『香港物語(ダークサイド)』

「無駄な抵抗を・・・まあ、その方が楽しめるがな」

小狼がさくらに近づく。
絶望の瞳で小狼を見上げるさくら。
だが、真の恐怖を味わうのはこれからだった。

「ひっ・・・!」

声にならない悲鳴を飲み込む。
さくらは見てしまったのだ。
小狼の褐色の瞳が徐々に紅い色に変わっていくのを。
口元の牙が伸びていくのを。
吸血鬼の貌を!
先ほどまでとは比べ物にならない恐怖がさくらを貫く。
人の血に刻み込まれた『闇』への恐怖が呼び覚まされる。

さくらはなぜ李家が自分のように身寄りもコネもない人間を雇ったのか理解した。
『餌(えさ)』だ!
李家が欲していたのはメイドではない。
新鮮な血で満たされた肉だ。
この男に喰わせる餌を欲していたのだ。

「理解できたか?お前が雇われたわけが・・・」

小狼の声が響く。
さくらは自分の未来が完全に断たれてしまったことを悟った。
放心した表情で小狼を見つめる。
さくらにできることはそれしかなかった。
迫る吸血鬼の貌を見続ける。
美しい貌を。
人でない故に人を超越した美しさを持った貌を。

首筋に鋭い痛みが走る。
血液とともに『命』を吸い取られていく絶望の中で、さくらはその美しさに魅せられていた・・・

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部屋の中央に少女が、いや、『かつて少女だったもの』が転がっていた。
メイド服は単なる布片と化して部屋中に散乱している。
その体中にゾッとするような傷跡がいくつも走っている。
『人でないもの』の暴虐を受けたと子供でもわかる。
この少女がかつてと同じ笑みを浮かべることは二度とない、そう誰もが納得せざるを得ない惨状だった。
小狼はそんなさくらを見下ろしていた。
先刻までとはまるで違う、痛ましいものを見る目で・・・

ゆっくりとしゃがみ込むと両手でさくらを抱え上げる。
そして豪華なベッドの中央にさくらを横たえると、傷の手当を始めた。
壊れやすい宝物を扱うかのようなとても繊細な手つきだ。
魔法でも使っているのか、小狼の指が傷跡をなぞる度にさくらの傷は薄くなっていく。
やがて、首筋に残された二筋の傷跡を除いて傷は全て消えていた。
手当てが終わると小狼は黙ってさくらを見つめ、そのまま動かなくなった。

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どれくらいの時間がたったのか。

「さくら・・・」
「貴方らしくないことをしましたね」

目覚めぬさくらに呼びかけた時、誰もいないはずの背後から声をかけられた。
愕然として振り返る。だが振り返るまでもない。気配を悟られずに小狼の背後を取れる人間などこの世に何人もいない。

「エリオル・・・」

そこには眼鏡をかけた小狼と同年輩の少年が立っていた。
エリオル。李家の始祖、クロウ・リードの生まれ変わりを自称する少年。
それが本当なのか誰にもわからないが、李家の現当主である夜蘭をも凌ぐ凄まじい魔力を持っていることは確かだ。
小狼はこの男が苦手だった。
自分以上の力の持ち主ということもあるが、それ以上にこの全てを見通してでもいるかのような、そして人をからかっているようにも取れる物言いが気に入らなかった。

「いつからいた?」
「最初から。貴方がさくらさんをこの部屋に呼んだ時から」
「なのに止めもせず黙って見ていたのか。とんだフェミニストだな!」

自室に他者の侵入を許したうえに、侵入に気づかず情事に耽っていたという屈辱を隠すためか語気を荒げる。
だが、そんなものを意に介する相手ではない。

「なぜこんなことを?暴力で女性を汚すなど、貴方がもっとも憎んでいた行為ではなかったのですか?」
「くだらない。強者が弱者を喰らい、奪い、犯す。それがこの世の真理だ」

