可愛い人

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 1・私と君とワインの味
 
今日は何となく気分が変わっていたのだろう。
いつもはそんな事はしないのだが、たまにはと思いデパートの地下に足を運んだ。
『こんなとこ、滅多に来ないからなあ……』
そう言ってきょろきょろと見まわす恋人の姿を思い出しながら、何気なく店内を見て回る。
彼と付き合うようになって、このような場所に足を運ぶ機会も多くなった。
それまでの自分が、いかに時間の余裕なく生きてきていたのか思い知らされる。
(だが、一人で来た事は無かったのだな)
ふとそのことに思い至り、一人苦笑した。
一角にあるワインの専門店。
その前まで来て、私は以前彼と交わした会話を思い出す。
『僕にはよく判らないんだ。どんなワインが美味しいのかなんて』
やっぱり値段で決まるのか、と首を傾げる彼に、私はつい微笑んでしまっていた。
しかし、何度か飲みに行って分かったことが有る。
彼は見た目のイメージとは遠く、意外に甘口を好まない。日本人には飲みやすいと評されるロゼはそれなりのようだったが……
「…………うム」
ごく普通に置かれた赤ワインを一本手に取る。
値段はそこそこなのだが、これだけは実際に呑んでみないと判らないものだ。
(一度試してみるのも良いな)
思い出していたら逢いたくて仕方が無くなってきた。
私はそれを買い求めると、そのまま愛しい人を拐いに夜の街を走った。
「びっくりしたよ。急に連絡してくるんだもん」
「すまないな。急に逢いたくなったのだ」
「うん、それは……僕も嬉しいけど……」
先週逢ったばかりだから……お前も忙しいだろうし……
言い訳めいた声で呟かれる言葉に、私の口元に微笑が浮かぶ。
彼が今日公判だったことは既にリサーチ済みだった。それにそれが結審したことも、遅くなってまだ事務所だったことも全てが幸いし、私はそのまま恋人を乗せてきたのだ。
「フッ……いつもの私の我儘だ」
「そんな事無いよ。でも、迷惑かけたくないし……」
もう一度その邪魔な口を塞いでしまおうか……
さっき、車に乗る前にも塞いできたにもかかわらず、こんなことを言う。
だがいい加減その往生際の悪さにすら可愛さを感じてしまうあたり、私も相当重症なのだろう…………
…………
「え、これって……赤ワイン?」
「今日たまたま目についてな。つい買って来てしまったのだよ」
私も初めて飲むが……
言いながらコルクの栓を抜く。
「あ、いい香り……」
無意識に恋人が私の方に身を寄せる。
湯上りで濡れ落ちた髪から漂う清潔な香りが、私の鼻をくすぐった。
どんな上等な酒よりも私を酔わせる香り……彼は気付いているのだろうか?
「そんなに肩肘を張らずに飲めるワインだと説明が有った。実際ヨーロッパでは場所によっては気軽にワインを楽しむところもあるくらいなのだよ。むしろ水の方が貴重な所もあるくらいだ」
「へえ、水って、普通の水が?」
「その通り。日本では当たり前でも、大陸では生水が飲めない所もある」
とりとめのない会話を交わしながら、グラスにワインを注ぐ。話を聞いてホッとしたのか、恋人の肩から力が抜けた。
グラスを手渡すと、素直にそれを受け取る。伺う様な大きな瞳に、私は頷いて見せた。
「何も気にしなくていい。ま、このチーズに合うかはわからないがな」
「うん、ありがと。じゃあ乾杯」
微笑を浮かべ、恋人はグラスに口を付けた。
それに倣い私もワインを口に含む。
けして悪くは無い味わいだ。初心者向けでは若干無いようだったが……
「これなら飲みやすいかも……どれが高級かなんて判んないけど」
「君はあまり甘口を好まないからな。確かにこれは日本酒の辛口に似ている」
「うん、飲みやすい……って、日本酒飲んだことあるの?」
「そのくらいはな……そう言う君も、あまり外では飲まないようだが?」
「甘いと悪酔いしちゃうからね……」
クスクスと笑いながら再びグラスに口を付ける。
「それにお前だって外ではあまり深酔いしないだろ? 僕にもあまり、何も無理に勧めないしさ」
気付いていたのか……
確かに初めの頃は自分が飲んでいるものを少しばかり勧めたりはしていたが……
「まあ、僕はお前みたいに舌が肥えてないから、勧め甲斐無いだろうけど」
矢張り本当の理由には気付いていないらしい。
恋人は残りの一口を文字通り喉に流し込んだ。
空になったグラスに新たなワインを注ぎながら、私は苦笑する。
この、最後の一口を呷る姿の艶めかしさに気付いたとき、私は彼に外でワインを勧めることを止めたのだ。
絶対にこのような姿を、他の者に見せられはしない……
「家の方が君も気軽に楽しめそうだからな」
そう言うに留めると、私も自分のグラスを干す。
「確かにね」
言いながら今度は彼が私のグラスを満たしてくれた。
