『kiss me please』



(また見てるな・・・)

小狼は一人、心の中でタメ息をついていた。
今日は朝からずっと、突き刺さるような視線を浴び続けている。
視線の主は彼の恋人、木之本さくらである。
恋人が恋人を見つめるというのは別に珍しいことではないけれど、今日のは少し度が過ぎるような気がする。
それこそ、ジィ〜〜っという擬音をつけたくなるような見つめ方だ。
あんまりにも熱心に見つめてくるので、

「なあ、さくら。オレの顔に何かついてるのか? 朝からずっとオレの顔を見てるみたいだけど」

と聞いてみたけど、

「そ、そうかな? いつも通りにしてるつもりだけど。あ、それってわたしがいつも小狼くんのことを見てるってことかな。えへへ・・・」

と避わされてしまう。
そのくせ、視線は外さない。
返事の後はしばらく別のところを見ていたけど、今はまたこちらを見ている。
正確には自分の顔、それも顔のどこか一点を見つめているようだ。
どこを見ているのか。なんで見ているのか。
昨日まで1週間ほど実家の用事で学校を休んでいたが、その間に何かあったのか。
多少、気にはなったけど、

(なんなんだ、一体。また誰かに何か吹き込まれたのか? まったく・・・)

それ以上の詮索はしないことにした。
また山崎か柳沢あたりからおかしなことを聞かされたのだろう、と思ったからだ。
あの二人は、どこで仕入れたのかわからない妙な知識をさくらに吹き込んでいくことが多々ある。
その度に、さくらはおかしな行動をとって小狼を驚かしたり、喜ばせたりしてきた。
今度のも多分、それだ。
あの二人の言動には困ったものだが、人を傷つけるような悪意がないのはわかっている。
ほおっておいても問題ないだろう。
そう判断した。

しかし。

小狼のこの判断は半分は当たっていて、半分は当たっていない。
当たっているのは、さくらの行動が山崎の言葉に感化されたもの、という部分だ。
当たっていないのは、問題ないだろう、の部分だ。
問題ないどころではない。
昨日、山崎から聞いた一言。
それが今、さくらの中でトンでもない大問題を巻き起こしているのだ。

(だれ・・・誰なの? 小狼くんの『ファーストキス』の相手は・・・)

・・・と。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

それは昨日の放課後のことだった。

「ファーストキスってやっぱり雰囲気が大事だよね〜〜」
「そうですわね。女の子には特別な瞬間ですから」
「そうそう! それなのに山崎くんったら全然雰囲気なくて。ちょっと山崎くん! 聞いてるの?」
「雰囲気って言われてもな〜〜。僕のファーストキスって千春ちゃんに無理やりされたはずなんだけど〜〜」
「ちょっと! それ、いつの話よ」
「幼稚園の時だけど。千春ちゃん、忘れちゃったの?」
「う・・・そうだったっけ」

さくら達はファーストキス談義に花を咲かせていた。
いつものメンバーのいつも通りの他愛ないじゃれ合いの時間。
いつも通り、何もなく終わるはずのそれを変えてしまったのは、他ならぬさくらの一言だった。

「幼稚園でファーストキスか〜〜。やっぱり千春ちゃんたちは早かったんだね〜〜」
「でも木之本さんたちも早い方だと思うけど」
「そうなの? 中学生でファーストキスって早い方なのかな」
「あれ? 李くんには小学生の時って聞いてるんだけど」
「え・・・?」
「この前、李くんと話してたら小学生の時にキスしたことがあるって・・・」
「バ、バカッ!」

千春があわてて止めたが、もう遅い。
蒼ざめたさくらの表情が、山崎の言うファーストキスの相手がさくら本人ではないことを物語っている。

「さくらちゃん・・・」
「あ、うん、ゴメンゴメン。そっか〜〜。小狼くんのファーストキスは小学生の時だったんだ。ふ〜〜ん。相手は誰かな。苺鈴ちゃんなのかな〜〜」

軽い言葉とは裏腹の強張った表情が見ていて痛々しい。
さくらの硬い表情に、山崎も自分の失言を悟った。

「(もう、山崎くんのバカ! なんてこと言ってるのよ! さくらちゃん、傷ついちゃったじゃないの。空気読みなさいよ!)」
「(ゴメン・・・。でも、おかしいなぁ。あの李くんの照れっぷりから相手はてっきり木之本さんだと思ったんだけど?)」

