『ダークプリズン・6』




李くんがいる・・・
今、この教室にはわたしと李くんの二人だけ・・・

さくらは教室の後ろから小狼の後姿を見つめていた。
今日の朝の日直は小狼とさくらの二人。
エリオルが転校してきたあの日と同じだ。
あの日と同じように小狼の背中を見つめている。

けれど違う。
あの日はあんなにも近くに感じた背中が、今は果てしなく遠くに見える。
あの日はあんなにも気軽に話しかけられたのに、今は何の言葉も出てこない。
本当は小狼に話しかけたい。

『カードさんたちの調子はどう?』
『クロウさんの事件はまだ続いているの?』

そう言ってかつてのように二人だけの特別な時間を過ごしたい。
だけど、

『お前には関係ないことだ』

にべもなく返されてしまったら?
それを思うと恐くて口を開くことが出来ない。

(何かしゃべらなきゃ・・・何か・・・)

必死で考えるがうまい言葉が思いつかない。
やはり自分と小狼の間にあったのは魔法とカード・・・ただそれだけの関係。
それを改めて思い知らされてしまう。

あの日、小狼が香港に帰ると聞いた時に感じた落胆。

『帰らない。まだ当分いる』

そう聞いた時の喜び。

(わたし・・・あの時にはもう李くんのこと好きになってたんだ・・・なのに!)

なんであの時に自分の気持ちに気づけなかったのか。
あの時、気づいていたら・・・今こんな苦しい思いをせずにすんだのに・・・!
後悔の思いだけが胸の中で渦巻く。

さくらが逡巡しているうちに時は経ち始業時間が近づいてきた。
ちらほら他の生徒達の声が聞こえてくる。

(せっかく二人きりだったのに・・・何もおしゃべりできなかったよ・・・)

と、さくらが落胆しかけた時

「木之本、ちょっといいか?」

意外にも小狼の方から話しかけてきた。

「え?あ、なに李くん」

李くんと二人きりで話してる。
それだけのなのに胸がドキドキする・・・
やだ、顔に出ちゃってる?いけない、もっと普通にしなきゃ。普通に・・・

「あとで渡したいものがあるんだ。悪いけど放課後、オレの家まで来てくれないか?」
「渡したいもの?ここでは渡せないものなの?」
「ああ。少し特別なものなんだ。頼むよ」
「特別なもの?それってどんな・・・」

そこまで言いかけた時、

「おっはよ〜〜〜!」
「おはようございま〜す」

知世たちが教室に入ってきて会話は中断された。

「おはようございます、さくらちゃん」
「お、おはよう。知世ちゃん」
「あれ?どうかなされました?ご様子が少しおかしいようですけど」
「ううん!なんでもないよ」

知世と話しながら小狼の方を盗み見るが、小狼はもう用は済んだとでも言うようにそっぽを向いている。
結局、その日学校では小狼と会話をするチャンスはなく、渡したいものの正体は放課後へ持ち越しになった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


「悪かったな。わざわざ来てもらって」
「ううん!そんなことないよ。それで渡したいものってなに?」

放課後、さくらは小狼の家を訪れていた。
この部屋に入るのは魔力とカードを奪われて以来のことだ。

(渡したいものってなんだろう?)

さくらは今日、1日中それを考えていた。
少し特別なものと言っていた。
魔力やカードに関係があるもの?
ひょっとすると自分ではなくてケルベロスに渡したいもの?
ケルベロスは今でもさくらの家にいる。
今となっては自分とカードたちを結ぶ最後の絆だ。
そうだ、ケロちゃんがいる限りまだ自分と李くんの間には特別な関係が残っている・・・そんなかすかな希望にすらすがってしまう。

だが、小狼の口調はそんなさくらの期待を裏切るかのように淡々とした事務的なものだった。

「いや、大したものじゃない。この間の事故の時にかかった費用の請求書だ」
「請求書・・・?でも、あれは魔力とカードさんたちを対価にしたはずだけど」
「あれは李家の者の命を危険に晒したことと、特別な魔術を使ったことへの対価だ。お金の清算の方は別だ。すまないけど木之本先生に渡しておいてくれ」

お金の・・・請求書。
魔法ともカードとも何の関係もない、ほんとにただの事務処理。
この紙切れを藤隆に渡して藤隆がお金を振り込んだらそれで終わり。

(・・・そうだよね。わたしと李くんはもう、何の関係もないんだもんね。なのにわたし変な期待して・・・バカみたい。あはは・・・)

泣きそうになるのを必死に我慢して請求書に目を向けた。
もちろん請求書の中身に興味はない。
ただ、何かしていないと涙が抑えられない。
それだけのために請求書を読み始める。

が。

ほんの数行を読んだだけでさくらの顔色は変わった。
あわてて最初から読み直し、何度も何度も内容を確認する。
最後まで読み終えた時、さくらの顔は蒼白になっていた。

「こんなのウソだよね・・・李くん・・・何かの間違い、だよね?」

さくらが聞き返してしまうのも無理はない。
請求書に書かれた金額が大きすぎるのだ。
一般家庭で使うお金の単位はせいぜいが万の位、それも2桁までだ。
100万を超える金額を扱うのは一生のうちに何回もない。