「でもさ……酒の良し悪しなんて判んないけど」
ボトルがある程度空けられた頃、少し酔った恋人の赤い唇が言葉を紡いだ。
「結局僕は、お前と飲めれば何だって美味しいのかも知れないな」
最強の言葉をさらりと吐き、笑う恋人の肩を抱き寄せる。
「嬉しい言葉だな……だが」
「ん……? ンっ」
濡れた唇を塞ぎ、ワインの残る舌を味わう。
「う……ン……」
絡めた舌が甘く変化し、極上の味わいをしばし堪能すると、恋人の身体から力が抜けていく。その身体をソファに倒し、だんだん貪るようにキスを深めていくと、恋人の唇から洩れる吐息に喘ぎが混ざり始めた。
「あ……」
キスを解くときに引き出されてしまった舌にもう一度舌を這わせると、恋人の身体がピクリと震えた。その反応に満足感を覚え、私は微笑む。
「私は君とこうやって味わうのが最も好きだ」
「も……バカ……」
うっすらと開かれた瞼の奥から酔ったように濡れた瞳が覗く。
「これじゃ、どっちに酔っちゃうのか判んないよ」
「心配は要らない……とっくの昔に私は君に酔っている」
さらさらと頬に掛かる髪を梳きながら蟀谷に口付けを落とすと、
「それじゃあ、僕と同じじゃないか……」
はにかむように囁く恋人の腕が、私の首に回された。
夜はまだ長い……
私たちの宴はこれからだ……

2・僕とお前とワインの香り
 
遅くなった仕事の帰り、いつも寄るスーパーに足を運んだ。
お財布事情の厳しい僕にとって、惣菜でさえもワンコイン出せばそれなりに揃うここは有り難い存在だ。
昼間はどうかわからないけど、夜と言って良いこの時間帯には僕のような男一人の買い物客もそれなりに目に付く。
以前、あいつと来た時、少しもの珍しそうにきょろきょろしてたっけ。
どちらかと言えば自炊とは程遠いイメージの恋人が子供のように買い物かごを覗き込んでくる様は、妙に可愛いものが有った。
なんて言ったら絶対眉間に皺を寄せそうだけど……
僕とほぼ同じ体格で(と言っても向こうがほんの少しだけ体格いいんだけど……)一分の隙も無い格好をした男がこういう所をうろつく様は、見事なくらい似合わなかった。
思い出してつい緩みそうになる口元を慌てて引締め、僕は取り敢えず今晩のおかずを考える。
公判も終わって残務処理に追われた今日は、正直夕飯を作る気力も殆ど残っていない。
だからと言って食べなければ、しっかりと恋人にばれてしまう……
(参るよな……ちょっと痩せただけで気付いちゃうんだから)
まあ、でも今日はもう遅い時間でもあるし、明日は休みだから作り置きはその時にすることにして、取り敢えずの食材を適当に籠に放り込む。
そして今夜はさしあたりレトルトのカレーでもと売り場に向かう途中……
「あれ?」
近頃はワインもごくごく一般的に売られてるらしい。
酒類の置いてあるコーナーに山積みに置かれたワインが目に留まった。
とまあ、それ自体は今時珍しくないんだけど……
「安ッ!」
見ればワンコインで買えるお値段だ。
僕は思わず手に取ってラベルを見た。
味の指標を示す表示にやや辛口とある。
あいつならばこの意味も見当はつくのだろうけど、如何せん僕にはどんなものか分からない。
(ちょうどお酒も切れてたしな……)
この値段ならそんなに財布は痛まないし……
僕は白ワインを一本手に取ると、籠の中に入れた。
ほんとは赤の方が良いのかも知れないけど、あいつを思い出してしまうし、余計なことまで思い出してしまいそうだ。
「…………ううう」
ついこの前の事を本当に思い出してしまい、僕は慌ててその場を離れた。
買い物が終わって、自転車のかごに荷物を入れた時、僕の携帯が着信を告げた。
「…………? 誰だろ」
ディスプレイを見れば、表示されているのは恋人の名前……
しばらく話をして、電話が切れる。
「無理しなくても良いのに……」
仕事が相変わらず立て込んでいるはずなのに、こうやってマメに連絡を寄越すんだよな。
一度本人に聞いたら、「私の単なる我儘だ」って、あっさり言われちゃったっけ。
なんて思ってるうちにアパートに辿り着いてしまった。
部屋に入ると、取り敢えず買ってきたものを選り分ける。炊いてあったごはんを皿に盛ってカレーをかけ、レンジに放り込めば夕飯の支度は完了だ。
無造作に入れていたワインを取り出すと、僕は一瞬迷った。
「カレーにワインって合うのかな」
取り敢えず後回しにして、冷蔵庫に入れるものを適当に放り込む。仕込みは全て明日に回し、僕は適当にコップを一個取り出す。
「……あちゃあ」
ワインを開けてみようかと手に取って、僕は初めてそれがコルク栓であることに気が付いた。
当然僕の家にコルク抜きなんて代物は無い。
どうしようかと思っていたところに再び電話が掛かってきた。
確認すればまたもや恋人の名前……
「珍しいな……」
嬉しいんだけど、同時に訝しさも感じる。
ひょっとして何かあったのか……?