山崎の言葉はショックだったが、それでも家に着く頃には自分を納得させることができた。
小狼はずっと外国にいたのだ。
キスの1回や2回はあってもおかしくない。
それに小学生の時、といっても1年から6年までずいぶんと時間がある。
あるいは自分と知り合う前の話かもしれない。
恋人同士の特別な『ファーストキス』は自分としたあの時しかないはずだ。
そう思い込むことで無理やり自分を納得させた。

だけど。
今朝、小狼と会った瞬間にそれはあっけなく崩れた。
目がどうしても小狼の唇へと向いてしまう。
その暖かさも、柔らかさも、触れた時の身体が蕩けるような心地よさも全部、自分だけのものだと思っていた。
世界中の誰も知らない、自分だけが知っているものだと思っていた。
それに初めて触れた時のことは今でも鮮明に覚えている。
あれは、小狼が帰ってきてから初めての夏の日のこと。
あの時が自分の初めてで、小狼の初めてもあの時だと思っていた。

それが違った。

昔のことだ、今の小狼の一番は自分だ、気にしちゃいけない。
頭ではそうわかっているのに、心の中の何かがそれを否定する。
小狼の唇を見るたびに、心の底に昏い澱のようなものが溜まって行く。
そして、それは最悪のタイミングで解放されてしまうのだった・・・

―――――――――――――――――――――――――――――――――

小狼は尻餅をついた格好で、呆然とさくらを見上げていた。
今起きたことが信じられない、という顔をしている。
そんな小狼をさくらはこれも呆然とした顔で見ていた。
こちらは今、自分がしてしまったことに驚いている顔だ。
そして、それはすぐに後悔の念へと変わった。

(わたし・・・なんてことを・・・小狼くんに・・・)

こんなはずではなかった。
1週間ぶりの小狼との逢瀬。
久しぶりに上がる小狼の部屋。二人きりの時間。
二人で食事をして、他愛ない世間話に興じ、テレビを見て笑いあう。
ごく自然な営みの中で、やがて二人は寄り添い互いを求め合う・・・そのはずだった。

それなのに。

小狼の唇がさくらのそれを求めてきた時、さくらの脳裏に山崎の言葉がフラッシュバックしてしまったのだ。

『李くん、小学生の時にキスしたことがあるって』

「!?」

なんでこんな行動をとってしまったのか、自分でもわからない。
だが、その瞬間にさくらは

「いやっ!」

悲鳴をあげて小狼を押しのけてしまった。

「さくら・・・?」

起き上がった小狼が恐る恐るといった感じで声をかけてくる。
その顔には張り付いているのは驚愕と怖れの感情だ。
小狼が怖れを感じているのは当たり前のことだろう。
恋人にこのタイミングで拒絶されたら、どんな男でも最悪の想像をしてしまう。

自分はさくらに嫌われるようなことをしてしまったのではないか。
ほんの少し、離れている間に自分よりも好きになれる人を見つけてしまったのではないか。
さくらはもう、自分を受け入れてくれないのではないか。

そんな恐怖にも近い感情が小狼の中で渦巻いているのがわかる。
自分が同じことをされたら、同じように考えてしまうからだ。
それほどヒドイことをしてしまったのだ。
それも、本当につまらない自分の身勝手な感情に支配されて。

謝らなくちゃ、ゴメンなさいって言わなくちゃ・・・そうは思っても声が出てこない。
なんと言って謝ったらいいのかわからない。
ここで迂闊にゴメンなさいなどと口にしたら、小狼はさらに誤解してしまう可能性がある。
そんな自分の態度が小狼を混乱させているのはわかる。
それでも声が出ない。
どうすればいいの・・・どうやって謝ったらいいの・・・何て言って謝れば・・・
考えても考えても答えが出てこない。
頭が真っ白になるまで考えても―――

