『もしも』

知世は呆然としてそれを見ていた。
壁にめり込んで燃え上がる車を。
スピードを出しすぎてハンドルを切り損ねたらしい。
だが知世が気にしているのは車ではない。
その車が通過したはずの場所には彼女のもっとも愛する人がいたのだ。
今、その姿は見えない。
まさか。

「さくら、しっかりしろ!」

ハッとして声のした方に顔を向ける。
いた。さくらと小狼だ。
どうやらギリギリで直撃はされなかったらしい。
あわてて二人の側に駆け寄る。

「さくらちゃん!李くん!」
「俺は大丈夫だ。だけど、さくらが!」

さくらは頭から血を流して気絶している。
小狼も血だらけだ。
おそらく咄嗟に小狼がさくらをひっぱって車を避けたのだろう。

「救急車を呼んでくれ!早く!」

そう言われてようやく気を取り直した知世は、震える指で携帯を取り出した。

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『手術中』のランプが灯る病室の前に小狼、知世、桃矢が立っている。
現在、さくらは手術中だ。いったいどれほどの傷なのか、小狼にも見当がつかない。

「お前がいながらこのざまはなんだ!」

桃矢が小狼の襟首をつかみあげながら叫ぶ。

「やめてください!李君は立派にさくらちゃんを守ってくださいました!」

知世が小狼を弁護する。
小狼はうなだれたまま一言も口をきかない。
桃矢に言われたように自分がいながらさくらを守れなかったことを悔やんでいるのだ。

(俺が・・・俺が一緒にいたのに・・・許してくれ、さくら!)

無論、あの状態でさくらを助けることなど誰にもできない。
いや、小狼がいたからこそ致命傷を避けることができたといっていい。
小狼自身も相当の傷を負っている。
本来ならばとても立ち上がれるような状態ではない。
己の身を犠牲にしてさくらを守ったのだ。
桃矢もそれはわかっている。
わかってはいるが、それでも小狼を責めずにはいられなかった。
やがて手術中のランプが消え、医者がでてきた。

「先生!さくらは」
「もう、大丈夫です。出血は多かったですがそれほどに深い傷ではありませんでした」

ホッと安堵のため息をもらす一行。
医者の言う通りそれほどに深い傷ではなかったのか、さくらはすぐに目を覚ました。

「さくら!気がついたのか」
「小狼くん、お兄ちゃん、知世ちゃん?」
「よかった・・・」

意識もしっかりしている。
後遺症が残るような大きな外傷もないらしい。
医者の話では2〜3日で退院できるとのことだ。
すぐに元の生活に戻ることができる。
そう聞いて小狼もようやく安心した。
それがとんでもない間違いだったことはすぐにわかった。

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「どういうことだ、これは!」
「落ち着かんかい、小僧!」
「これが落ち着いていられるか!」

退院したさくらは一切の魔力を失っていたのだ。
もちろん、さくらカードも一切使えない。
それ以前に魔法の鍵を杖に変えることもできない。

「どうしてこんなことに・・・」

イギリスに帰ったエリオルにも尋ねてみたが、そんな話は聞いたことがない、という返事しかもらえなかった。
何者かに魔力を奪われたのか、とも考えたがクロウ・リードを凌ぐほどに成長したさくらと小狼に気配も悟られずにそんな真似が出来るとも思えない。
事故で身体のどこかをおかしくしたとしか考えられなかった。
しかし、それを調べる術がない。
医者はさくらは完治したと思っている。
医者に向かって魔力を失いました、などと申告もできない。
また、申告したところでどうにもならない。
どうしようもなかった。

当座の問題はさくらの魔力を生命としているさくらカードたちだった。
ケルベロスは問題ない。もともと太陽をシンボルとする彼は自分自身で魔力を生み出すことができる。
また、月には桃矢から受け取った魔力がある。この二人は当面は大丈夫だ。
カードたちも今のところは事故の前に受けていた魔力でなんとかなる。
かつてクロウが亡くなった時も生前に残された魔力で数十年は活動できた。
今日、明日にも消滅してしまうということはないが、この状態がいつまでも続いたらどうなるかわからない。

「カードさんたち・・・ごめんなさい」
「元気を出せ。お前がそんな顔してたらカードたちも悲しむ。『なんとかなるよ、絶対大丈夫だよ』だろ?」
「うん!」

小狼の励ましにさくらもなんとか笑顔を取り戻す。
カードさんたちを助けるために頑張らなくちゃ、と自分を奮い立たせる。
しかし、さくらにとって本当に辛いことはまだ始まっていなかった。

