横浜トリエンナーレ2005




*横浜トリエンナーレ2005 アートサーカス/横浜山下ふ頭など
 051218まで/無休/10:00-18:00/1800円

2001年に第1回が催されたトリエンナーレが1年遅れて実現した第2回め。
30ヵ国、86人の美術家が出展している美術祭です。

主展示場は山下埠頭先端の2つの倉庫と、それにはさまれた中庭で、
山下公園から10分ほど歩くのですが、エントランス付近はルック・デルーによる
インスタレーションを含めたコンテナによる構成でセンスよくまとまっており
会場へのプロムナードも頭上がダニエル・ビュレンによる旗で彩られ、
足場材などを使用し、ローコストながら期待を持たせるイントロ演出に成功しています。

しかし、本会場となっている倉庫に足を踏み入れると、ローコストによる(?)
素人臭い展示空間に、その期待はもろくも崩れ去りました。
それはよく言えば「サーカス」的ですが、悪く言えば「学園祭」的です。
協賛は多く取り付けているのに、なぜ?

これは意図してそうしているのでしょうか?
「トリエンナーレ」と言われると、普通はベネチアやドクメンタを想起し、
各国が今「旬」の美術家を送りこむ、時代の最先端のアートショーだと思いがちですが、
今回はあえてそうした芸術祭のありかたに意義を申し立てているのかもしれません。
なにせ、総合ディレクターは美術家の川俣正氏ですし。

ナウィン・ラワンチャイクンらで構成されたグループ、キュレーターマンによる展示は
まさにそこを突いた、キッチュなものですし、堀尾貞治+現代美術集団「空気」による
100円即席絵画も同様な文脈で捉えられるでしょう。

しかし、1800円もの入場料を払いながら、場合によっては遠方からはるばるやってくる
観客にとっては肩透かしをくらったようで、なかなか納得できないものです。
(これは観客の「おごり」なのかもしれませんが)

また、出展数が多く、見て回るのが大変なことが十分予想されながら、
ヴィデオ作品やパフォーマンス、靴脱ぎインスタレーションが多いというのも、
時代の「ファースト化」へのアンチテーゼなのかもしれませんが、
パスポート制でない1日のみ有効のチケットなどを考えると、現実的とは思えません。

だいたいどこからどこまでがひとつの作品かさえ判断できず、
展示とキャプションとの照合も難しいため、
あとから振り返って記憶に残っていない作品も多くありました。(特に第2室の作品群)

展示空間がラフなせいでスケール感がつかめず、作品としての強度が落ちてしまっているものも
幾つかあり、トニーコ・レモス・アウアッドによる綿や金細工による繊細な作品や
ナリ・ワードによる牛乳パックで作られた大きな鮫なども、本来持っている魅力を
十分に出せていないように思え、残念でした。

空間に静寂が訪れると光るという、ジャコブ・ゴーテル&ジャゾン・カラインドロスによる
「天使探知機」という作品も、ほとんど無意味になっていました。

通常、エスタブリッシュされた清潔な展示空間に置かれ、アンチテーゼとして
チープに作られたであろう展示は、そのまんまチープに終わっています。

逆に言うと、そんな状況では作品の質よりも、いかに手間をかけて精緻につくりこまれているかが
評価軸になってきて、奈良美智+grafによる迷路のようなインスタレーションや
金紙の折鶴で円錐状のタワーをつくったピュ〜ぴる、そして高嶺格による
水戸芸術館「living together-」でのインスタレーション作品をエスタブリッシュしたような
詩的でかつ大がかりな展示が強く記憶に残りました。

特に高嶺氏の展示は人気が高く、列ができていてずいぶん待たされましたが、
「俺だって言われればこんなのもできるんだぜ」と作家が思っているようにも感じる
クオリティがある作品でした。(これは作家の意図と反するのかもしれませんが)

その他では、中庭に綱を張って、その上をミニチュアの動物が歩いているという
マーリア・ヴィルッカラの展示や、さわひらきによる日常空間のなかの影絵の映像、
イングリッド・ムワンギのアブラモヴィッチ張りの、作者の人体に文字を刻むヴィデオ
などが印象に残りました。

全体を通して見て、この企画は今後も継続していくのかどうか、
今一度、再考したほうがいいのではないかと感じました。
展示会場と丁度向かいあう、現代的な大さん橋ターミナルも、なかはがらんとしていて、
とても有効活用されているとは思えず、多額の税金をかけた意味があるのか疑問に思います。


(05/10/11 h.taki)



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