弱肉強食。
それが李家の奉ずる正義だ。
李家はこれまで弱者を踏みにじりながら成長してきたのだ。
しかし、かつての小狼はそれを否定していた。
暴力で弱者を蹂躙するものを決して許さなかった。
エリオルはそれをよく知っている。

「貴方の言葉とは思えませんね。本気で言っているのですか」
「当然だ。お前こそどうした。こんな女が気になるのか?なんならくれてやってもいいぞ。俺の喰い残しでよければな!」

睨みながら言い返す。
こいつには少しでも弱気を見せると付け込まれる、その思いが小狼に虚勢を張らせている。

「昔の貴方はこうではなかった・・・」
「俺はいずれ李家を継ぐ身だ。いつまでも青臭い理想論にはつきあっていられない」
「なるほど。偉大なる李家の当主様に情は不要、というわけですか」

軽蔑の口調でエリオルが揶揄する。
その口調にイラついた小狼は噛み付くような勢いで反論した。

「その李家の礎を築いたのは誰だ?」
「!」
「クロウ・リードが、前世のお前が何をやったか知らないとでも思っているのか!お前に俺を非難する資格は無い!」

己の前世の非道な行いに恥じ入ったのか、エリオルは沈黙した。
エリオルの沈黙を自分の勝利と捉えたのか、勝ち誇った声で続ける。

「当主の間に無断で侵入した罪は不問にしてやる。失せろ!」

・・・そんな精一杯の強がりはエリオルの一言であっさりと崩れた。

「それほどに愛しているのですか?この少女を」
「!?なにを馬鹿なことをっ!」

強気な言葉とは裏腹に、顔は図星をつかれた驚愕に歪んでいる。
それを押し隠すためにさらに強気の言葉を続けた。

「こいつは餌だ!金で買われた餌だ!餌を愛する奴がどこにいる!」
「ならば、何故さくらさんのお兄さんを助けたのですか?わざわざ医者を探すような真似までして。貴方ならば人質など取らずとも術や薬でどうにでもできるでしょう?」
「意思のない人形を嬲っても面白くないからな。抵抗するのを楽しみたかったんだよ。それだけだ!」
「・・・そういうことにしておきましょうか」

哀れむような口調でエリオルが言った。

「出て行け・・・」

もはや虚勢も、李家の当主という立場もかなぐり捨ててエリオルを睨みつける。

「最後に一つだけ忠告しておきましょう。人と人でないものが結ばれることはありません。その少女に執着しすぎると・・・いずれその身を滅ぼすことになります」

最後の一言はそれまでの口調とは異なり、わずかに自嘲を含んだものだった。
クロウ・リード、あるいはエリオル自身にそのような経験があったのかもしれない。
それに気付くには小狼は若すぎた。

「出て行け!二度とその顔を見せるな!」
「嫌われてしまいましたか」

悲しそうな顔で何かをつぶやくとエリオルの姿は消えた。
後には小狼と未だ目を覚まさぬさくらが残された。

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「さくら・・・」

再びさくらに声をかける。
さくらの容態は重い。傷が消えたとはいえ、到死量寸前まで血液を失っている。
声をかけたところで目覚めるような状態ではない。
それが分かっていても声をかけずにはいられなかった。

エリオルの指摘は小狼の本心を見事に言い当てていた。
小狼はさくらを愛してしまっていた。

はじめはなんとも思っていなかった。
また金で買われた哀れな餌がきたとしか思っていなかった。
血を吸った後、記憶を消して幾ばくかの金を与えて解雇する。
ただそれだけの存在だと思っていた。

それが、いつからか自分の視線がさくらを追いかけていることに気付いた。
誰にでも明るく、優しいさくら。
さくらの笑顔をいつまでも見ていたいと思うようになっていた。
桃矢を助けたのも自分の力でさくらを助けたい、ただそれだけだった。
さくらと一緒にどこまでも行きたい、そう願うようになった。

