茨城交通大湊線 那珂湊機関区    1998年12月11日(金)

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日立電鉄を見学した後、常磐線に乗り、勝田駅へ行きました。



勝田駅より、茨城交通大湊線に乗り、阿字ヶ浦駅へ行きました。



阿字ヶ浦駅から少し歩き、大洗海岸を散策しました。



再び茨城交通大湊線に乗り、那珂湊駅へ行きました。



那珂湊機関区を見学ししました。

茨城交通大湊線の前身は、1907(明治40)年に設立された湊鉄道株式会社です。日清戦争・日露戦争が起きた当時、多くの鉄道は軍事上重要なインフラとして国有化されていました。



湊鉄道線は、一地方の交通・運搬を目的としたものとして私鉄として設立されました。
開通した頃は不況で、資金不足のため用地買収や鉄道の建設工事が進まず、勝田・那珂湊間が開通するまでに6年かかりました。



開通後、湯治客や海水浴場への旅客輸送などを行ってきました。太平洋戦争末期の1944年に茨城交通株式会社に合併されました。戦後、低燃費で輸送力のある鉄道が、地域の旅客輸送・貨物輸送の需要を支えました。



旅客輸送では、群馬、栃木、埼玉県方面からの平磯海岸への潮湯治客、磯遊びなどのレジャー客が多く、夏季には阿字ヶ浦海岸への海水浴客が大幅に増えました。また、貨物輸送には、陸揚げされた鮮魚、特にさんまの輸送が増えていきました。収益は年々伸び、時に前年のおよそ3倍を記録する年もありつつ、1953年に輸送ピークを迎えました。



後からおよそ10年間の短い「好景気」の後、貨物輸送は1952(昭和28)年をピークに車貨物輸送に奪われていき、 旅客輸送も昭和30年半ば頃からモータリゼーションの影響を受けて数を減らしていきます。
沿線の神社仏閣・名所旧跡、縁日などの各種行事の宣伝や売店開設などによる増収努力、 自動券売機設置により一部の駅を無人化するなどの人件費削減などの経営努力をさまざま行いますが、 1984年(昭和59年)に貨物取り扱いを全線で停止、旅客輸送人員も少しずつ減り続け、 2008(平成20)年に茨城交通株式会社時代の長い歴史に幕を閉じることになります。太平洋戦争後、茨城交通株式会社に合併された湊線は新たなスタートを切りました。
戦後は日本中が燃料不足。低燃費で輸送力のある鉄道が、地域の旅客輸送・貨物輸送の需要を支えたのです。
旅客輸送は、群馬、栃木、埼玉県方面からの平磯海岸への潮湯治客、磯遊びなどのレジャー客が多く、夏季には阿字ヶ浦海岸への海水浴客が大幅に増えました。 また、貨物輸送には、陸揚げされた鮮魚、特にさんまの輸送が増えていきました。
インフレによる物価高騰、従業員の待遇改善による人件費の高騰が重なったこともあり、営業成績自体がこのペースで著しく伸びたということではありません。 ただ、収益は年々伸び、時に前年のおよそ3倍を記録する年もありつつ、1953(昭和29)年に輸送ピークを迎えます。
茨城交通は「故障が少なく安定した性能」として日本全国からキハ20系気動車を集めました。1990年代後半に入ると同系で状態の良い稼働車が出ることがほとんどなくなったため、新製車の導入に移行しました。原則として、平日と日曜は旧型と新型1編成ずつ、土曜日は新型のみでの運行となっていたが、20098月のミキ300形導入以降、日曜日でも新型のキハ3710形・キハ37100形およびミキ300形のみで運行されることが多くなり、キハ20タイプの旧型気動車は徐々にではあるが一般運用の機会が減少し、イベントを中心に稼働しています。



那珂湊駅構内で倉庫として使用されているケハ601。1960年新潟鉄工製で茨城交通湊線用に新製されたステンレス気動車です。 総括制御が出来なかったため、ケハ601の登場前に製造されたキハ11を国鉄から購入してからはそちらが主力車両となりました。1992年に廃車になったが、那珂湊構内で倉庫として使われています。



写真の奥に写っている赤いディーゼル機関車は、ケキ102です。
エンジンは気動車用と同じDMH17Cを2機搭載します。かつては101103も存在し、貨物列車や国鉄から茨城交通に乗り入れてきた海水浴臨時客車列車などを牽引しました。近年は工事列車やファン向けのイベント列車程度でしか使用されていない。現在、ケキ102はバラスト散布用の貨車を連結し那珂湊駅の中線に留置されています。