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「さくらちゃん」

友枝中からの帰宅途中、知世が前を歩くさくらに声をかける。
事故からもう一ヶ月。
すでに傷も消え、さくらは魔法が使えない以外は元の生活に戻っていた。

「ご一緒してもよろしいですか?」
「うん、知世ちゃん」

笑顔で返事を返す。
だが、知世にはさくらが無理をして笑っているように見えた。

「今日は李くんといっしょではないのですか」
「小狼くん、今日は部活が忙しいって」
「昨日もそう言ってましたね?」
「うん・・・」

がっくりとうなだれる。

「たしか、先週もそんなことを言ってませんでしたか?」
「しゃ、小狼くんはサッカー部のエースでいろいろと忙しいから!」

そう言い返す声に力がない。
ここ二週間、さくらは小狼と二人で帰っていないのだ。
あの事故の前はほぼ毎日一緒に帰っていたのに。
下校だけではない。
小狼の家にも退院した時に一度行ったきりだ。
何かと理由をつけて断られてしまう。

小狼くんに避けられている・・・

「知世ちゃん・・・」
「はい?」
「小狼くん・・・もうわたしのこと、好きじゃなくなったのかな」
「そんなことはありませんわ!昨日もさくらちゃんの家で魔力を取り戻す方法を探していらっしゃったではないですか!」
「でも、家にはケロちゃんも月さんもいたよ。小狼くん・・・わたしと二人きりになるのを避けてるよ・・・小狼くん、わたしのこともう・・・」

知世は答えられなかった。
知世はさくらが何を考えているのか予想がついていたのだ。

「さくらちゃんが魔力を失ったから・・・だから李くんの心がさくらちゃんから離れた・・・そう考えていらっしゃるのですね?」
「知世ちゃん!」

図星だった。
かつて小狼は雪兎に惹かれていた。
それは月の持つ魔力に惹かれていただけで、それに気付いた時に小狼は「さくらが好き」という気持ちを自覚した。
さくらはそれを小狼自身から聞いている。
だが今さくらを捕らえているのは「さくらが好き」という気持ち、それすらも「さくらの持つ魔力に惹かれていた」だけではないか?という不安だった。
ならば、魔力を失った今の自分に小狼が興味を示すはずがない。
現に小狼は自分を避けている。

「知世ちゃんもやっぱり、そう思ってたんだ・・・」
「さくらちゃん・・・さくらちゃんは李くんを信じられないのですか?」
「信じたい!信じたいよ。でも、でも・・・!」
「さくらちゃんはどうなんですか?魔力を失った今、李くんのことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「わたし?わたしは・・・」

さくらは改めて小狼と自分との関係を考える。
さくらは魔力を失った。
それは同時に魔力を感じる能力をも失ったことを意味する。
かつて感じていた小狼の魔力を今は感じることが出来ない。
今のさくらと小狼の間には、魔法も魔力も一切存在しない。
ただの『少年と少女』だ。
クロウ・カードをめぐって出会って以来、初めてのことだった。
そして導き出したのは・・・

「わたしは・・・小狼くんが好き・・・」

それがさくらの答えだった。

「魔法も、魔力も関係ないよ。今はもう小狼くんの魔力も感じられないけど、それでも、それでも・・・わたしは小狼くんが好き!」

泣きながらそう答えた。

「だったら、さくらちゃんも李くんを信じてあげませんと。李くんはさくらちゃんが好きになった人ですもの」
「知世ちゃん・・・ありがとう!」

さくらは泣きながら知世に抱きついた。
泣き止まぬさくらをあやしながら、知世は何かを考えているようだった。

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その夜、さくらは部屋でクマのぬいぐるみを見つめていた。
小狼にもらったぬいぐるみだ。
あの時はたしかに「好きだ」と言ってくれた。
今はどうなのか。
知世にははっきりと「小狼が好き」と答えられたものの、一人きりになるとまた不安がこみ上げてくる。
自分は小狼が好きだ。
魔力なんか関係ない。
でも小狼くんは?
そう考えていた時、携帯が鳴り出した。
小狼くん?と期待をこめて携帯を取り出すが、表示された番号は知世のものだった。

