時にはこんな我儘を

テキスト入り口へ メインページへ

1 朝の台所にて

朝の台所で鍋がぐつぐつと音を立てている。
成歩堂は軽く歌を口ずさみながら卵を溶いた。
塩と少量の砂糖で味付けして、熱したフライパンに卵を半分流し入れる。元気な音を立てて焼ける卵の空気を抜きながら、頃合いを見て軽く数回折りたたむと空いたところに残りを流し込んだ。
「……よし、っと」
卵を巻き終え、皿に移す。一人前には多い量だが残りは弁当のおかずだ。
次に鍋の蓋を取り、中を確認する。細切りの大根も良い頃合いのようだ。
火を止め、味噌を入れようと味噌漉しを取ったその時、
ピンポーン
来訪者を告げるチャイムが部屋に響いた。
「? 誰だろ?」
成歩堂は味噌漉しを置き、鍋の火を止め、訝しげに首を傾げながら玄関に向かった。エプロンで手を拭きながら覗き穴から外を伺う。
「……えっ!?」
そこに見つけた人物に驚き、慌ててドアチェーンを外した。
ドアを開けた先に立っていたのは……
泣く子も黙り込んでしまいそうなほどに深い皺を眉間に寄せた御剣だった。
「おはよう、成歩堂」
「うん、おはよ……って、朝からなんて顔してんだ!?」
と言うより先ず、こんな朝早い時間に尋ねてきた理由を問うべきなのだろうが……
そんなことも頭からすっ飛んでしまうくらいに成歩堂は驚き、慌てて御剣を部屋へ通した。
「うム、お邪魔する」
しかし御剣は玄関で立ち止まったまま、靴を脱ごうとしない。
その様子に、成歩堂は仕事がらみであることを直感する。
「どうしたんだ? 何か急用なのか?」
少し落ち着いて、成歩堂はやっとするべき質問を口にした。
「うム、実は君に少々頼みがあるのだが……」
「頼み? 珍しいな。お前が僕に頼みなんて」
「君でないと出来ないものなのだ」
「今から直ぐにか?」
「出来れば早い方が良いが、今すぐでなくても良い」
御剣の返事に頷き、成歩堂は部屋の時計に目をやった。
「時間が少しあるなら上がって行かないか? 朝ご飯は?」
「いや、ここに寄って、その後局で取るつもりだ」
「ならば食べていく? もうすぐ出来るから」
成歩堂の申し出に御剣の眉間の皺が少し減る。しかし今度は気遣うように苦笑を漏らした。
「それは有り難いが……君の食べる分が減ってしまうだろう?」
「ああ、心配要らないよ。少し余分に作ったし……味の保証は出来ないけどね」
笑って言いながら手招きして奥へと促す。親友でも、弁護士モードでもない、控えめながら恋人モードの笑顔に御剣は今度こそ眉間の皺を完全に解いた。
「では、お言葉に甘えるとしよう」
「ああ、そうして行ってよ。準備しながらでも話は聞けるからさ」
そう言って成歩堂は再び台所に戻ると、味噌汁作りを再開した。
その後に続いてキッチンに入り、思わず御剣が感嘆の声を上げる。
「ほう……いい匂いだな」
「そう? 誘っておいてなんだけど、簡単なものしかなくてさ……ごめんな」
特徴的な眉を少しばかり寄せて苦笑する成歩堂に、御剣は穏やかに頭を振る。
「いや、急に来た私が悪いのだ。気にしないでくれたまえ。それより何か手伝おうか?」
「うん? ……良いよ、別に。だっていつも世話になちゃってるのは僕の方だし……」
いつも泊りに行くとき、翌朝の支度は殆ど御剣に任せっきりなのだ。それには確かに理由はあるのだが…………
そこまで言ってしまうのは、さすがにこの時間はまずい。
「それより、僕に用事って何?」
意外なほどに手際良く準備を進めながら、話を変えるために御剣を促す。
「う、ム……実は君に少し意見を聞きたいのだよ」
「僕に……?」
「実は先日起こった事件なのだが、判例を調べていくうちに過去に行われた類似の事例に綾里弁護士の担当したものがあったのだよ」
「……千尋さんが?」
