『記憶の羽』



穏やかな夕日の射し込む部屋。
そこには一組の少年と少女がいた。

少女の名はサクラ。
記憶を失った玖楼国の姫。
少年の名は小狼。
飛び散ったサクラの「記憶の羽」を求めて次元を旅する少年。

今回訪れた世界は森と湖に囲まれた小さな村。
そこで小狼たちは森の奥に現れたという謎の怪物を倒してサクラの羽を取り戻した。

「サクラ・・・」

小狼がベッドに横たわるサクラに呼びかける。
いつもの「姫」という呼び方ではない。
彼が本当にサクラを呼びたい時に使う呼び方だ。
それに対するサクラの返事はない。
サクラが眠りに落ちているからだ。
この眠りは普通の眠りとは違う。

『記憶の羽』を取り戻した時に陥る眠り。

記憶の羽を取り戻すとサクラは深い眠りに落ちる。
戻ってきた記憶が身体になじむまでの負担を減らすための防衛本能ではないか?というのは一緒に旅を続ける魔術師・ファイの意見だ。
そのファイは他の旅の仲間、黒鋼とモコナを連れて買出しに出かけている。

「小狼くんはサクラちゃんと一緒にお留守番しててね〜〜〜」
「寝てるからって姫にへんなことすんじゃねえぞ」
「黒鋼、小狼は黒鋼と違うぞ!」
「そりゃあどういう意味だ!白まんじゅう!」
「あははは〜。じゃ、行ってくるからね〜〜〜」

いつもの軽口を叩きながら出かけていった3人。
口には出さないが彼らのじゃれあいの裏には小狼とサクラを少しの間だけでも二人きりにさせてあげたい、という思いやりが溢れている。
そんな気遣いが小狼には嬉しい。

王族の姫としがない研究者の息子。
本来ならば一緒の時間を過ごすことなど許されない二人。
だけど、今この一時だけは二人きりでいられる。


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「・・・は・・・ある・・・」

ふいにベッドの上のサクラが声をあげた。
小狼はサクラの顔に目を向けたが、サクラは目覚めるそぶりを見せない。
どうやら何かの夢を見ているようだ。
これまでの羽を取り戻した時のサクラの話からすると、おそらく今回取り戻した記憶についての夢を見ているのだろう。

「いつごろの夢を見ているのかな」

かつて玖楼国でサクラと過ごした楽しい日々。
その記憶が今、サクラの夢の中で再現されている。
だが、その中に自分はいない。
どれほどサクラの記憶が戻ろうと小狼に関する記憶だけは決して戻ってこない。
それが次元の魔女に渡した『対価』。
自分とサクラの関係はもう昔のものには戻らない。
幼い頃から兄妹のように一緒に過ごした小狼とサクラには戻れない。

今の自分たちの関係は記憶の羽を求める旅をする姫とその従者。
一緒にいられるのはこの旅が終わるまで。
旅が終わって玖楼国に戻ったら、何の関係もない王族の姫と1人の男。
もう一緒にいることはできない。

小狼にとってサクラの羽を取り戻すという行為は、二人の別れを早めるという意味もあるのだ。
それでも小狼はサクラの羽を求める。
決めたから。

「サクラはオレが助ける。絶対死なせない!」

そう誓ったから。
他の誰にでもなく、ただ自分の心に誓ったから。
たとえ、その結果が自分にとってどんなに辛いものになるとしても。


「・・・はキスしたことなかったの?それじゃあこれが・・・のファーストキスだね・・・」
「!?」

サクラの声に小狼は一瞬、息をのんだ。
今のサクラの言葉は小狼の記憶にもある。
あの時だ。
サクラは今、あの時の夢を見ているんだ・・・


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『小狼は誰かと“キス”したことある?』
『キス、ですか?』
『そ!うんとね、お付の人に聞いたの。好きな人同士になったら“キス”しないといけないんだって』
『好きな人同士、ですか』
『うん。だから・・・』
『だから、なんですか?姫』
『サクラと“キス”しよ!』
『えぇっ!?どうしてですか?』
『だってサクラ、小狼のこと好きだもん!小狼もサクラのこと好きだよね!』
『え・・・、いや、その・・・』
『違うの?小狼はサクラのこと・・・好きじゃないの・・・?』
『い、いいえ!オレも姫のことが好きです!』
『ほんと!じゃあキスしよ!ね?』


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男女の区別も人を好きになることの意味も理解していなかった幼い日々。
何のてらいも無く『好き』という言葉を口に出来たあの時。
二人で交わしたおままごとのような口付け。

『小狼はキスしたことなかったの?それじゃあこれが小狼のファーストキスだね!』

あの時、唇に感じた感触もサクラの言葉にまっ赤になったこともハッキリと覚えている。
あれがオレたちのファーストキスだった。
いや、今となってはオレだけの・・・

恋人たちにとって大切な意味を持つファーストキス。
だが、キスをしても身体のどこにもその跡は残らない。
「ファーストキス」は記憶の中にしか存在しない。
その記憶はサクラの中から永遠に失われてしまった。
もう二度と戻ってくることはない。

サクラの中にあるのは誰もいない空間に向かってキスの真似事をしている自分の姿だけ。
だからサクラはまだ「ファーストキス」を体験していないことになる。
そして小狼にはわかっている。
サクラのファーストキスの相手。それは自分ではありえない。
一緒に過ごした記憶を失ったサクラにとって自分は特別な関係ではない。
今のサクラにとって自分は大切な旅の仲間。
しかし、それは一緒に旅をする黒鋼やファイ、モコナと同じ関係だ。
「たった一人の特別な相手」ではない。

この旅が終わって玖楼国に戻ればサクラには王族の姫としての暮らしが待っている。
サクラの唇は姫の身分にふさわしい貴族の男か、よその国の王子か・・・いずれかのものになるのだろう。
決して自分のものにはならない。

こうして一緒にいられる時間もあとどれくらい残っているのか。
今、目の前にある手を伸ばせば届くところにある唇。
淡い桜色の唇。
それは自分のものにはならない。
玖楼国に戻ってしまえば。

・・・・・・・・・

玖楼国に戻る前ならば・・・?
いや、今この瞬間ならば・・・?