『はい、木之本です』
『大道寺です。さくらちゃん、明日お時間をいただけますか』
『え?大丈夫だけど』
『では明日の朝、8時にわたしの家に来てください』

それだけ言って切られた。

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翌朝、約束した時間に知世の家に行くと奥の部屋に通された。
今まで入ったことの無い、狭い部屋だ。

「ほえ?ここで何するの?」

着替えのための部屋かと思ったが、いつもの衣装は置かれていない。

「さくらちゃんは何もする必要はありませんわ」
「?」
「ただ、約束してくださいな。わたしが言いというまで決して声をあげないと」
「?よくわからないけど、約束するよ」
「では、ここでしばらく待っていてくださいな」

そう言うと知世は出て行った。
さくらは何が起こるかわからなかったが、言われた通りに待つことにした。
しばらくすると、隣の部屋に誰かが入ってきた。
知世が誰かを連れてきたようだ。

「その辺にお座りください」
「さくらのことで相談があるって、一体どんな話だ」
(小狼くん!?)

知世が連れてきたのは小狼だった。

「今日は李君に是非ともお聞きしたいことがありましてお呼びいたしました」

さくらは知世の意図を理解した。
小狼に今、さくらをどう思っているのか問いただす気なのだ。
昔から小狼はさくらの前では本心を明かさない。
ならば知世と二人きりを装って小狼の本心を聞き出し、それを直接さくらに聞かせるつもりなのだ。

「李君は今、さくらちゃんをどう思っていらっしゃるのですか?魔力を失ったさくらちゃんを」
「どうって・・・別に以前と変わらないつもりだ」
「本当にそうですの?だったら何故、さくらちゃんを避けていらっしゃるのですか?」
「!気付いていたのか?」
「お二人を見ていればわかりますわ」
「さくらも・・・気付いているのか?」
「もちろんですわ。李君・・・本当のことをおっしゃっていただけませんか?」

聞きたくない!やめて知世ちゃん!
さくらはそう叫びたかった。
だが、声が出ない。体が石になってしまったかのようだ。
数瞬、小狼はためらっていたが、覚悟を決めたのかゆっくりと語り始めた。

「俺は・・・自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。魔力なんか関係ない、魔力なんかなくなってもさくらへの想いは変わらない、そう思っていた」

苦しげに答える。

「変わってしまったと・・・?」
「あぁ、変わった」

さくらはハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
自分の予想が最悪の形で実現してしまった。
絶望が深すぎて涙も出ない。
震えながら小狼の告白に聞き入る。

「さくらが魔力を失う前はさくらの側にいる、ただそれだけで幸せだった。なのに今は・・・」
「どう、変わったと?」

知世がその先を促す。
隣の部屋で聞いているさくらのことを思うともう、話を打ち切ってしまいたかったが、ここまで聞いてしまった以上は最後まで聞くしかない。
さくらも知世も死刑宣告を待つ服役囚の気分だった。
しかし、小狼の答えは二人の予想とは異なっていた。

「今は・・・それだけじゃ我慢できない。さくらに触れたい、さくらを抱きしめたい、さくらの全てを俺のものにしてしまいたい!」

予想外の答えに知世も隣室で聞いていたさくらも目をパチクリさせる。

「え?ええと、どういうことですの?」
「言った通りだ。さくらを抱きたい、そういう意味だ」

直球ストレートな表現。小狼らしい。

「それは、その・・・わかりますけど(さくらちゃんは超絶かわいいですから!)、魔力とは関係ないんじゃありませんか?」
「・・・魔法にはいろいろとえげつない術もある。他人を魔力で支配する術や、女性を卑しめるための非道な術がな。俺も李家の跡取りとしてガキのころからあれこれと仕込まれた」
「それがさくらちゃんとどう関係あるのですか?」
「今まで俺の魔法はさくらには効かなかった。さくらの方が魔力が強かったからな。だが、今ならさくらに俺の魔法が効く」
「?お話がよくわかりませんけど?」
「今なら俺の魔法でさくらを支配できるってことだ。この間二人きりになった時、それに気がついた」

小狼は思い出していた。その時の自分の感情を。
今ならばさくらを魔法で支配できる。
さくらを自由にできる。
どんな卑しい要求も望みのままだ。
それに気付いた瞬間、心の奥底からゾッとするほど凶暴な欲望がこみ上げてきた。
目の前の少女を自分のものにしたい。
習い覚えた卑劣な術でこの無防備な少女をめちゃくちゃにしてしまいたい。