食器を並べていた手を止め、成歩堂が顔を上げる。その丸い目を見つめながら、御剣は一つ頷いた。
「やや特殊な案件でな……被告人や、事件そのものに少しばかり疑問が残る。だから……」
「千尋さんのファイルが要るんだな……いいよ。多分事務所にあると思う……」
「出来れば……」
先を読んで答える成歩堂をさらに遮って、御剣は言葉を重ねた。
「君自身にも協力を依頼したいのだ」
その声の真剣な響きに、成歩堂は簡単な事ではないと悟る。
「話、時間掛かりそうだね……じゃあ、先ずは朝飯食べようか」
おかずは全て並び、ご飯と味噌汁をよそうと準備が完了する。
どちらから言うわけでもなく、二人は朝食の間、仕事の話を口にしなかった。
「ム……この卵焼き、美味いな」
焦げ目も境い目も見えないくらいに綺麗に焼き上げられた卵焼きに、御剣が感嘆の声を上げた。
「ただの卵焼きなんだけどね……口に合った? 卵焼きって人によって好み違うから……」
「うム、いや、大丈夫だ。むしろこれは私好みだな……この味噌汁も……君は意外に料理が上手なのだな」
「そう……? これでも自炊してるから……って、そうか」
今初めて思い至ったように成歩堂が目を丸くする。
「そう言えば、僕の手料理食べるの初めてだっけ」
「今気付いたのか」
「うん……」
よく二人で朝食は食べているから失念していた。いつもは御剣の部屋で、御剣の手製の朝食をとっているのだ。その度に成歩堂は次こそは手伝おうとは思うのだが……
「………………うう」
情景が頭の中に蘇り、赤面して黙り込んでしまう。
手伝おうとはするのだが……
その朝になると『必ず』寝過ごしてしまい、全ての準備が整ってから御剣に起こされるのだ。
「……ククッ」
真っ赤になった成歩堂の顔からその心情を読み取り、御剣は少し意地悪く笑った。
そう、成歩堂が『手伝わない』のではない……
御剣が『手伝わせない』のだ。
その理由は言わずもがな……
御剣自身に原因があるのだから……
それが解っていながらも、だからと言って『はい、そうですか』と甘えていられる成歩堂ではない。だからこそまだ寝ている内に全てを済ませてしまうのだ。
「しかし、少しばかり勿体ない事をしていたかも知れぬな」
こんなに美味な朝食を食べられるのであれば、たまには良いかもしれない。
「だが、そうしたら、それは単なる私の我儘になってしまうがな……」
苦笑しながら箸を運ぶ御剣に、成歩堂は優しく微笑んで見せた。
「……良いんじゃないか? たまにはさ」
その代り夜はちょっと手加減して貰わないとだけど……?
意趣返しに悪戯っぽく笑って見せれば、御剣が唸り声を上げて黙り込む。
かなり究極の二者択一にしばし考え込み……
やがて解決策を見出したのか、ニッ、と口元を釣り上げた。
「では、今度私に弁当を作ってくれたまえ。君が、時間がある時で構わないから」
「ん、そんなのでいいの? 朝食だって作るよ」
「確かに魅力的ではあるがな……これは私の我儘だ」
「我儘、ね……」
自分より常にはるかに忙しいはずなのに、御剣はそれでも常に自分を気遣ってくれている。むしろ甘えているのは自分の方……
恋人ならばもっと自分だって御剣に何かしてあげたい……
確かに仕事もソツなく、体調管理だってともすると成歩堂より上手くやってるかもしれないけれど……
時々御剣自身の事が心配になる。
だからこそ、願いが有れば出来うる限り叶えたいのだ。
「わかった。欲しい時には言ってくれ。あんまり大したものは作れないけどね」
朝食を終えれば再び二人は検事と弁護士に戻る。
「朝食のお礼だ。送って行こう。ついでにファイルも見せてもらえまいか?」
「ああ、いいよ。じゃあ、今日はお言葉に甘えるとするかな」
「よろしい。では準備するとしよう」
すっかり日常に戻った二人は片付けと支度を終え、目覚め始めた街へと出て行った。

