八高線に乗って帰京   2017年4月4日()

高崎駅―(八高線)―拝島駅―(青梅線)―立川駅・解散



今日は八高線の接続が良かったので、高崎駅から八高線に乗りました。八高線は、八王子駅から高崎市の倉賀野駅までを結ぶ東日本旅客鉄道の鉄道路線です。実際の運行は、倉賀野駅を発着する全列車が隣駅である高崎線の高崎駅を起終点とします。



八高線の「八」は八王子に由来し、「高」は高崎に由来します。東京都内のJR線では最後まで非電化のまま残されていました。



1996年3月16日に高麗川駅より南側が電化されました。その際に運転系統は高麗川駅を境にして南北で分断され、高麗川駅以南の列車は川越線との直通運転を行うようになりました。高麗川駅以北の区間は埼玉県内では唯一、かつ群馬県内ではわたらせ渓谷鉄道線とともに数少ない非電化区間です。




部員たちは、車窓の景色を眺めながら、鉄道旅行を楽しみました。



卒業生 ユーキ
今回の鉄道研究部春期合宿は、日で長野に行った。初日は中央線と篠ノ井線を乗り継いで、長野へ向かった。長野に到着後は長野電鉄に乗車。元小田急ロマンスカーであった特急「ゆけむり」で湯田中に向かい、足湯に浸かり、旧駅舎・スイッチバック跡地を見学。折り返しの電車は、さよなら運転時にマッコウクジラと言われた元営団地下鉄日比谷線3000系であった3500系。1964年の東京オリンピック、1998年の長野オリンピックとつの大イベントの多客輸送で活躍した。国内でつのオリンピックを影で支えてきた3500系も誕生から約50年が経ち、そろそろ置き換えも考えられる。3500系で信州中野へ向かい、信州中野からは元成田エクスプレスの253系であった特急「スノーモンキー」に乗車。個室の予約が取れたため、人で長野までの快適な旅を満喫した。朝から晩まで電車移動。さすがに疲れてしまった。日目はしなの鉄道線の快速電車に乗り、上田へ向かった。車両は、全国的に急速に数を減らしている115系。国鉄時代の懐かしいモーター音。廃車が進んでいることを考えると寂しさを感じる。上田で上田電鉄別所線に乗り、別所温泉を経由して下之郷へ。下之郷では、上田電鉄の車庫を見学した。上田電鉄は東急グループのつであり、元東急7200系や1000系と東急電鉄で活躍していた車両が走っていた。東急線沿線に住んでいる私にとって、懐かしさを感じることが出来た。また東急電鉄初のセミステンレスカーである5200系が車庫内で保存されていた。東急5200系は私たちにとってあまりなじみのない車両だが、初のセミステンレスカーとして現在の車両に影響を与えたのは間違えないだろう。上田電鉄の車庫見学終了後、篠ノ井経由で松本へ向かった。松本からはアルピコ交通に乗り、新島々経由で新村に向かった。新村では、アルピコ交通の車庫を見学した。車庫内には、元東急電鉄の初代5000形と元京王電鉄の3000系電車が保存・留置されていた。元東急電鉄の初代5000形は、東横線や大井町線など東急線で幅広く活躍した車両だ。私は、東急線で活躍したことよりも、渋谷のハチ公広場に保存されているカットモデルの方がイメージが強い。最後まで現役で動いていた熊本電鉄から引退し、国内を走る初代5000形は消滅してしまったが、初代5000形の功績が現在の車両にも活かされていることは言うまでもないことである。建屋内に移動すると、元京王電鉄の3000系が留置されていた。3000系は元京王電鉄井の頭線用の車両であった。私は日本学園に年間通ったが、中学の年間は3000系が現役で井の頭線を走っていた。通学でお世話になっていた車両が地方で元気に活躍している姿をみて感動してしまった。これからも末永く走って欲しいものである。見学を終えた後は松本へ戻り、篠ノ井線でホテルがある長野へ向かった。日目は東京へ帰る日だった。篠ノ井線の快速に乗り、松本で中央本線に乗り継いで小淵沢へと向かった。小淵沢から八ヶ岳高原線とも言われている小海線に乗車。JRの最高地点と最高駅の野辺山駅は小海線にある。高い標高を走っていることで有名な小海線であるが、公害にも悩まされていた。それは「ヤスデ」である。ヤスデはムカデに似た節足動物である。小海線に限らず山岳地帯を走る路線はヤスデ問題に直面していたが、最もひどかったのが小海線であった。1976年の秋、小海線の甲斐小泉〜野辺山間でヤスデが大量発生し列車が本立ち往生し、12本の列車が運休となった。ヤスデがいなくなる10月末までの約ヶ月の間、ヤスデの駆除のために延べ331人が動員され、人件費や殺虫剤、代替輸送費などで約430万円の費用がかかったという伝説が残っている。素晴らしい景色を眺めながら駅弁を食べ、小諸駅へと向かった。小諸からはしなの鉄道線で軽井沢へ。別荘地軽井沢を通るしなの鉄道線からの景色はひと味違った。軽井沢に到着後はJRバス関東で碓氷峠を降り、峠の釜めしで有名な信越本線の横川駅へ向かった。軽井沢と横川の標高差は約500m。この高低差の場所を昔は列車が走っていた。信越本線の横川〜軽井沢間は鉄道の三大難所の1つであった。北の板谷、東の碓氷、西の瀬野八。今残るのは、北の板谷と西の瀬野八。碓氷峠には66.7‰の勾配があった。66.7‰は1km66.7m登るという意味である。66.7‰という数字は、他では見られない驚異の数字だ。信越本線で高崎に出た後、高崎線と八高線の班に分かれ、流れ解散となった。今回の合宿は懐かしい車両と出会うことが出来た。言い方を変えれば、第の人生スペシャル。後輩達も懐かしいと口にしていた。合宿で学んだことも沢山あった。春休みの最後にいい思い出が作れた。春休みも終わり、いよいよ新学期が始まる。良い1年が過ごせるよう努力していきたいと思う。