気がついたら小狼に抱きついて泣いていた。
それが正しい選択だったのかは自分でもわからない。
抱きつかれた小狼がどう思ってるかもわからない。
それでも泣いた。
泣いて泣いて泣き続けた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

「少しは落ち着いたか」
「うん。ゴメンね、小狼くん。みっともないところ見せちゃって」

さくらはあれから5分以上も泣き続けた。
今、ようやく泣き止んだところだ。
涙と一緒に溜まった澱も流れ出てしまったのか、心も落ち着いてきたみたいだ。
なによりも、小狼が抱きしめてくれている。
クロウカードを追いかけていた昔から泣きそうになると支えてくれた腕。
この腕に抱かれているだけで落ち着ける。

(やっぱり小狼くんの傍がわたしの一番の場所だよ・・・)

それを再確認できて少しだけ嬉しくなった。
だが、当たり前だが小狼の方はこれではすまない。

「さくら。一体、何があったんだ。今日、ずっとオレの顔を見ていたことと何か関係があるのか。お願いだから教えてくれ」

朝から感じていた疑問をぶつけてきた。
これにはさくらも答えないわけにはいかない。

「あのね。昨日、山崎くんに聞いちゃったの。小狼くんのファーストキスは小学生の時だって」
「・・・! あいつ、余計なことをペラペラと!」
「山崎くんは悪くないよ。聞いたのはわたしの方なんだから。それでね。わたしのファーストキスは小狼くんとだったなって。でも、小狼くんのファーストキスはわたしとじゃなかったんだなって。そう思ったらね。こう、なんていうのか悲しくなっちゃって」

喋っていたらまた、涙が出そうになってきた。
これは、さっきまでの涙とは違う。自分の言ってることの情けなさに気づいて恥ずかしくなってしまったのだ。
恋人が自分と付き合い始める前のことを気にするのはNG。どんな恋愛ハウツー本にも最初に書いてある禁止事項だ。それを自分はやってしまった。
しかも、小狼を相手にだ。
小狼は自分がかつて、小狼以外の男性を好きだった時期があるのを知っている。
小狼以外の男性を想って涙を流していたのも見られている。
それを知っていながらなお、小狼は自分の全てを受け入れてくれた。

それに比べて自分はどうだ。
相手もわからない、そもそもイタズラだったのかもしれない、そんなキスさえ許そうとしなかった。
小狼の優しさとは違いすぎる。
本当に情けない。
情けなくて小狼の顔が見られない。
今、小狼はどんな顔をしているのだろうか。
しょうもない話に振り回された自分に呆れ果てている顔か。
それとも、そんなつまらないことで拒否されたことを怒っている顔か。
多分違う。
泣いている自分を慰めるためにとても優しい顔をしてくれているはずだ。
それが自分が好きになった小狼くんだ。
そして、自分はいつもそれに甘えている。
それがわかるだけに、余計に小狼の顔が見辛い。
でも、顔を上げないわけにはいかない。

(これじゃダメだよ。小狼くんにちゃんと謝らないと!)

小狼にキチンと謝らなければいけない。
意を決してさくらは顔を上げる。

けれど。

(あれ・・・? 小狼くん??)

意外にも小狼はさくらの予想とは異なる顔をしていた。
まっ赤っ赤な顔で目をパチクリさせている。
小学生の時によく見た表情だ。
あの時はなんでこんな顔をするのかわからなかったけど、今はこれが小狼が照れている時の顔だと知っている。

「小狼くん?」

なんでそんな顔をするのか不思議がって声をかけても

「あ、そ、そうか。さくらが気にしてたのはその話だったのか。いや〜〜なんというか・・・その」

なんとも歯切れの悪い答えしか返ってこない。
予想外の小狼の反応に、

(こんなまっ赤になっちゃうなんて・・・やっぱりイタズラとかそんなのじゃなくて、ちゃんとしたファーストキスだったの?)