そう思った時、小狼の体は自然に動いていた。

(サクラ・・・ごめん。でも、今だけでも・・・今、この瞬間だけでも・・・)

今、この瞬間だけでいい。
オレのものになってくれ・・・

小狼の顔がサクラに近づく。

そして。

一瞬。

夕日が煌いた逆光の中で二つの影は重なっていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


「たっだいま〜〜〜」
「おう、小僧。今、帰ったぜ」
「お帰りなさい、黒鋼さん、ファイさん」
「お帰りなさい、モコちゃん」
「サクラ、目が覚めたんだね!」
「うん。心配かけてごめんね、モコちゃん」
「って、うわ!黒鋼さん、なんですかこの荷物は!」
「ああん?あぁ、そいつは酒だ」
「酒だって、なんでこんなにいっぱい?」
「ここんとこ酒がねえ世界が続いてたからな。次の世界も酒があるとは限らねえ。この世界の羽は取り戻した。今日はとことん飲むぜ!小僧!さっさとオレの部屋に運べ!」
「何もこんなに買わなくても。う、結構重いですよ」
「つべこべ言うな!これも修行だ!」
「は、はい!」

ガシャガシャ・・・
ずるずるずる・・・

「あははは〜黒さま〜〜〜オレの分も残しておいてよ〜〜〜」
「あんなにいっぱい。わたしも手伝った方がいいでしょうか?」
「いいんじゃないかな。わんこたちに任せておいて。それに・・・」
「それに、なんですか?」
「サクラちゃん、ちょっと顔が赤いよ?熱でもあるの?」
「え・・・?」

ファイは宿に戻ってからずっと気になっていたことをサクラに問いただした。
サクラの頬がわずかに赤くなっていたのだ。

「いえ!熱とかじゃないと思います。その・・・夢を見てたんです」
「夢?いつもの羽の中の記憶の夢、かな?」
「多分そうだと思います。その夢の中でわたし・・・誰かとキスしてたんです・・・」
「キス?ひゅ〜、サクラちゃんやるねぇ〜〜〜」

ファイがサクラを茶化す。
しかし、これはサクラをからかっているわけではない。
むしろ逆だ。
いつものへらへらとした表情は崩していないが、

(やば・・・まずい話題に触れちゃったかな・・・)

と考えている。
夢の中のキスの相手、それは小狼しかいない。
ならばその夢はおそらく、その「誰か」が欠け落ちた不自然なものになっているはずだ。
最近のサクラは取り戻された自分の記憶の不自然さに気づいているふしがある。
これ以上、この話題を続けるとサクラがその不自然さに悩むことになるかもしれない。
だからわざとサクラが恥ずかしがってこの話を止めるように仕向けたのだ。

しかし、サクラは話を止めようとはしなかった。

「誰かわからないけど・・・わたし、その時とっても嬉しかった。それだけは憶えてるんです。それで目が覚めたら、唇がとっても熱くて・・・。まるで、夢の中の『誰か』がついさっき、本当にキスしてくれたみたいに・・・」
「そう・・・」

ファイにはもう言うことはなかった。
夢の中の『誰か』も本当にキスをしてくれた誰かもファイは知っている。
その『誰か』がどんなにサクラを大事に想っているかも。

(小狼くん・・・我慢できなかったんだね。でも、それくらいは許されるよ・・・君には・・・)

そしてその小狼の想いが決して報われないこともファイは知っている。
小狼とサクラ、二人の存在がどれほどに儚いものであるかも。
二人にとって今、この瞬間がどれほどに大切な時間であるかも・・・
もうこれ以上この話を続けるのは得策ではない、そうファイは判断した。

「ま、夢の話はわかったよ。さ、サクラちゃん。夕飯の用意をしようか。黒さまも小狼くんもお腹を空かせてるだろうからね」
「はい!」

多少強引に話を打ち切って夕食の準備を始める。
てきぱきと準備を進めるサクラを見ながらファイは想った。
小狼とサクラ。二人の関係を。
二人も知らない彼らの真実の姿を。

(サクラちゃん・・・。小狼くん・・・。オレは見届けるよ。君たちの旅を。どこまで一緒にいけるかわからないけど・・・)

記憶の羽を求める旅。
儚い夢を求める、導無き旅。

彼らの旅路に幸せあれ・・・

END


ツバサ完結記念話その1。
自分にとってのツバサは東京編以前のあの4人と1匹の旅です。
それだけに東京編には大変なショックを受けたのを記憶しています。
いつかまたあの4人の旅に戻る日がくる、と信じながらツバサを読み続けていました。
ついに終着点へと辿りついた彼らの旅。
そして再び始まる新たな旅。
彼らの旅路に幸あらんことを・・・

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