碓氷峠鉄道文化むら    2016年9月5日()

新宿駅―(湘南新宿ライン)―赤羽駅―(高崎線快速アーバン)―高崎駅―(信越本線)―横川駅…碓氷峠鉄道文化むら・見学…横川駅



本日は、青春18きっぷを利用し、碓氷峠鉄道文化むらへ行きました。赤羽駅から部員たちを乗せ、高崎線快速電車は、北へ北へと力走しました。



高崎駅で、普通電車のクハ115に乗り横川駅へ行きました。



実は、鉄道研究部は、1997年3月31()に間もなく長野新幹線が開通し、横川・軽井沢間の在来線がなくなると聞き、横川・軽井沢間の路線を見学していました。



1885年に上野駅・横川駅間が、1888年に軽井沢駅・直江津駅間の鉄道が開通しました。1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道が、横川駅と軽井沢駅を結んでいました。



1893年に後の信越本線である官営鉄道中山道線が、横川駅・軽井沢駅間を開通しました。この区間は、碓氷峠を越えることから碓氷線、または横川と軽井沢から横軽(よこかる)とよばれました。



横軽区間はトンネルが多いので、蒸気機関車で走ると、乗務員が煙で吐血や窒息にみまわれました。1911年に横川駅付近に火力発電所が建設され、1912年に幹線としては日本で初めて電化区間となりました。



電気機関車の運用により、横軽区間の所要時間が80分から40分に短縮されました。第2次世界大戦後、輸送力を増強するために、最大66.7‰ の急勾配を一般的な車輪による粘着運転で登坂することになりました。1963年、従来の横軽区間の北側をほぼ並行する路線で新線が開通しました。



1966年にアプト式路線が廃止され、旧アプト式線の一部を改修工事し、複線となりました。そして、横軽区間の所要時間が40分から下り列車は17分、上り列車は24分なりました。



横軽区間を通過する車両は、車体の挫屈を防止するために台枠と連結器を強化されました。編成は、最大8両に制限されました。1968年以降には、EF63形との協調運転により最大12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式の末尾番号が9)が投入されました。



横軽区間の急勾配は、通常の車両では対応できず、登坂力とブレーキ力を補うためにEF63形を補助機関車として連結することとなりました。電車や気動車もこの区間では、補助機関車の動力のみで走行することになりました。



当時は、横川駅は、特急「あさま」が次々と来て、EF63と連結、切り離し作業が行われ、活況を呈していました。写真は、急行「信州」。



今は、横川駅―軽井沢駅間の在来線が廃止され、横川駅の行く先が碓氷峠鉄道文化むらになっています。



鉄道文化むらは、かつての横川・軽井沢間を結んでいた信越本線の急勾配区間に関する資料を中心に展示しています。入館して早速、上野・長野間を走っていた特急「あさま」クハ189506を見学しました。



クハ189系は、183系1000番台を基本として最大66.7‰の急勾配区間がある信越本線横川駅―軽井沢駅間にてEF63形電気機関車との協調運転装置を搭載した車両で、上野寄りに連結された先頭車(クハ189形500番台)は、EF63形(重連)と連結しながら重連総括運転が行われていましたが、横川―軽井沢区間の廃止に伴いEF63形電気機関車との重連総括運転については終了しています。



次に、横川・軽井沢間の急勾配を行き来する電車に連結されていた電気機関車EF62−54・EF63−10を見学しました。



EF62は、国鉄の最急勾配路線であった信越本線の碓氷峠越え区間に直通する列車の牽引用に開発された直流電気機関車です。急勾配での運用に対応した特殊設計がなされています。1962年に先行試作車の1が完成し、その後1963年から1969年にかけて量産車53両の合計54両が製造されました。



その奥にある、アプト式電気機関車ED421を見学しました。ED42直流電気機関車は、横川−軽井沢間のアプト式専用特殊電気機関車です。ED40・ED41形を基本に1933年から28両製造されました。



1台車1電動機で前後の粘着台車は連結棒、中間のラック台車は歯車の動力を伝達します。運転台は横川寄りにあり、機関士堰と助手席が逆になっています。パンタグラフは横川と軽井沢構内だけで使用し、途中は第三軌道により給電します。その端子が前後の端にあります。



