会津若松を散策 戊辰戦争と白虎隊について学習 2004年5月1日(土)

会津若松駅…(30分)…飯盛山下-(周遊バス)-会津武家屋敷-(周遊バス)-七日町駅



 私たちは、会津若松駅から飯盛山まで歩きました。飯盛山は、会津若松市の中心部から東側にある標高314mです。白虎隊が自刃した地として有名です。白虎隊は、戊辰戦争の時に組織された会津藩の少年たちの戦隊です。飯盛山は、白虎隊士中二番隊が戸ノ口原の戦いで撤退する時、鶴ヶ城の周辺の武家屋敷が燃えている景色を、落城と錯覚し自刃した所です。飯盛山の中腹には、木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)があります。上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されています。飯盛山の頂上からは会津若松市内が一望できます。



 写真は、凌霜隊の碑です。凌霜隊とは、郡上藩が新政府軍の命に従って兵を出しつつ、万が一旧幕府方が勝利をおさめたときの保険として、藩士45名を無届脱藩という形で旧幕府方に参陣させた隊です。宇都宮戦争を経て会津藩の麾下に加わった凌霜隊は、鶴ヶ城籠城戦においても西出丸を守備して戦いました。 凌霜隊は、鶴ヶ城が開城されてから賊軍として本藩に引き渡され、罪人の扱いで囚人とされました。明治3年2月19日に、彼らが赦免されました。



 写真は、白虎隊自刃の地です。自刃の地は、白虎隊の墓より少し山を下った所にありました。ここは、白虎隊が最期にたどり着いた所です。ここから、鶴ヶ城(会津若松城)が炎上するのを見て自刃を決めました。案内板には、「戸ノ口原の戦に利あらず白虎隊士20名が西軍の追撃を受けながらやむなく戸ノ口洞穴をくぐり、この地に辿り着いた時は鶴ヶ城附近の侍屋敷が大火災を起し、天守閣は炎と黒煙に包まれており、主君のもとに馳せ帰るべき最後の望みを失われた。最早や落城は目前に迫る吾等君国に殉ずるはこの機なり、と全員遥かにお城に拝し従容として自刃し相果てた聖地である。」と書いてありました。



 今でもこの場所から、会津若松市中心部が一望できます。



 写真は、烈婦の碑です。案内板には、「この碑は、会津藩戊辰戦役で自刃又は戦士した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。」と書いてありました。



 写真は、少年武士慰霊碑です。裏面には、白虎隊全員の氏名が記されていました。



 写真は、宇賀神堂です。宇賀神堂は、さざえ堂の境内に隣接した所にありまました。寛文年間(1661~1672)に創建されました。会津藩三代藩主松平正容が、宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立しました。社殿には、戊辰戦争の時に飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置されています。



 写真は、白虎隊引上げの洞穴です。 江戸時代の天保年間に会津平野のかんがい用水として使用していたものです。戊辰戦争の時、白虎隊士中二番隊が戸の口原に布陣している味方の軍を応援するために派遣されましたが、鶴ヶ城の安否を確認するために隊士20名が通った洞穴です。



 写真は、厳島神社です。厳島神社は、永徳年間(1381~83)に勧請されたそうです。歴代の領主により、信仰され芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(松平氏)の崇敬社となりました。会津藩三代藩主松平正容は、1700年に社領の寄進や社殿の建立などを行いました。



 私たちは、会津武家屋敷を見学しました。会津武家屋敷は、戊辰戦争で消失した武家屋敷のうち、家老西郷頼母(たのも)邸を復元したものです。復元された西郷頼母邸は、約400坪の面積、35部屋の邸宅でした。会津武家屋敷には、旧中畑陣屋、茶室麟閣を再現した茶室領南庵や、佐々木只三郎の墓などがあります。佐々木只三郎は、「坂本龍馬を暗殺した張本人かもしれない?」といわれている人物です。



 武家屋敷は、鶴ヶ城周辺にありました。頼母の屋敷もその中にあったらしいのですが、鶴ヶ城周辺が戊辰戦争で焼けてしまったので、松平家の墓所があったこの山麓に、焼け残っていた家屋を移築して復元したものだそうです。



私たちは、会津武家屋敷を見学してから、周遊バスに乗って会津鉄道の七日町駅へ向かいました。