壷中の天地 番外編



その部屋は異様の気に包まれていた。
部屋にいるのは二人。
部屋の主らしき少年とメイド服の少女である。

豪奢な椅子の腰掛けた少年と。
その前で半ば引きちぎられたメイド服に身を包んだ少女だ。

夜も遅いこのような時間にこのような景色であればこの先にあるものは容易に想像がつく。
権勢を誇る家の若当主が金にものを言わせて無力な少女を陵辱する。
いつの世にもあるありふれた光景。
だが、そう言い切るにはこの部屋の模様は常のそれとは少し様子が違うようであった。

少女はまったく身動きをしていない。
一見は恐怖に身をすくませて動けないかのようにも見える。
だが、それにしても様子がおかしい。
半ばまで剥き出しになった胸を隠そうともしていない。
普通、このような状態であればまずは胸を隠そうとするはずである。
それもせず、ただ直立不動で少年の獣のような視線に胸を晒している。
その表情からは男を挑発するためのものとも思えない。
あきらかに少女は羞恥を感じている。
にもかかわらず、身を守るためのなんの動作もとろうとしていない。
まるで何かに強制されているかのように。
いや、それはように、などという観念的なものではないのかもしれない。
たしかに少女は今、なにかの力に強制を強いられている。
それは少女の足元をみればあきらかだ。
少女の白く華奢な足首。

それは地を踏んではいなかった。

少女の足首は床から20cmほど上った地点でぷらぷらと揺れている。
少女の周りにはなにも見えない。
ここで少女を吊るす鎖か縄でもあればその手の趣味のある男には堪えられないところだろうが、そういうものは見えない。
少女を支えるものは何もない。
なのに少女は浮いている。
まるで目に見えない何かの力に絡めとられているかのようだ。
先ほどから少女はまったく身動きをしていない。
身動きしないのではなく何かの力に押さえつけられて動くことができない、そのような状態にあるらしい。
異様と言うしかない状態である。

ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてそれを見る少年の方もまた常とは少し違うものだった。
少年は先ほどから片手の指先で何かをくるくると回している。
学生がよくやるシャーペンを指先で回す芸、あれに似た動作だ。
だが、少年のそれはただの芸と言うには少々はばかりがある。
少年がピンと立てた人差し指の上で回しているもの。
それは白い壷であった。
白磁らしき壷である。
それを指先に乗せて落とすこともなくくるくると回している。
もしもこの壷が数センチほどの小さなものであればさほど不自然ではない。
指先の器用な者であれば同じことができよう。
だが、少年が指先で回しているそれは、大人でも両手でなければ支えられないほどの大きさがあるものだった。
そこまで重くはなかろうが、それでも数キロ単位の重さはあるだろう。
それを指1本で器用に回し続けている。
指1本で数キロ単位の重さのある壷を綿毛か何かのように重さを感じさせることなく回す。
いったいどういう筋力とバランス感覚をしているのか。
あきらかに常の人のそれではない。

異常な状態にある少女と異態な少年との異様な沈黙は続く。

「あ、あの。小狼様」

それを破ったのは少女、さくらの方だった。
沈黙に耐えられず思わずに声をあげてしまった、そんな感じだ。
たしかにこの空気の中を無言で耐えるのは少し厳しいものがあっただろう。
だが、次の言葉は少々間が抜けて聞こえるものだった。

「ご、御用はなんでしょうか」

御用もへったくれもない。
この時間、この状態からやることなど一つしかあるまい。
それでも聞いてしまうのがこのさくらという少女らしいと言えなくもないが。
とはいえ、さすがのさくらもそれがわからないわけではなかった。
こんな時間に男が女を呼び出すことの意味はさくらも承知している。
そして、すでにその体験もある。
今宵が初めてではない。
にも関わらず聞いてしまったのは、今の状態がさくらにとって想定外のものだったためだ。
目の前の少年が異能の力を持っていることはさくらも知っている。
その力を振るうところも何度か見ている。
ただ、その力を無闇に人に使うことはない、そう思っていた。
なにより、今日の月齢はまだ満月に達していない。
少年の異能は月の満ちる夜に最大となる。
それゆえにまだ月の満ちていない今夜は大丈夫、そんな油断があった。
まさに油断だったと言うしかない。
異能とは人の想像など超えたところにあるもの。
なにかが今宵、少年の異能を刺激したようだ。
それがなにかはさくらには想像もつかない。

……のであればそれはそれで問題はなかったのだが。
実はさくらにはさっきから気になっていることがあった。
少年が指先で回している壷だ。
あれには見覚えがある。
見覚えもなにも、あれをこの部屋に置いたのはさくらなのだ。
その時にちょっとした事件があった。
ほんとうにちょっとした、悪気のない悪戯が引き起こした事件だ。
今思い返すと自分にはしては少し大胆なことをしたものだと思っている。
もうずいぶんと前の話だ。
さくらもとうに忘れていたし、もう一方の当事者たる少年の方も忘れていると思っていたのだが。
今の状況を鑑みるとそうではなかったようだ。
少年はただ無言で壷を回し続けている。
その沈黙が不気味だ。

