マイ・スィート 3

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眼が覚めると、うっすらと外が明るんでいた。
時計を確認すると午前6時……
まだ起きるのにはいささか早い時間だ。

隣で眠る成歩堂は、まだ起きる気配が無い。

それも当然だろう……昨夜はかなり無理をさせてしまった。

初めて見た乱れる姿に、私自身歯止めが利かなかったのだ。
途中で意識を失ってくれなかったならば、彼を抱き殺していたかもしれない。

……勿論、そんな事は無いが……

目覚ましのアラームを切り、鳴らない様にしておく。
公判で疲れ果てた身体であれだけ激しく睦みあったのだ。
今日はまともには起きれまい。

それに起こす気も無い。

眠りが深い事を確認し、肩が冷えないようにそっと上掛けを掛けなおす。

そのまましばらく彼の寝顔を見つめていた。

乱れてぞんざいに頬に掛かる髪が彼の顔をあどけなく見せている。
私と同じ年齢のはずだが、こうして髪を降ろしているととてもそうは見えない。

身長も私と殆ど同じであるにも関わらず、身体つきはいささか私の方が良い。
華奢ではないが、贅肉のあまり無い身体は確かに細身だ。
しかし全く鍛えられていない訳でも無い。
細い腰は標準以上の筋肉で覆われているし、しなやかな手足は思ったよりも強いバネを持っている。
今は私が付けた痕が散らばっている背中も、美しい筋肉の線を浮き彫りにさせている。

成歩堂自身には全く自覚は無いようだが……間違いなく彼は美しいのだ。

私に絵心があればその姿をカンバスに留めている事だろう……

だから絶対にその裸身は人目に晒す訳には行かない。

「役者になどならなくて良かった……」

成歩堂には聞こえない声で呟く。

彼自身は決して話そうとはしないが、きっと相当なトレーニングも積んでいたはずだ。
舞台で声を通すためにはそれなり以上の肺活量が必要になる。
事実、昨夜理性を失くした成歩堂は、その本来の声量を如何無く発揮していた。

「う……ん……」

小さく声をあげて身じろぎをすると、成歩堂はころりと身体の向きを変えた。
そのまますうすうと寝息が聞こえる。

私は小さく微笑むとそっとベッドを抜け出した。
成歩堂は起きない。

携帯を片手に音を立てずに部屋を出る。
用を済ませ、冷蔵庫からミネラルウォーターを出しながら、私はある番号にコールを掛けた。

朝もまだ早いから起きていないかもしれないが……

そう思いつつコール音に耳を傾けていたら思いの外すぐに元気な声が受話器の向こうから響いた。

「はい、綾里です」
「……真宵君かね? 御剣だ」
「あ、おはようございます!」
「うム、おはよう。もう起きていたのかね?」
「ええ……って、もうすぐ6時半ですよ!」

至極当然の様に言い放つ。
私は苦笑を漏らした。

「そうか……早起きなのだな。すまないが成歩堂の件で……」
「今日、お休みですか?」

先手を打って真宵君が確認するかのように言う。
話が早い。

「うム、このまま今日は拘束しようと思うのだが……アポは無いのだったな?」
「はい、今週はもう無いですよ。後は急な依頼が無ければ、ですけど」
「それはこちらで手配しよう。少なくとも今日一日は休ませる。君も今日は休みたまえ」
「了解です!」

元気の良い返事の後、真宵君は少しだけ声のトーンを落とした。

「なるほどくんの事、お願いします……多分疲れ切ってるはずだから……」
「承知している。今日一日様子を見ることにしよう。明日の事は追って連絡する。それで良いだろうか?」
「わかりました!」
「では、また」

通話を終え、軽く着替えを済ませてから寝室に戻る。
成歩堂は未だ眠りから覚めていなかった。

サイドテーブルにミネラルウォーターを置き、ベッドサイドに腰掛けて成歩堂の顔を覗き込む。
辛うじて見える瞼はまだ閉じている。
夢を見ているのか、時折睫毛が微かに震える。

「…………」

額に掛かる前髪が少し汗で張り付いているのを認めて、そっと指を絡めてみた。

「うム……」

やはり少し熱いようだ。
風邪かもしれない。

薬を準備するべきか思案している内に、成歩堂が目を覚ました。

「う……あ?」

眼を開け私の姿を認めると、小さく微笑する。

「おはよう、成歩堂」
「うん、おはよ、御剣……今何時?」

2、3度瞬きを繰り返して、上体を起こそうとする。
途端に痛みに襲われたのか、苦痛に眉を顰め、頭に手を当てた。

「うっ……」
「どうした? どこか痛むのか?」

肩を支え、額に手を当てる。
さっきよりはっきりと熱を知覚した。

「うん?……大丈夫」

起き上がり笑って見せる成歩堂に、思わず眉を顰める。
その眉間の皺を目に止め、成歩堂は更に笑みを深めて私のそれに指を伸ばす。

「朝からなんて顔してるんだ?」

敢えて体調が悪いのを誤魔化すつもりか……

「君がそうさせているのだ」

私は取り敢えず眉間の皺を解き、成歩堂の上体を支えた。

「風邪か? 声が掠れているようだが……」
「声が掠れてるのは風邪のせいじゃないよ」

目元を赤らめ視線を落とす。

その表情が艶を含んでいる事を彼は自覚しているのだろうか……?