だが、自分の身体がそれを許さない。
人の血を求めずにはいられない呪われた身体が。
輝くようなさくらの笑顔を見る度に、自分とさくらが『別の生き物』であることを痛感せざるをえなかった。
エリオルに言われるまでもない。
自分は決してさくらと一緒になれない。
それは誰よりも小狼自身がよく知っている。
いずれさくらは李家を出て他の誰かのものになる。

・・・他の誰かに奪われるくらいならば・・・この手で・・・

それが小狼の暴挙の理由だった。

さくらの傷が癒えることはない。
たとえ体の傷が癒えようと心に受けた傷が癒えることはない。
あの明るい笑顔が戻ることはない。
自分の手で壊した。
自分のもっとも大切なものを。

「小狼様・・・」

ふいにさくらの声が聞こえた。
まだ目覚めたわけではない。眠りの中で小狼の名を呼んだだけだ。
名の後に続いたのが呪いの言葉だったのか、愛の囁きだったのか・・・小狼には聞き取れなかった。
どちらでもいい。
呪われようと・・・愛されようと・・・どちらでもさくらの心に自分は残る。
それでよかった。

「さくら・・・愛している。たとえこの身が滅びることになっても・・・この想いは変わらない」

聞くものの無い部屋の中で少年の哭く声だけが響いた。

END






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『メイド無残物語・散花の章』 完

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「はうっ!素晴らしいですわ〜〜〜感動ですわ〜〜〜」
「監督がいいからね!小狼の演技もなかなかだったわよ」
「最近は特撮の技術も進化していますからね。李君が吸血鬼に変わるシーン、CGとの融合も見事なものです」

ここは李家邸宅内の映画劇場。
自宅に劇場まであるとはさすがに香港有数の金持ちである。
ようやく完成した映画『メイド無残物語・散花の章』の試写会をやっていたらしい。

「でもやっぱり主演女優が素晴らしいですわ〜〜〜さくらちゃん!次回作でもまた私にお洋服を作らせてくださいね!」
「はう〜〜〜〜〜〜」
「(次回作って・・・まだやるつもりなのか!?)」

知世は完全にトリップした目つきで次回作の構想を練っている。こうなるともう誰にも止められない。
苺鈴はメガホンがよほどに気に入ったのか、試写会会場にまで持ち込んで振り回している。
さくらの親友に自分の従姉妹。自分の周囲には何故こうも変な奴が多いのか。小狼は頭を抱えたくなった。

「ところで全国公開の日程はどうなったのでしょう?」
「そうね〜〜〜5月の連休あたりがいいんじゃない?」

いきなり聞き捨てならない台詞が聞こえてきた。

「全国公開!?何の話だ!」
「あら、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞそんな話!」
「全世界の銀幕に颯爽と舞うさくらちゃん・・・もちろんお洋服は私の手作り・・・素晴らしすぎますわ〜〜〜あぁ、幸せすぎて目まいが・・・」
「あほか!大体さくらだってそんな話、了承してないだろ!な、さくら?」
「小狼様・・・小狼様が・・・わたしを・・・///(ぽっ)」
「さ、さくら?」

知世があっちの世界に突撃するのはいつものことだが、さくらはさくらで小狼の最後の台詞にのぼせてどっかの世界に飛んでいってしまっている。
苺鈴は小狼の言うことなど聞くはずがない。

「おい、柊沢!なんとか言ってくれ!」

小狼は出演者の最後の一人に助けを求める。

「配給はワーナーがいいですかね。それともヘラルドでしょうか」

・・・ノリノリだ。そういえばコイツはこういう奴だった。

「お〜ほほほほほほほほほ(×2)」
「小狼様・・・///」
「いや、いっそ松竹あたりが・・・」

周囲の盛り上がりの中で小狼はがっくしと肩を落とした。

「俺は偉大な李家の当主で、香港の実質的な支配者・・・なんだよな?」

えんど。

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