 

 


2・ある夜の話
 
ふと、眼が覚めた。
肌触りのいい布地に心地良い温もり……
ああ、そう言えば今日は……
自分を包み込むようにまわされた腕に、どうしようもないほどに切ない幸せを感じて成歩堂は無意識にその腕の主の胸に額を摺り寄せた。
「……ン? どうした」
不意に起こったくすぐったさに、御剣が優しく問いかける。
「あ……ごめん、起こしちゃった?」
摺り寄せていた頭をハタと止め、成歩堂は顔を上げた。
「いや、まだ起きていた。構わない」
回していた腕を更に抱き込むようにして、成歩堂の頭をもう一度胸に押し付ける。
そのまま髪を梳いてやると、成歩堂は再びうっとりと眼を細め、額を摺り寄せてきた。
鼻を寄せ、首の付け根の匂いを嗅ぐ。
鎖骨に息が掛かり、御剣はくすぐったさに思わず身を捩る。
「こら、くすぐったいではないか」
クスクスと笑いながら、滅多に甘えてくる事の無い成歩堂の感触を堪能する。
成歩堂もまた、御剣の声音と髪を梳く手つきに拒絶の気配が無い事を感じ取る。
「ごめん、今日だけは……」
たくましい背中に腕を回し、ぴったりと身体を寄せ、抱きしめ返してくる腕に身を任せる。
言葉にしない、控えめな我儘……
「今日だけとは言わなくていい……」
いつでも甘えてきてくれて良いのだよ……
それを言う代わりに、御剣は成歩堂の頭に軽いキスを落とした。
「こうしておいてやるから、もう、眠りたまえ……」
「うん、ごめん……」
恋人の優しさに包まれて、成歩堂は再び眠りに落ちて行った……

 


3・ありえないくらいの……~事務所にて~
 
「うム……」
「どうしたんですか? 眉間にヒビが入ってますよ?」
「ム、これはヒビではないのだが……」
「わかってますよ。何か悩み事ですか? もしかしてなるほどくんの事?」
「そうなるかもな」
「何ですか? この真宵ちゃんに言ってみてください!」
「う、ム…………その、君はいつも成歩堂に甘えたり我儘言ったりしているのだろうか」
「えっ!? ………………う~~~~ん、言ってるかなあ……」
「例えば、昼は何が食べたいとか……」
「あ、それいつもですよ」
「たまにはそれで喧嘩とかにならないのだろうか?」
「なりませんよ。なるほどくん、逆に何でも良いよ、って言っちゃうから……まさか喧嘩したんですか」
「いや……そのようなことで喧嘩になった事は私も無い。と云うか、成歩堂はいつも何も言わないのでな……無理をしてないかと」
「う~~~~ん、どうなんだろ。我慢してそうには見えないけど」
「普段、ここでも同じようなものなのか」
「ですねえ……あ、でも、ミツルギ検事がここに遊びに来るときにはちょっと違うかも」
「ほう? どこが違うのかね」
「仕事の効率と、あと、お掃除」
「クククッ」
「前は所長室なんてすごかったんですから。それでたま~~にお姉ちゃんに出て貰ったりして……」
「それは恐いな」
「でもあんまり効果なかったけど……でも、ミツルギ検事と付き合い始めて片付けるようにはなったんですよお」
「ほお、それは良かった。だが、それでは私はますます成歩堂に気を遣わせている事になるな」
「良いんじゃないんですか? そこは。ミツルギ検事はそれ以上になるほどくんを甘やかしてるんだし」
「そんなに甘やかしているだろうか」
「ええ! もうデレッデレに!」
「ううむ……」
「なるほどくん、たまに言ってますよ。甘えてばかりで申し訳ないって」
「そんなことは気にしなくても良いのにな。むしろ私こそわがままばかりだ。たまには成歩堂の我儘を聞きたいのだが……」
「……僕は思いっきり我儘だよ」
「! 成歩堂!」
「あ、お帰り! なるほどくん!」
「ただいま……」
「お茶、淹れるね!」
「うん、ありがと……」
「すまないな。勝手に待たせて貰った」
「うん、良いよ……こっちも待たせてごめん……で、さっきの話だけど、甘えてるのは僕の方だよ。僕の方こそ御剣の我儘を聞きたいくらいだ」
「……では、それが我々の我儘、と言うことになるな……」
「ん、そうなる……かもね」
「……」
「……」
「ククッ」
「ハハッ」
「………………結局さぁ、これって有り得ないくらいのバカップルだよねェ(ぼそり)…………」
 
チャンチャン♪