だが、この請求書に書かれた金額は文字通り桁が違う。
冗談ではない。
いかに藤隆が高給取りとは言え、支払える限界を遥かに超えている。

「いや、その内容に間違いはない。今回は国に無理を通すのにいろいろと賄賂を使ったからな」
「そんなこと言ったって無理だよ!こんなお金!お父さんどんなに頑張ったってこんなの払えないよ!」
「あの家と土地を売れば少しは払えるだろ?あとはお前の父さんと兄貴が死ぬまで働けばなんとかなるさ」
「そんな・・・!できないよ、そんなこと!」
「そうか。支払えないか。だったら・・・こっちでもかまわないんだけどな」

そう言って小狼が取り出したのは別の紙。
さっきのいかにも事務書類といった感じの請求書とは異なり、黄ばんで所々擦り切れた紙。
よく見るとただの紙ではなく獣の皮をなめしたもののようだ。
それに見たことのない文字で何かが書かれている。

「それは・・・?」
「ま、これも請求書と似たようなものだ。いや、『契約書』か」
「契約書?それもお金を払わなきゃいけないの?」
「こっちはタダだよ。代わりに別のものをもらうけどな。どっちにするかはお前の方で決めてくれ」

なんだ、やっぱり冗談だったんだ・・・そうだよね、あんなお金払えるわけないもんね。
もう、李くんも人が悪いんだから・・・

ホッと一安心しながらもう一枚の紙を手に取り・・・再びその目が驚愕に見開かれた。
羊皮紙に書かれているのはアルファベットとも漢字とも違う不思議な形をした文字。
なのに書いてある内容がわかる。
それには

『木之本さくらの血、肉、魂、その他全てを李小狼に捧げる』

と書いてあった。
たしかに『契約書』だ。
魂を売り渡す、悪魔との契約書・・・

「あ、あはは・・・なにこれ。冗談のつもりなの?あんまり面白くないよ」

さくらは引きつった顔で小狼に笑いかけた。
もう、さくらにはそうするしかなかった。
何十億というお金。
魂を売り渡す契約書。
異常すぎてさくらの理解できる範囲を超えている。
現実の出来事として受け止めることが出来ない。

(冗談だよね?ほんのお遊びなんだよね、李くん?)

この辺で小狼が冗談だよ、と笑いながら2枚の紙を破り捨ててくれる、そんな光景をさくらは期待した。

しかし。

「で、どっちだ?早く決めてくれ」

あくまでも小狼の要求は冷たい。

「李くん・・・本気で言ってるの?」
「当たり前だ。冗談でこんなことが言えると思うのか?」
「だって・・・そんなお金とわたしの魂って・・・どう考えたって釣り合わないよ?」
「そんなことはない。魔力を失ったとはいえ一度はクロウカードの主に選ばれた身体だ。魔術の贄としての価値は高い。それに、ひょっとしたらお前の魔力が復活する可能性もある。それを手放すのは惜しい」
「・・・」
「オレも暇じゃないんだ。さっさと決めてくれないか?」


―――――――――――――――――――――――――――――――――


再びさくらに迫る選択・・・を装った脅迫。
今回もさくらに選択の余地などない。

小狼の提示した金額はあまりにも大きすぎる。
一般家庭で支払える限界をはるかに上回っている。
いや、たとえ知世であっても支払うと言えたかどうか。
それほどの額なのだ。

簡単に「家と土地を売れば」などと言うが住み慣れた家を失って家族三人、どう生活できるというのか。
特に未だ事故の後遺症で立つこともできない桃矢にとってそれがどれほどの負担になるか。
下手をすると二度と立ち上がれない体となってしまうかもしれない。
藤隆にしても、撫子との思い出の詰まったあの家を失った上に巨額の負債を負わされる。
この先、金策に追われて彼自身の夢を追いかけることはできまい。

当然、それはさくら自身の生活にも影響する。
生まれ育った家を失い、父も兄も金策に奔走する毎日。
そんな中でさくら一人、幸せに生きられるはずもない。

親子三人、苦しまなければならない。
それが自分一人だけですむならば・・・

(お前ならそう考えるだろうな。さくら・・・)

そんなさくらだから好きになった。
なのに、それすらも利用する。
なんて汚い男なんだオレは。
だが、かまわない。
この少女を手にすることが出来るならばなんでもする。
悪魔に魂を売り渡したってかまわない・・・


―――――――――――――――――――――――――――――――――


さくらが迷ったのはわずかな間だけだった。
おずおずと伸ばされた手がとったのは・・・やはり羊皮紙の方。
震えた手でそれを持ち上げると、一瞬のためらいの後に書かれた文言を一気に読み上げた。

「わたし、木之本さくらの・・・血も肉も魂も・・・全てを・・・李小狼に捧げることをここに誓います・・・」

ぶわぁっ!