勿論成歩堂の声が掠れている原因が別にあることは承知している。
しかし敢えて知らぬふりをする。

「水は?」
「あ、ありがと」

差し付けられたペットボトルの水を素直に口にする。
飲み終えたころを見計らい、ボトルをテーブルに戻すと引き出しから体温計を取り出した。

成歩堂の身体を抱きかかえたまま、それを脇に挟み固定する。

「えっ……御剣?」

驚いたように私を見上げる眼を見つめ返しながら、私は薄く微笑んだ。

「昨夜は君に無理をさせてしまったからな……悪影響があるといけない」
「ばっ……! バカ!」

成歩堂の顔があきらかに赤くなった。
恥ずかしくなったのか、うろうろと視線が泳ぐ。

「だからって熱なんて計らなくていいよ」

身を捩り私の拘束から逃れようとする。

だが、そうはいかない……

直ぐに計測終了のアラームが鳴り、それをさっさと取り上げる。
表示された数字に私はわざと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「フッ……どうやら検察側は決定的な証拠を掴んだようだ」
「け……決定的って……」

ぎくりとしたような表情の成歩堂に、証拠を突きつける。

「38度2分……微熱ではないな? 弁護人?」
「い……異議あり! 僕は平熱が高いんだよ!」
「だからと言って38度は有り得まい? 苦しい言い訳だな」

本当に苦しい言い訳に本気で呆れながら、成歩堂を無理矢理ベッドに寝かせる。

抵抗しようとして身を捩った時、激痛が走ったのだろう。
成歩堂は悲鳴を上げてそのまま動けなくなった。

「あつつつつつ……」

それ見たことか……
昨夜あれだけ激しく抱かれたのだ。
今日はまともに動けまい。

「有り得ないような言い訳などするからだ。どちらにせよ動けまい? 今日はおとなしくしていたまえ」
「大丈夫だよ、このくらい……っててっ!」
「馬鹿者、無理するな。受け手の負担は大きいのだから……それとも……」

暴れる耳元に唇を寄せて囁く。

「まだ、足りなかったのか……? もう一度抱き潰されたいか?」

お望みとあらばいくらでも抱き潰して差し上げよう……

「み……御剣っ!!!」

私の不穏な気配に成歩堂がピタリと動きを止め、真っ赤になって叫んだ。

「お前……もしかして初めからこれを狙って……!?」
「君は、昨夜既にかなり疲労していた」

喚きそうになる成歩堂を押さえ、口を切る。

「君の仕事は私と比べると、相当なストレスを受けるからな……」
「御剣……?」
「それに君はこのところ知名度も上がって、依頼も多い。
ましてや君が専門とする序審法廷はたった三日で決着を着けねばならない」
「…………」
「しかも君の担当する事件では、真犯人を挙げない限り被告人を救う術が無い事が多い」

私が言わんとするところを計りかね、成歩堂が大きな眼を微かに眇めている。
私は構わず微笑みながら先を続けた。

「大人数の刑事たちが見つけられない手掛かりをたった一人で探さなければならないのだ……
寝る間もないのは予想に難くない」
「一人じゃないよ……真宵ちゃんや、法廷では御剣だっている……」

微笑みながら成歩堂が口を挟んだ。

「僕は一人じゃないよ……」
「だとしても……」

私は殊更ゆっくりと成歩堂の髪を梳いた。

「それは審理の時だけだ。弁護士としての仕事は誰にもフォローは出来ない」
「そ、それは……」
「君が一人でやらなければならない仕事はあまりにも多いからな。
精神論ではなく、物理的に……限られた時間でそれをこなすのは並大抵では無理だろう」

それを遣り遂げる精神力……成歩堂は確実にそれを持ち合わせている。
しかしそれは同時に危険なものでもある。

「君は、依頼人を救うことに夢中になり過ぎる……強すぎるその精神力が君に疲れを知覚させない」
「疲れはあるよ。でも、御剣よりましだって……依頼が無い時はいつも休んでるようなものだから」

