『蒼月夜会』



小狼の居場所は本邸から外れた林の中にある離れだった。
離れと言ってもかなりのものだ。
平屋ではあるが、その辺の民家と変わらぬほどの広さはありそうだ。
過剰な装飾こそないが、並みの家とは材質からして違うということを感じさせる風格がある。
一人息子のためだけにこれだけのものを用意できるのも李家の財力あってのことだろう。
離れには何の灯りも点っていなかった。
人がいる気配もない。
静かである。
何の音もしない。
かりに人が全くいない林の中であったとしても完全な無音ということはない。
動物のたてる音、虫のはいずる音、樹々が水を吸い上げる音、なんらかの音がある。
それがここにはない。
異様なまでの静けさだ。
さくらは灯りがないことも、音がしないことも特に気にした風もなく、入り口に向かって歩いていった。
ここに来る時はいつもそうだったからだ。
もう慣れている。
入り口近くまで来たところで思い出したかのように灯が点った。
離れの主がさくらが近づいたことに気づいたようだ。
しかし、さくらが近づくまでこの離れの主は光ない暗闇の中で過ごしていたのだろうか。

「小狼様。さくらです」

おずおずと声をかけると一瞬の間をおいた後にドアが開いた。
そこで出迎えたこの離れの主は。

「さくら。待っていたよ」

言うまでもない。
小狼だ。
いつもと変わらぬ小狼の姿である。
違うのは身につけているものが彼には珍しく少しラフなところくらいだが、生真面目で通っている彼でも自室にいる時くらいはこのような格好もするだろう。
どうということもない。

「お呼びとのことでしたが」
「あぁ、たいしたことはないよ。少しお前と話しがしたかっただけだ。最近、時間がとれなかったからな。まあ、上がってくれ」
「はい」

小狼に続いて離れに上がる。
通されたのは小狼のプライベートルーム。
テーブルの上にはすでに紅茶の入ったカップが2つ並んでいた。
小狼が自分で用意したものだろう。
一片の光もない暗闇の中で。

「ちょっといい葉が入ってな。お前とこれを楽しみたかったんだ」
「まあ。このような用意、わたしがしますのに」
「たまにはこういうことも自分でやらないとな。お前にばかりやらしてちゃ悪いだろう」
「そのようなこと仰らずとも」
「はは。まあ、いいから飲んでみてくれ。なかなかのものだ」
「はい。いただきます」

そこから始まったのはたわいのない会話が続くだけの時間だった。

「ほう。女子の中ではそんなことが流行っているのか」
「いえ、流行っているというほどではないですけれど」
「ふふ、じゃあさくらはどうなんだ。お前もそういうのを着てみたいか」
「わ、わたしは別に。お洋服はその」
「そうだな。お前には大道寺がついてるからな。あいつのお洋服があれば他のはいらないよな」
「そ、それはその」
「はは」

本当になんでもないたわいのない会話が続く
下卑た大人が想像するような男女のやりとりもない。
小狼とさくら、いつも通りの二人がいるだけだ。
なんら変わったことはない。
陽の下で繰り返されてきた日常と変わらない光景。
いつもと違うのはたった一つだけ。

骨の髄まで凍りつく恐怖のみ。

血が、肉が、全身の細胞が告げている。
目の前にいるのは自分の知る小狼ではない。
人ですらない。
人の形をした別のなにかだ。
精神のいや、魂の奥底から湧き上がる原初の恐怖。
人が闇を恐れる理由がこれだ。
人は闇を恐れるのではない。
闇の中で蠢く者たちを恐れるのだ。
今、まさに目の前にいる存在を。
これが李一族禁断の秘密。
香港の政財界のごく一部では古くから秘かに囁かれてきていた。
いわく。
李一族には魔性の血が流れている……と。