呪を唱え終わるやいなや羊皮紙から黒い光が幾筋も湧き上がる。
黒い触手のようなその光がさくらの体に幾重にも巻きつき、皮膚から浸透していく。
邪悪な呪が肉に、骨に絡み付いていくおぞましい感触。
やがて全ての闇がさくらの体に吸収されると、あとには無字となった羊皮紙だけが床に残された。
代わりにさくらの胸に黒い、羽を模した紋章が浮かび上がる。

「なに・・・これ?」
「それは契約の呪印だ。オレとお前以外には見えないからその点は心配しなくてもいい」
「呪印って・・・これがあるとわたし、どうなっちゃうの?」
「どうにもならない。オレに逆らわない限りはな」
「逆らったらどうなるの?」
「こうなる。『幻(イリュージョン)』!」

発動した『幻』のカードが作り上げたのは少年と少女の幻。
何年か後の小狼とさくらの姿らしい。
今よりも凛々しく、美しくなった二人。
だが、さくらの胸には已然として黒い紋章が残ったままだ。

そこへもう一人の少年の姿が浮かび上がる。
小狼たちと同年輩の少年。
エリオルと雪兎を足して2で割ったような容貌をしている。

はじめ小狼に寄り添うように立っていたさくらだったが、新たな少年に気がつくと小狼の傍を離れ少年に走り寄った。
少年もさくらに気がつき微笑みながら手を指し伸ばす。
そしてさくらが少年の差し出した手を掴んだ瞬間!

「!!」

現実のさくらの口から声にならぬ悲鳴があがる。
さくらは見てしまった。
胸の紋章から吹き上がった闇に突き破られる自分の姿を・・・!
血まみれの肉塊になって地に転がる自分の姿を。
何の表情も無くなった生首がどことも知れぬ闇を見つめ続けている・・・

「あれはわたし・・・なの?わたし、ああなっちゃうの?バラバラにされちゃうの?」
「オレに逆らったらだ。あんな風になりたくはないよな?」
「いやぁ・・・あんなのはいや・・・」
「だったらオレに逆らうな。わかったな」
「は・・・い・・・」
「言っておくがそれは誰にも消せない。たとえクロウリードでもな。これでお前はオレのものだ。この先もずっと・・・さくら・・・」

下される絶望の宣告。
さくらははっきりと理解した。
自分はもうオシマイだ。
これからの自分の人生に輝かしい未来は来ない。
素敵な出会いも。
胸をときめかす恋も。
女の子らしい幸せも。
何一つ巡ってこない。
邪悪な魔道士の慰みモノという悲惨な生しか残っていない。


・・・なのに


(こんな怖いことされてるのに・・・死んじゃうかもしれないのに・・・
わたし、ホッとしてる・・・
これで李くんと一緒にいられる、って思ってる・・・)

さくらの中の何かがそれを悦んでいる。
この絶望的な状況に、なぜか悦びを感じている・・・

この紋章がある限り、自分は小狼から逃げることはできない。
それは、この紋章がある限り小狼と一緒にいられる、という意味だ。
自由を奪い縛り上げる狂気の鎖。
だが、その先は小狼と繋がっている。
この紋章がある限り、自分は小狼を失うことはない。
この先もずっと。
それに小狼は今、自分のことをこう呼んでくれた。

『さくら』

と。

かつて偉に聞いたことがある。
小狼が名前で呼ぶのは特別な関係にある相手だけだと。
この紋章に縛られることで自分は小狼にとって「特別な関係」になったのだ。
それがどんなミジメな関係であろうとも・・・

(これで・・・わたし李くんとずっと一緒にいられるんだ・・・ずっと・・・)

ずっと小狼と一緒にいられる。
邪悪な呪に身を引き裂かれるその日まで。
小狼の魔力に食い破られる自分の姿にさくらはエクスタシーすら感じた。

自分も小狼のことを名前で呼びたい。
けれど、今の自分は「小狼の所有物」。
軽々しく名前を呼ぶことなど許されない立場に堕ちてしまった。
今の自分に許される呼び方は・・・


「はい・・・小狼様・・・」


この瞬間、二人の新しい関係は決まった。

さくらの答えに満足したのか、小狼の頬に笑みが浮ぶ。
理性と狂気の両方を感じさせる笑い。
生贄を手にしたことを喜ぶ悪魔の笑みだ。


そしてさくらの顔にもかすかな笑みが浮ぶ。
それは、この少女には似つかわしくない・・・昏い悦びに満ちた淫靡な微笑みだった。


END


前にも書いたのですが、この話は最初は『チェリーダンス』の投稿用に考えたものでした。
さすがに『チェリーダンス』にはふさわしくないと思い、軌道修正して「もしも」に変更し、この話の中で考えていたシチュエーションのいくつかを投稿した別の話に転用しました。

HPに掲載するにあたり『チェリーダンス』以降のツバサでのシチュエーションを幾つか盛り込んで再編集しています。
「聖伝」「X」「東京バビロン」などに出てくる歪んだ愛、狂気の愛、というのをやってみたかったのですが、やっぱり難しいですね。CLAMPはああいう愛の形を描くのは本当にうまいなあと思います。
クライマックスを迎えたツバサですが大ボスの飛王もやはりああいう狂気の愛に憑かれた男なのでしょうか?

まあこの話『チェリーダンス』にそのまま送ったら確実にボツにされたでしょうね・・・

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