『餓桜伝』


「千春ちゃん、さっきはあんなに可愛い声をあげてくれたじゃ―――」

―――――――――――――――

あれ?空?

貴史は自分が空を見上げていることに気がついた。
蒼い、雲一つない空。
新年を祝うかのような素晴らしい青空。
それはいい。

だが、ついさっきまでは別のものを見ていたはずだ。
なのに何故、自分は空を見つめているのか。
そもそも自分は今、どういう状態にあるのか。
記憶が途切れている。

たしか千春ちゃんと二人で初詣に出かけて、途中で李くんと木之本さんに会って・・・

あぁ、そうだ。
そこで李くんと木之本さんにいつも通りウソを教えてたら千春ちゃんにツッこまれて。
調子にのって千春ちゃんをからかったら千春ちゃんに強烈な一発を喰らって。
ちょっと調子にノりすぎだったかな、あれは。
千春ちゃん、あんなに怒るなんて。
でも、アッパーでツッこまれるとは思わなかったなあ〜

貴史は想う。

耐えてきた。
千春のツッコミに。
耐え続けてきた。
小学生の時、いやそれ以前から。
物心がついた時にはすでに傍らに千春がいて。
それ以来、ずっと千春のツッコミを受けてきた。
何度も
何度も。

だからわかっている。
千春のツッコミの度合いを。
どんなウソをつけばどんなツッコミが来るのか。
知り尽くしている。
そのツッコミに耐えるだけの覚悟を決めればいい。
そのはずだった。

しかし、今の一撃には貴史の予想を遥かに上回る力が篭っていた。
千春のツッコミが貴史の覚悟を上回ったのだ。
恋人同士の秘め事を暴露されたことへの羞恥。
それが貴史の予想したツッコミを超える鋭さを千春の拳に与えたのだ。

両膝が崩れ落ちる。
視界が下がり、地面が近づいてくる。
境内の石畳がもう、目の前に―――
地べたに顔が激突する衝撃に再び気を失う瞬間、貴史は考えていた。

(千春ちゃんは怒った顔も可愛いなあ)

・・・と。


さくらは見ていた。

千春の拳の軌跡を。
握り締められた拳が、地を這うような低空から弧を描き、山崎の顎を打ち抜いて天空に走り抜けていく様を。
かつて小狼に聞いたことがある。

「ボクシングは大地を蹴りつける格闘技なんだ」

と。
今の千春のアッパーはまさにそれを体現した一撃だった。
力強く大地を踏みしめた右足。
その衝撃を拳に伝えるために連動する脚、腰、背、肩、肘。
美しさすら感じる完璧なフォーム。
『闘(ファイト)』のカードでも今の一撃が再現できるか?
そう思ってしまうほどに見事なアッパーだ。
さくらがそれを目に留めることができたのはクロウ・カードとの戦いの中で鍛えられた動体視力の賜物であろうか。

山崎をしとめた拳を振り下ろす千春を見ながらさくらは考えていた。

(千春ちゃん〜振袖が地面こすってるよ〜〜〜汚れちゃうよ〜〜〜)

・・・と。


小狼は戦慄していた。

ほんの一瞬前まで笑っていた親友の身体が、何の意思もない抜け殻と化す様を見ながら。
その原因となった千春の一撃の鋭さに。

か弱い女性の一撃が大の男を倒す。
漫画ではよくある場面。

しかし、それが実際にはどれほどに至難な業であるのか。
幼時より拳法を学んだ小狼は知っている。

「拳の威力を決めるのは、体重・スピード・握力の3つ」

かつて師事した高名な拳法家の言である。
このうちの2つ、体重と筋力に劣る女性の拳では男性に勝負を決するだけのダメージを与えることはできないのだ。
これはどう足掻いても覆すことのできぬ冷徹な「物理法則」。
ただ一つ、この不可能を可能にする術があるとすれば、それは今、まさに千春がやってみせた顎(ジョー)への打撃に他ならない。

顎への打撃の真意は「脳を揺らす」ことにある。
いかに鋭い一撃であろうと女性の力では男性の顎を砕くことはできない。
しかし、顎を叩かれると首を支点にして頭蓋骨が揺さぶられる。
その揺れが人体最弱の器官である「脳」を頭蓋骨の内壁にぶち当て深刻なダメージを生むのだ。
いわゆる脳震盪といわれる現象である。

脳震盪を引き起こすために必要なスピード、角度、タイミング・・・千春のアッパーはその全てを満たした完璧な一撃だった。
あの三原にこれほどの技量があったとは。苺鈴に教わったのだろうか?

そして、もう一つ小狼が知っていることがある。
時には果し合いに近い闘いまでも経験したことのある小狼だからこその知識。

山崎のあの倒れ方―――
あの倒れ方は勝負あり!の倒れ方
あの倒れ方をしたものは―――絶対に起き上がれない。

女の子を怒らせると怖いな、と能天気な感想を漏らしかけた小狼は、あることに気づいて愕然となった。
己の最愛の女性が持つ強大な力―――天すら砕きうる力―――それがもしも自分に向けられたら―――
小狼の身体に寒さによるものとは別の震えが走る。

地に伏す親友の姿を見ながら小狼は誓うのだった。

(オレは絶対にさくらを怒らせない―――絶対にだ!)

・・・と。


餓桜伝 第三部 〜春撃の章〜 
−完−


超思いつき話。
深い意味はありません。
ちょっと書いてみたかっただけです。

本当はいちゃラブ123の話を考えてたのですが、なかなかうまくまとまらないな〜アホ話はすぐ思いつくんだけどな〜と思ってたらできてました。
のっちさん、すいません。

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