次に野外展示スペースの保存車両を見学しました。山陽本線、瀬野・八本松間の峠越え補助機関車として登場した直流電気機関車EF59−1を見学しました。EF59形は、1964年に登場した日本国有鉄道の直流用電気機関車です。山陽本線の瀬野−八本松間にある「瀬野八」と呼ばれる22.6‰が連続する勾配区間の補助機関車(補機)として使用するためにEF53形とEF56形から改造されました。



写真は、勾配区間の多い上越線・奥羽線に配備されたEF53−2です。EF53-2は、EF52形電気機関車を基本に改良を重ね、旅客列車用として誕生しました。当初は東海道本線で活躍していたが、晩年は高崎線に配備され、後に山陽本線瀬野〜八本松間の勾配用補助機関車EF59に改造されました。



写真は、EF63−1です。EF63は、信越本線横川―軽井沢間の碓氷峠専用の補助機関車としての役割に特化して開発された機関車です。このことから「峠のシェルパ」、もしくは形式称号から「ロクサン」の愛称があります。



東海道・山陽・東北本線・上越線・高崎線の旅客車を牽引したEF58−172です。EF58は、1950年代から1970年代にかけ、東海道・山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線黒磯以南といった主要幹線で、旅客列車牽引の主力として用いられました。末期には、1978年に電化された紀勢本線にも配備されました。



写真の左側の電気機関車は、関門トンネル専用の電気機関車EF30−20です。関門トンネルを挟む山陽本線下関− 門司間では、1942年の開通以来、直流1500Vで電化され、これに対応するEF10形電気機関車が専用機関車として用いられていました。しかし、1961年に鹿児島本線門司港−久留米間が交流電化される際に門司駅構内も交流20000Vで電化され、下関寄りにある関門トンネル入り口付近にデッドセクションを設置して電気的に分割することになったため、下関−門司間を直通する客車列車・貨物列車の牽引には、双方の電化方式に対応する交直流電気機関車が必要となりました。そこで、直流電化区間である関門トンネルと交流電化区間の門司駅を直通可能で、なおかつ関門トンネル内の22‰勾配を重連で1200t貨物列車の牽引が可能な交直流電気機関車として開発されました。



写真は、D51−96です。D51形蒸気機関車は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車です。主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産され、所属両数は総数1115両で、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大です。「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなりました。



高2B組 コーチ 碓氷峠鉄道文化むら
 今回は碓氷峠鉄道文化村に行きました。そこにはたくさんの保存車がいます。国鉄の機関車や客車などが保存されています。碓氷峠で活躍したEF63やED42などがいます。EF63は静態保存されているEF63-1や動態保存されているEF63-12その他にもあと数台EF63がいました。そのうちのEF63-18はシュミーレーターとして使わせていました。他にも碓氷峠鉄道文化村にはED42、オシ17、お座敷列車くつろぎ、DD54、キハ30-900番台などといったここにしかいないレアな車両やマニアックな車両もいます。また園内には平成生まれの蒸気機関車が走っていたり、100円を入れて走るフラノエクスプレスなどがあるのでぜひ行ってみてください。



高2B組 ダイキ 信越本線
 信越線は、高崎から長野を経由して新潟に至る路線でした。現在残っている区間は、高崎から横川 軽井沢から妙高高原までは、第三セクターのしなの鉄道が管理しています。長野から篠ノ井までは、篠ノ井線なのでJR東日本が管理しています。妙高高原から直江津までは、えちごトキメキ鉄道が管理しています。JR東日本が直江津から新潟までを管理しています。また、新潟の東西を結んでいます。横川から軽井沢間以外は、信越線が今なお残っています。高崎駅から長野駅・直江津駅を経て新潟駅に至る路線であったが、1997101日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴い、新幹線の並行在来線区間のうち、横川駅 - 軽井沢駅間が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に経営が移管され、当路線は2区間に分断された。さらに2015314日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴い長野駅 - 直江津駅間も経営分離され、長野駅 - 妙高高原駅間がしなの鉄道に、妙高高原駅 - 直江津駅間がえちごトキめき鉄道に移管され、当路線は3区間に分断された。なお分断前においても、全線を直通する列車は、信越本線全線開通後からの一時期をのぞき、なくなっていた。現在信越本線として残されている区間のうち、直江津駅 - 新潟駅間は、新潟県の東西を結ぶ動脈ともなっている。