と、また朝からの不安が頭をもたげてきてしまう。
しかし、それは小狼の次の言葉で打ち消された。
それもトンでもない事実によって。

「まあ、その・・・え〜っと。さくら。落ち着いて聞いてくれるか」
「うん」
「オレのファーストキスはたしかに小学生の時なんだけど、その相手はな」
「誰なの。苺鈴ちゃん?」
「いや、その〜〜。あの〜〜。言いにくいんだけどな」
「言いにくい? それって、わたしが知ってる人ってこと?」
「知っているっていうか、その〜〜。オレのファーストキスの相手は・・・さくらなんだ」
「えぇっ!? だって、山崎くん、小学生の時だって言ってたよ? わたしと小狼くんのファーストキスって、小狼くんが帰ってきてからだったはずだよ??」
「うっ・・・。それはだな・・・」

しどろもどろに小狼が語る『ファーストキス』の真相は以下のようなものだった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

小学生の時というのはクロウ・カードを生まれ変わらせていた頃のことだ。
あの頃、カードを変えて眠りに落ちてしまったさくらを、小狼の部屋に運び込んで介抱したことがあった。
その時に眠っているさくらを見ていたらムラムラしてきて、つい・・・
というのが山崎の言う『小学生の時のファースト・キス』の真相だったらしい。
山崎の予想通り、相手はさくらだったのだ。
ただ、さくら本人がそれを知らなかっただけなのだ。

「えぇぇぇ〜〜? じゃあ、わたしのファーストキスも本当はその時だったってこと〜〜??」
「そ、そうなるかな」
「えぇぇぇぇぇぇぇ〜〜? それじゃあ、わたし、自分のファーストキスを全然覚えてないってことなの〜〜??」
「そういうことになるな」
「そんなぁ〜〜」

真相を知ったさくらは、しばらくの間ぼーぜんとしていた。
やがて、それは徐々にやるせない怒りへと変わっていった。

「ひっどぉ〜〜い! ど〜してそんなことしたのよ〜〜!!」
「そ、その。なんだ。ほら、学芸会で眠り姫をやったろ。さくらが寝てるのを見てたら、あの時のことを思い出しちゃって・・・」
「そんなの理由にならないよ! 寝てる女の子にキスするなんて犯罪だよ〜〜!」
「うぅっ、そう言われると・・・」

お姫様はおかんむり。
ま、そりゃそうだろう。
なにしろ、事の始まりは『ファーストキスって雰囲気が大切よね〜〜』とか『ムードの問題なのよね〜〜』みたいな話だったのだ。
それが、自分ときたらぐーすか眠りこけている間にサクッと奪われてました、ときたもんだ。
ムードもへったくれもあったものではない。
しかも、そんな大切な瞬間を自分はまったく覚えていないのだ。
女の子としてかなり許し難い。
ちょっとやそっとではこの怒りは治まらなさそうだ。
お姫様の怒りを解けるのは・・・

「ほんとに悪かったと思ってるよ。なんでも言うことを聞くから機嫌を直してくれよ。な、さくら」
「なんでも? ホントになんでも言うこと聞いてくれる?」
「あぁ。本当だ」
「じゃあ、キスして!」
「キス?」
「そう! わたしの知らないキスがあったなんて許せない! その分、いっぱいキスして!」
「わかったよ。じゃあ・・・」

ちゅっ

「これでいいか?」
「まだダメ! ここにもキスして!」

ちゅぅっ

「これでいいかな」
「まだ・・・ダメ。ここにも・・・」



ちゅぅぅぅ〜〜
れろっ

「ふぅ・・・んん・・・」
「これで満足したか。さくら」
「まだダメだよ・・・。こんなんじゃ許せないよぉ・・・。もっといっぱいキスして・・・」
「了解」
「あぁ・・・ん・・・もっと・・・もっとキスしてぇ・・・小狼くん・・・」

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

kiss me please.
もっとキスして。
わたしに。
わたしだけに。
あなたのキスをちょうだい・・・

END


ファーストキスのお話。
Love-Ichaの時、志水様に何枚かイラストを描いていただいたのですが、そのうち1枚は本編では未使用で残っていました。
せっかく描いていただいたので、いつか小説の挿絵に使わせていただこうと思って作ったのがこの作品です。
実はストーリーそのものはイラストを選んだ7月の時点でできていたのですが、書くのが遅くなってしまいました。
志水様、ありがとうございました。

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