ティーカップを口に運び中身を流し込む。

「どうだ、そのお茶は。淹れ方も少し凝ってみたんだが」
「はい。とても美味しいです」
「お前にそう言ってもらえるとうれしくなるな」

ウソだ。
なんの味もしない。温度も感じない。
小狼から吹き付けてくる異界の鬼気が全身の神経を麻痺させている。
物理的な圧力すら感じさせるほど強烈な鬼気。
並みの人間ならば5分ともたずに精神をすり潰されて廃人と化しているに違いない。
こうして平然と会話を続けていられるのは、特殊な資質をもったさくらならではだ。
はじめてこれと対峙した晩にさくらは悟った。
なんの縁故もない自分を李家が雇った理由を。
李家が必要としていたのはメイドではない。
これに耐えうる資質を持った者だったのだと。
あるいはそれ以上の意味もあるのかもしれない。
すなわち。
贄。
これに捧げるための生贄。
偉と交わした契約書の中の一文が脳内にフラッシュバックする。
「木之本桃矢の治療費の支出期間は無期限とする。木之本桜の生死に関わらず」
特別な意味はない、李家に伝わる契約の掟にそっただけ、偉は苦そうな顔でそう言った。
あれは罪の意識がそうさせたものか。
偉がこれを知らぬはずはないのだ。
そしてそれがさくらに及ぼす危険も。
自分を見る小狼の目の中に時折、男性が女性に抱くものとは別種の欲望がちらつくことにさくらは気づいている。
あえて人の感覚で表現するならばそれは食欲、に近いものか。
それがどのような形態をとるのかまではさすがにわからない。
伝説のように血を吸うのか。
骨肉を齧りとられるのか。
それ以上に残虐な死を与えられるのか。
李家と契約を交わしたあの日、自分の運命はきまってしまったのだ。
もう、逃れることはできない。
けっして。

「お前のことは2年の間でも評判になってるぞ。チアリーディング部に可愛い新人がいるってな」
「そんなわたしなんか。小狼様の方こそ1年の女子の間ではすごい人気ですよ。学校に本物の王子様がいるって」
「王子様?」
「はい。すっごい評判になってるんですよ。そ、その。小狼様、学校では本当にピシッときまってて。わたしも見とれちゃいます」
「本当かあ? そうは見えないぞ」
「いえ、本当です!」

極限の恐怖の中での会話は続く。
これこそが夜蘭が見出したさくらの資質の本領なのか。
常人なら気死するレベルの妖気をさくらは耐え切った。
人はいかに過酷な環境でもやがては対応し、遂には馴れるという。
すでにさくらの身体は小狼の鬼気に順応し始めている。
こうして会話を続けていられるのがその証左だ。
いずれはこの恐怖すらも感じなくなるかもしれない。

そう。
さくらは小狼の恐怖に馴れつつある。
この二人だけの夜会も回を重ねる度にその時間を延ばしてきた。
確かに夜の小狼は恐ろしい。
でも、それに馴れつつある今はそれが絶対の恐怖ではなくなりつつある。
さくらが怯える理由は別にある。
さくらを恐怖させるものの正体。
それは。

(本当に小狼様は素敵です。特に。今の小狼様は……。あぁ、小狼様。さくらは、さくらは……。小狼様に……小狼様になら……あぁっ!)

古来から言われてきた。
人は魔に魅入られると。
人でないものに、いや、人でないものにこそ人は美を感じる。
人の世界にはない異界の美を。そしてそれに惹かれる。
惹かれるともう戻ってこれない。人の世界に。
魔に魅入られたさくらの精神は人の踏み出してはいけない領域へとその足を伸ばしつつあるのだ。

小狼様にこの身を捧げてしまいたい。
小狼様に嬲られたい。
小狼様に貪られたい。
血肉を喰われてもいい。
魂を捧げてもかまわない。
たとえ人でないものになってしまってもいい。
小狼様と同じものになりたい。
同じ、夜の生き物に―――

小狼を悦ばせるためならば自分の身を犠牲にしてもかまわない。
いや、犠牲にしてしまいたい。
究極の愛ともマゾヒズムともいえる感情。
この自分自身の欲情めいた破滅願望にさくらは恐怖しているのだ。

この夜会の真意をさくらはすでにうすうす察している。
これはおそらく、小狼自身の鍛錬だ。
まだ成長途上の小狼は自分の凶気を制御しきれていない。
それを完璧に制御できるようにするための鍛錬がこの夜会だ。
血の滴る生肉の如き自分を前にして、小狼がいかにして己の凶気を抑えうるか。
そういう訓練なのだろう。
だから小狼が自分に危害をあたえることはまず、ない。
そう察している。

でも、それは何も起きなければの話しだ。
魔の者は乙女の生き血を好むという。
ここでもしも。
血を流してみたらどうなるだろう。
たとえばこのティーカップ。
これをわざと落としてその破片を拾うふりをして指を切ってみたら。
血の滴る指をこれ見よがしに小狼の目の前に差し出してみたら。
小狼はどんな反応を示すのだろう。
それでも自分を抑えることができるだろうか。
そう、今ここでこのティーカップを……

「ははは……」
「うふふ……」

人でない者と。
人であることを放棄しようとする者と。
二人だけの夜会は続く。
月はただ蒼く輝くのみ。

END


蒼月夜会でした。
今年の小狼のおたおめ用にえろえろなお話として書いていたものですが、えろえろな展開になりませんでした。
えろえろは難しい。

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