全く……
ああ言えばこう言う……

「君がそうやって往生際が悪いから、私は強硬手段に出るしかないのだよ」
「強硬手段……?」

本気で分からないらしい表情で私を見上げてくる。
私は少しばかり意地の悪い笑みを浮かべて見せた。

「まさか……!?」

私の表情から答えにたどり着いたのだろう。
成歩堂は二の句を継げずに耳まで真っ赤に染まった。

「君はどうせ大人しく言う事を聞くはずもないからな……
ならばなけなしの体力を奪い尽くす以外方法はあるまい?」

真っ赤な耳に唇を寄せる。

「私の欲求も満たされて、一石二鳥だとは思わないか?」
「異議あり! 一石二鳥なのは御剣だけだろ! ……って、もう……」

勢いよく叫んだかと思うと、成歩堂は急に声のトーンを落とした。
どうやら本当の限界が来たらしい。
身体がゆっくりとベッドに沈んだ。

「ほんと……信じらんない……」

髪を梳き続けていた私の手に自分の手を添える。
そしてその手を自分の頬に持って行った。
そのままうっすらと眼を閉じる。

「あまり甘やかすなよ……本当のぼくは弱いんだから」
「心配は要らない。今日の様に間違いなく無理をしている時だけだ。それに……」

親指でそっと頬を撫でる。
熱が上がりしっとりと汗ばんだ肌が指に吸い付く。

「君は弱くない……強いから誰かが止めなければならないのだ……
逆なのだよ、成歩堂」
「御剣……」

成歩堂が眼だけを上げて私を見た。
その眼はもう完全に熱で潤んでいる。
私はその額にそっと口付けを落とすと微笑んで見せた。

「さあ、もう休みたまえ。朝食を準備してくる……おとなしく寝ているのだぞ」
「…………分かったよ」

降参したように成歩堂が上掛けを引き上げた。
私が満足したように頷くのを見て、少しだけむくれてみせる。

せめてもの意趣返しだろうが、残念ながら可愛いだけだ。

「何か欲しいものはあるか?」
「何でもいいよ」
「ではトーストにスクランブルエッグで良いだろうか」
「うん」
「では、待っていたまえ」

すっかり観念しておとなしくなった成歩堂を部屋に残し、簡単な朝食を準備する。
もしもの時の為に出来合いのコーンスープも温めて添えておいた。

それらと薬をトレイに乗せ、寝室へ戻る。

「あ、呼んでくれればよかったのに……」
「気にするな……起き上がれるか?」
「うん、大丈夫だよ」

言いながらそろそろと身を起こす。

トレイをサイドテーブルに乗せ、私は成歩堂の身体に負担がかからない様に背に枕をあてがった。
そして私自身はスツールを引き寄せ、向かい合うようにして座り、朝食を始めた。

「……御剣、今日仕事なんだろ? 時間は大丈夫なのか?」

トーストをゆっくりと咀嚼しながら、ふと思い出したように成歩堂が問うてきた。

「うム、まだ時間はある。今日は公判も無いからな」
「そうか……ごめんな、僕の為に……」
「気にする事は無い。それに今日は休みを取るはずだったのだよ」
「有給?」
「うム、消化しなければならないのでな……」
「それなら良いんだけど……でも、仕事には行くんだろ?」
「ほんの少し野暮用があるだけだ。昼までには戻る」

朝食を終え、トレイに食器を片付ける。
少量ではあるが完食してくれたことにホッとしつつ、風邪薬の瓶の蓋を開けた。薬を水と一緒に差し出すと、
成歩堂はおとなしく受け取り、口に流し込んだ。

そのまま寝かせつけると、何か言いたげな瞳がこちらを見つめていた。

「なあ、御剣……」
「ダメだ」

口を開こうとした成歩堂を遮り、言下に切って捨てる。

「……まだ、何も言ってないじゃないか……」
「言わなくてもその眼を見ればわかる。仕事に行くつもりなのだろう?」
「…………ダメ?」
「どんなに可愛くおねだりされてもダメ、だ」
「ケチ……」

むくれて成歩堂はもそもそと布団に潜り込んでしまった。

全く……君は子供か?
可愛過ぎて、犯罪だぞ

「そんなに拗ねるな、成歩堂」

上掛けをそっと剥ぎ、頬に手を当てる。
成歩堂は唇を尖らせたまま、私から視線を逸らしていた。

その横顔に微笑みかけ、私は構わず先を続ける。

「昼前には戻ってくる。何か欲しいものがあったら買って来よう」

優しく言って聞かせると、やっと諦めがついたのか成歩堂はボソボソと呟いた。

「……冷たいものが欲しい」
「アイスみたいなものか?」
「ううん、果物か、ゼリーのようなもの……」
「承知した」
「うん……ごめんね」

後の言葉がだんだん不明瞭になってくる。
うとうとし始めた成歩堂から手を離し、きちんと上掛けを掛けなおす。

リモコンで空調をセットしていたら、寝言のような声が聞こえてきた。

「……あ、真宵ちゃん……連絡、しなきゃ……」

よほど気になっているのだろう。
無理もないが……
だがここでもう連絡済だと言えば、また要らぬ時間を取られかねない……

だから少しだけ誤魔化しておく。

「案ずるな、連絡は私がしておこう。君はゆっくり休みたまえ」
「うん……ありが、と……」

語尾が口の中に消えて行き、深い寝息に取って代わられる。

よほど無理をしていたのだろう……

だが、もういい……
今の彼に必要なのは充分な休息だ……
もう、無理する必要は、無い。

「お休み……龍一」

眠る成歩堂を起こさぬように口の中だけで小さく囁くと、私は部屋を後にした。
 
野暮用を済ませて一刻も早く帰って来よう……
 
愛しい人と一時でも長く一緒にいるために……
 
朝日がすっかり昇ってしまった街を、私は検事局へ向かって車を走らせた……

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