製の車体、5車体6軸の関節式連節車で、100%低床車です。1999年から2002年にかけてドイツのシーメンス社で12編成が製造されました。愛称は、GREEN MOVERです。日本では熊本市交通局9700形電車に次ぐ、2例目の100%低床電車です。広電宮島口側から順番にA・C・E・D・Bの各車で構成されます。A・B車に動力台車、E車に附随台車があり、C・D車には車輪がない「浮き車体」になっています。各車間は関節で結ばれています。編成の長さが、軌道運転規則で定められた30m以内に収まらないため運輸省(現・国土交通省)の特認を受けています。車体の外観はオリジナルのコンビーノをベースに日本でデザインした前面を組み合わせました。客用窓は固定式、客用扉はプラグ式で、左側面はA・C・D車に、右側面はC・D・B車に設けられています。前面とライト下のスカートは取り外し可能で、中に非常時に他の車両と連結するための連結棒があります。座席はA車、B車とE車にはタイヤハウス上にクロスシートが設置され、C車とD車についてはバケットタイプのロングシートが設置されています。広島電鉄で初めて、車内に次の停車駅等の案内表示器が付きました。連結部上部に1行分のLEDパネルが設置されています。冷房装置はA・B車に運転室用と、C・D車に客室用を搭載しています。集電装置はシングルアーム式をC・D車に搭載しています。制御装置はPWMIGBT-VVVFインバータ制御方式を採用し、屋上に搭載したトラクション・コンテナに内蔵されています。制動装置は、回生ブレーキ優先発電ブレーキを常用するほか、非常用として電磁吸着式のトラックブレーキを備えています。バリアフリー化推進功労者表彰・内閣官房長官賞を受賞しました。



650形。1942年に広島電鉄に新製配置、在籍中の路面電車車両です。194586日午前815分、広島市への原子爆弾の投下で全車が焼損と全半壊しつつも、3両が走り続ける被爆電車です。



350形電車。宮島線と市内線との直通運転を目的として導入された550形の運用を踏まえ、1958年に新製された850形が、1971年に350形と改称・改番され、市内線で運用されています。350形は、設計最高速度が60km/hに引き上げられ、宮島線内における高速運転に対応する性能を備える車両となった。350形の後に直通運転用車両として新製された2000形・2500形と比較すると、常用制動が空気制動のみなので高速からの制動力不足があり、市内線へ転用、1971年に形式も850形から350形と改められました。350形は、現在でも宮島線への直通認可をもっていますが、宮島線内に設置されている自動列車停止装置(ATS)の車上装置がないので、営業列車としては宮島線へ入線出来ません。350形は、広島電鉄にある車両中で唯一の間接非自動制御車であり、運転士養成、乙種電気車免許取得の教習・試験車両としても使用されています。



3800形。1987年に登場しました。愛称は「ぐりーんらいなー」。3700形に次ぐ連接車です。広電で初めてVVVFインバータ制御が採用されました。市内線と宮島線を直通運用出来る車両で、床面高を780mmと従来より低いです。宮島線の主力として9編成が製造されました。全車両自動連結器が設置可能な設計になっています。運転士養成、甲種電気車免許取得の時に教習・試験車両としても使用されます。



1942年に広島電鉄に新製配置された650形電車、宮島線と市内線の直通対応車両として1958年に導入された350形、1978年に京都市電(京都市交通局)より広島電鉄に移籍した1900形、1985年から1986年にかけて3連接車に改造された3100形などの古い車両から、1999年から2002年に製造された5000形グリーンムーバーや2005年から2008年に製造されたグリーンムーバーマックスなど新しい電車まで、様々な電車が往来していました。



紙屋町西で朝ラッシュの賑わいを撮影した後、広島駅へ行きました。広島電鉄の広島駅電停は山陽本線広島駅の駅前にあります。



広島電鉄全8系統の路線のうち、4系統の路線が乗り入れます。次々と電車が発着し、いつもいずれかのホームに電車が停車しています。



終着駅で利用者が多いので乗車地と降車地が別になっていて、到着電車は奥の到着ホームで降車扱いをし、エンド交換をし、乗車ホームへ移動し、乗客を乗せてから出発します。



広島港(宇品)方面行きの5号線系統だけは専用の発着ホームで乗降扱いを行っています。




ここでも、被爆電車として有名な650形が来ました。



広島駅で荷物をロッカーに押し込んだ後、広島駅から広電本社前まで貸し切り電車に乗りました。



貸し切り電車は、1904号車でした。部員たちは、1904号車に乗れて凄く喜びました。1904号車は、1957年に製造された旧京都市電900形です。京都市電が全線廃止となる頃、197710月の河原町・七条線廃止時に先行して広島電鉄に移籍した電車です。



1900形の正面は、行先表示器が大型・電動化され、京都時代についていた前面上部の「ワンマンカー」行灯が撤去、運転台の窓下に青色のワンマン表示板が設けられました。



現在でも京都市交通局の局章をあえて各車両ドア付近に残しています。前面・側面の系統板受け下部の広告を取り付ける部分に、1両ずつに京都にちなんだ愛称板を取り付けました。



最初に登場した1908「あらし山」と次の1904「かも川」(実車の表記はひらがなを用いている)は広電が命名したものですが、三例目以降は広電が選んだ京都にちなむ地名20候補から、利用客に対するアンケート投票を実施しました。「嵯峨野」「祇園」など13点が採用され、各車両に掲出されました。集電装置は、ビューゲルからZパンタに交換されました。台車、電動機などの駆動装置は、京都時代のままで使われています。