「小狼様、あの」

再度の問いかけにようやく少年、小狼は顔をさくらの方に向けた。
その表情は静かで穏やかとすらいえる。
だが、その中で輝く瞳がそれは偽りの仮面だと告げていた。
鈍い銀色に輝く双眼。
人ならざる者の証。
それがさくらをねめつけている。

「いや、なに。ちょっとな」

そういう声も物理的な音だけならば尋常のものである。
そこに含まれているなにかを除けば、だ。
さくらには小狼の口から放たれた言葉が自分お身体にまとわりつくような錯覚を覚えた。
どうやら今宵の小狼はかなり妖異の度が高いらしい。
その原因はやはりあの時の事件なのだろうか。

「この壷を見てたらあの時のことを思い出してな。お前も覚えてるだろう?」

やはりそうだったようだ。
さすがに今さらそれを、という気になるのは否めない。
それが声に出てしまったのもいたしかたのないことだったろう。

「あ、あの時と言われますと」
「お前がオレを欺いたあの時のことだよ。主人たるオレをなあ。まさかお前がオレを欺くなんて思ってもいなかったよ。あの時までは。お前のことは誰よりも信頼していたのに。ん? なんだ。まさか忘れたとは言わないよなあ?」

そこまで言われるとさすがにさくらもちょっとムッとくる。
そもそも悪戯をはじめたのは小狼の方ではなかったか。
自分はそれにのっただけだ。
多少、悪ノリがあったのは認めるが、それを言ったら悪戯をはじめた小狼も同罪ではないのか。

「あ、あれは小狼様が……ッッ!」

そう反論しかけたさくらの声は途中で握りつぶされたかのように消えた。
全身にかかる力が一気にその強度を強めたのだ。
肺から空気が一片残らず絞り出される。
声が出せない。それ以前に呼吸ができない。
視界が暗くなる。
血液が脳に回っていない。
力に圧迫されて血流も狂っている。
金魚のように口をパクパクさせることしかできないが、空気は肺に届かない。

そんなさくらを面白そうに見ながら小狼は再度、声をかけてきた。

「ん、なんだ? よく聞こえないぞ」

その声に愉悦の響きがある。
抵抗できない弱者を嬲る強者の驕りの声だ。
その声と同時に小狼の指先で回っていた壷が潰れた。
割れた、でも壊れた、でもない。
文字通り潰れたのだ。数センチ程度の大きさに。
野球の硬球を深度数千メートルまで沈めると、強烈な水圧で形はそのままにゴルフボール大の大きさにまで縮まるという。
それと同じだ。
なにかとてつもない力が壷の表面全体に一気にかかって押し潰してしまったのだ。
コロコロと足元にころがってきたそれが奇跡のように元の形を保っていることにさくらは総毛だった。
いったい、どれほどの力がこれを可能にするのか。
それがもしも自分にふりかかってきたらどうなるのか。
むろん「人」がそのような無体なことをするはずはない。
しかし。
今、さくらの前にいるモノは人ではない。
人とは別の生き物だ。この世界の生き物ですらない。
絶対にない、とは言い切れない。
愛を囁きながら平然とその首を引き千切る、そういう生きモノなのだ。

さくらはようやく今宵のこの場所がどういう場であるのかを理解した。
これは断罪の場だ。
罪人を裁き、罰を与える断罪の場。
主を欺いた許されざる卑しいメイドに裁きを与える場なのだ。
裁判官兼任の断罪者は小狼で。
罰せられる罪人が自分だ。
愚かな罪人に発言の自由などない。
許されるのは断罪者の望む言葉のみだ。

「お、許し下さい小狼様……」

全身の圧迫がわずかに緩む。
さくらから贖罪の言葉を引き出すためであろう。
そうとわかっていても小狼の望む言葉を出すしかないさくらだった。

「どうだ。己の罪を思い出したか?」
「はい……。あ、あの時わたしは小狼様を欺きました。卑しいメイドの分際で高貴なる小狼様に偽りを語りました。許されざる所業です……」
「ふん。なかなか殊勝な態度だな。それで? 許されざる所業をお前はどうやって償うつもりだ?」

ごくりと唾を飲み込む。
その先を言ってはいけない。口に出してはいけない。
自ら断罪を望むなど人であることを否定する行為だ。
自ら魔物の家畜に成り下がることを容認する行為だ。
けっして口にしてはいけない。
それなのに。

「い、卑しいメイドにはご主人様のキツイお仕置きが必要です……。しゃ、小狼様。どうか卑しいさくらにキビシイ罰をお与えください……」

さくらの声には自ら家畜に堕ちることに陶酔するような響きがあった。
人間以下に堕ちることに悦びを感じるマゾヒズム。
これも李家が見出したさくらの資質でもあったのだろうか。

「いい心構えだ。覚悟はできてるんだろうな」

もはや小狼は獣欲を隠そうともしない。
滴るような欲望への渇望が声と全身から吹き上がっている。

「あぁ、お許しを……お慈悲を……」

そう言うさくらの声も表情からも被虐を望む卑しい媚は隠しようがない。
宴がはじまる。
獣欲にまみれた淫靡な宴が。
今宵の宴は長くなりそうだ。

END


おまけ。
小狼様今月号はかっこよく活躍してましたし。

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