ギフト・オブ・ホープ




*ギフト・オブ・ホープ 21世紀アーティストの冒険/東京都現代美術館
 010408まで/月休/10:00-18:00(-21:00金)/1000円

11人の海外を含めた若手アーティストによる
参加形の展示、もしくは社会を巻き込んだ制作。
またか、という感じ。

近年、美術というカテゴリの境界線上にあるような展示が多く見られ、
これは地球的な問題が共有化されるにつれ、
また経済不況が長引いているということもあり、
社会のほうからの美術に対する「役に立つものを」「わかりやすいものを」
との要請、もしくは圧力が強まってきているためであり、
また、美術自体がそのカテゴリ内で行き場を見失い、
社会の方に望みを託して領域を拡大しているためであると私は考えます。

以前は自分もこういった試みに対し寛容であったように思いますが、
こうまでその量が増え、グレードが落ちてくると食傷ぎみです。
例えば書店で入手できるような情報、つまり書籍やネットで
現在普通に体験できる程度のものを美術館に持ち込んでも、
それを他者と共有できるということ
(それは多分に社会活動のカテゴリに入ると思います)以外には、
美術館という閉鎖的な環境を開いていくという、
これも散々やりつくされた試みとしての価値しかないでしょう。

 八谷和彦のメガ日記の制作当時はともかく今では
 価値が多様化した現代において、自分の人生、生活が
 「正しい」のかどうか不安になる人が増加している状況を反映して、
 私生活や私見を公開する、覗き見るという機会は既に無数に拡がっています。
 その展示はジェニー・ホルツァーのようで美しいのですが、
 今現在、意味があるものかというとどうでしょう。

 また同じく八谷氏のエアボードや島袋道浩の
 明石のタコを東京観光に連れて行くというドキュメンタリーにしても、
 言ってみればマイブームを行動的にしたようなもので、
 書籍やネットの世界では既に一般化しつつあるものであると感じます。

 ナウィン・ラワンチャイクンの展示は
 1960年代にタイから欧州までスクーターで旅をした
 美術家との対話の展示ですが、
 今多く書店に並んでいるアジア放浪記とどこが違うのでしょう。

それを美術と呼ぶかどうかはその時々のマス、
往々にしてメディアやギャラリーが決定することが多いと思いますが、
個人的には、社会活動に回収されてしまうような美術は美術と呼ばず、
別カテゴリにしたほうがよいのではないかと考えています。
今の何でもありの状況は「日本の前衛」の頃と同様に
視点を拡散させるばかりで、展示のグレードを下げるだけです。

 宮島達男らによる柿の木プロジェクトは
 これはもう社会活動であると私は判断します。

 ヤノベケンジは微妙ですが、今回チェルノブイリに
 実際に乗り込んだことにより一線を越えてしまい、
 ただの体験記になってしまった感が否めません。
 アトムスーツの小さな人形が整然と並ぶ展示はいいのですが、残念。

美術においてグレードはやはり大事だと思います。
不特定多数の観衆に心の深いところへの感覚的影響を与えるには
高いグレードは必須なものだと考えます。
M.デュシャンも便器や自転車の車輪をある程度は吟味したでしょうし、
F.G.トレスのキャンディの包み紙や時計にしてもそうでしょう。

 スラシ・クソンウォンやイー・ジンギョンの展示には
 これが極端に欠けています。

参加形の展示となると、成果品のグレードはある程度、
参加者にゆだねられてしまうので
それを見越した作家の戦略が求められると思うのですが、

 壁面の線描にクレヨンで塗り絵をさせる山出淳也の展示や、
 観客に手紙を書かせ、その一部を公開するという
 リー・ミンウェイの試みにはこれが欠けています。

と、いうことで今回の展示、あまり納得しなかったのですが、
唯一の収穫は最初の展示室にあり、
そのせいで落差が強調されてしまったのかもしれません。

 ベアト・ストロイリの展示は都市の生活風景を
 ピックアップした人物をスライド写真でクローズアップし
 切り取ることで提示している、というもの。
 スライドはやや時間を置いて数枚撮られ、ひとつの写真から次の写真へは
 重ねあわされながらフェードイン、フェードアウトします。
 あまりにできすぎで、コマーシャルクリップのような
 演出臭さも感じられるのですが、
 この展示からはなんというか、人に対する愛が感じられます。
 こうしたやさしさの感じられる展示は近年では貴重です。

でも、ほんとうにいいものに接した、もしくは体験したのなら
それが美術かどうかなど、考えたりしないのかもしれませんね。


(01/03/16 h.taki)



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