その時はかろうじて自分を抑えた。
しかし、一度芽生えた欲望が消えることは無い。
その日から欲望は邪悪な夢となって夜ごとに小狼を苦しめた。

「それでさくらちゃんと二人きりになるのを避けていたのですか?」
「ああ。二人きりになったら自分を抑えられる自信が無い」

さくらが苦しんでいるというのに、自分はギラついた欲望を滾らせている。
それが恥ずかしいやら、情けないやらでさくらの顔も満足に見れなかったのだ。

「こんなのは愛でも恋でもない。ただの欲望だ。俺がこんなに汚らわしい人間だなんて知られたら・・・さくらに嫌われる・・・それが怖いんだ」
「・・・だそうですわ、さくらちゃん」
「大道寺!?」

知世の呼びかけに驚いて振り返ると部屋に入ってくるさくらが見えた。

「さくら・・・!」
「小狼くん!」

さくらは小狼に飛びついた。

「バカっ、話を聞いてなかったのか!今の俺は何をするかわからない!」
「いいよ・・・どんなことをしても。どんな酷いことでも。小狼くんに嫌われるくらいだったら、どんなことでも我慢するよ!だから・・・だから・・・」

「一人にしないで・・・」

泣きながら訴える。

「さくら・・・」

・・・さくらが泣いている。
俺の一番大切な人が。
もう二度と泣かせないと誓ったはずなのに。

・・・俺は一体、今まで何を悩んでいたのか?

自分のことしか考えず、肝心のさくらをこんなに悲しませていた。
いつもさくらに「何かあったら知らせろ」そう言っていたのに、自分はさくらに何も相談しなかった。
さくらを守る、という想いに嘘はない。でもそれは俺からさくらへの一方通行の想いでしかない。
自分の悩みをさくらに伝えないのに、さくらの悩みが俺に伝わるわけも無い。
本当にさくらを想うのならば、自分の弱さも苦しみもさくらに伝えなければならなかったのだ。

「ごめん・・・さくら」

あやまりながら両手でさくらを抱きしめた・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「よかったですわね。さくらちゃん」

知世の声で二人はハッと我に返る。
いつもならここであわてて離れるところだが今日は離れない。
抱き合ったままだ。

「おほほほほほ。お邪魔のようですわね。お二人でごゆっくり」

微笑みながら部屋を出て行ってしまった。
「ごゆっくり」の意味は『アレ』だろう。
小狼はさすがに他人の家では、と思ったがさくらは決心していたようだ。

「もう、寂しいのはいや・・・」
「さくら・・・わかった」

唇を重ねる。
いつもとは違う深いくちづけ。
あれほどに荒れ狂っていた欲望は嘘のように静まり返っている。
目の前の少女が愛おしい。
それだけだった。

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全てが終わった時、さくらの魔力は蘇っていた。
それも二人にはどうでもいいことだ。
自分たちのこの気持ちは魔力なんか関係ない、本当の気持ちだ。
それを確かめただけでよかった・・・

「さくら・・・もしも・・・」
「なに?」
「もしも俺が魔力を失ったら・・・李家の跡取りでもなんでもない、ただの男になったとしたら・・・それでも俺を好きでいてくれるか?」
「もちろんだよ!魔法も家も関係ないよ!わたしは小狼くんが・・・小狼くんだから好きなの!」
「ありがとう・・・さくら」


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「結局、なんやったんやろな〜」

ここは木之本家のリビング。
知世から事の顛末を聞いたケルベロスはケーキをつつきながらもう一人の守護者、月に話しかけた。

「おそらく主の中に自分たちの気持ちが魔力に惹かれただけではない『本当の気持ち』なのか?それを確かめたいという願いがあったんだろう」

強い力を持ったものは強い力を持ったものに惹かれる。
そのため、ふとすると自分の気持ちは魔力に惹かれているだけではないか?と疑ってしまうことがある。
主はそれを確認したいがために無意識のうちに魔力を手放してしまったのではないか?それが月の出した結論だった。

「はぁ〜そんなもんかいな。恋する乙女っちゅうのはやっかいやな〜。ま、これでわいも安心してお菓子が食えるっちゅうもんや」

・・・お前は主が魔力を失っている間もバクバク食ってだろ!月は心の中でそうツッコミを入れた。

END

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