しかしそれは杞憂に終わる。
「今から逢いに行っても良いだろうか?」
「え? 今から?」
「迷惑だろうか?」
「いや……そりゃあ嬉しいけど、お前明日は? 仕事じゃないのか?」
「今日殆ど目処がついた。後は週明けで充分間に合う」
淡々とした声だけど、その奥に逢いたいって言う響きが聴こえてくるようで……
「ならば良いよ」
僕はうきうきと返事をした。逢えるだけでもほんとに嬉しい。
「夕飯は食べたのか?」
「ああ、もう済ませた。君は?」
「僕も今から食べるとこだよ」
レトルトカレーだけど……
「ちゃんと摂ってるようだな。では少し何か買って来よう。何か欲しいものはあるか?」
「いや、別に……と、じゃあついでにコルク抜き……は今度でいいか」
「……コルク抜き? ワインのか?」
意外そうに問い返され、僕は苦笑する。
「うん、そうなんだけど……やっぱりいいや。今度買うよ。適当でいいから、何か軽くつまめるものでも買って来て」
こういう風に言っておかないと、この恋人は差し入れと称して色々買ってきちゃうからな……それこそ大量に……
「わかった。ではまた後で」
ほんの少し苦笑を含んだ声でそう言うと、あいつは電話を切った。
「さて……と」
僕は既に冷めかけたカレーをもう一度温め直し、それで遅い夕食を済ませると後片付けを済ませる。
仕事で疲れていたはずなのに、あいつが逢いに来てくれるって言うだけで疲れが吹き飛んでしまったんだから、我ながら現金なものだ。
テーブルを拭き、同じように疲れてくるだろう恋人の為にコップとビールの在庫を調べる。
ピンポーン……
オーソドックスな呼び鈴が鳴り、あいつの来訪を告げる。
ドアを開けると大きなスーパーの袋を提げた恋人が立っていた。
「いらっしゃい、入って……片付いてないけど」
やっぱり買い込んできちゃったんだな……
僕は苦笑しながら恋人を奥へ通した。
「うム、失礼する」
そう言って上り込んだ恋人は、テーブルに荷物を置くとすぐに中をガサガサとやりだした。
何をしているのかと覗き込めば、その手に握られたのは……
「コルク抜き……買って来てくれたの……?」
「必要だったのだろう? ワインでも開けるつもりだったのか?」
「うん、実はね……でもわざわざ買って来てくれなくても良かったのに」
「いや、この部屋にも一つ有っても良いだろう。それと……」
そして次に取り出したのは、一組のワイングラス……
「御相伴にあずかろうかと思ってな……」
そう言って悪戯っぽく笑って見せる……なんて反則だ!!
いつも滅多に笑う事の無い瞳が少年のようにきらめくなんて!
「う……でも、お前の舌に合うかなんて判んないよ……ワンコインの安物だし……」
上着を脱ぎながらくすくす笑う恋人を正視することができず、僕はちょっとだけぶっきらぼうに言いながらキッチンからワインを持ってきた。
「こんな事ならもうちょっと高いの買えばよかったな……」
「安い物なら君も気軽に飲めるだろう。それに何より、君が初めて自分から買ったものだ。私もぜひ味わいたいのだよ」
良い笑顔でさらっと殺し文句を言わないでくれ……
こっちの顔が熱くなる……
同時に再び思い出すあの時のワインの味……それは別の記憶を伴って……
「も、文句言いこなしだからな!!」
慣れた手つきでワインを開ける恋人に背を向けて、僕はグラスを洗いにキッチンへと駆け込んだ。
まあ、今夜は僕の家だし、そんな高級ワインでもないんだから、あの時みたいにはきっとならないだろうけど…………
「かんぱ~い」
「お疲れ様」
フルーティーな白ワインの香りと、
何よりお前と一緒に呑めるんなら、それだけでいいか……
……………………そう思っていた僕の認識が極めて甘かったことは、言うまでもない……かな