♪New11/3♪ 
第二話〜たくさんの人に支えられて


高校時代の経験は宝物
1999年4月、最初の師である和久井先生、そしてソルフェージュで大変にお世話になった茂木先生のおかげで、念願の東京藝術大学器楽科オーボエ専攻に入学することが出来ました。もちろ発表があった時は信じられないほど興奮したのをよく覚えています。とはいえそこまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。田舎・長野では特にライバルがいて、というような環境ではなかったですから常に「日本のどこかで今頃同じように頑張っている人がいる!」なんて嘘か本当かイメージを膨らませながら頑張っていました。環境としては決してベストではない中で「少しでも周りを知りたい」と思って、思いきってオーディションテープを出してみたのが当時高校3年生の時から5年続いた講習会「ロームミュージックファンデーション」でした。オーボエは現在日本ではトップオーボエ奏者の一人、新日本フィルハーモニー交響楽団の古部賢一さん。他、フルートの工藤重典さん、クラリネットの山本正治さん、ホルンの松崎さん、そしてファゴットの小山昭雄さんという超豪華メンバー!運よくテープ審査が通りいざ京都へ。すると周りはみなお姉さん、お兄さんばかり。そう大学生や院生、留学生など、みんなとても上手な人ばかりだったのです。それはそれは刺激的で毎日発見だらけ。もちろんレッスンは素晴らしくとても有意義で楽しく、少し視野が広くなった瞬間でもありました。そんな中自分と同じ高校生が2人、ホルンとクラリネットにいたのです。ホルンは現在ドイツで活躍している泉君、そしてクラリネットは当時東京藝術大学付属高校の素晴らしい奏者蒲めぐみちゃん。この2人から受けた刺激もはかりしれず。関東に住んでいた2人からはいろいろなことを教えてもらいました。そんな話の中で「アンサンブルしてみよう」と後日、東京某所に集まり東京藝大付属高校の仲間達や泉君という、自分にとってはとても嬉しい仲間でアンサンブルをしました。そんな素敵な先生や仲間達がいたからこそ、田舎でも腐らずにやってこれたのだな、と皆に感謝をせずにはいられません!地元長野でもアマチュアのオーケストラに呼んでいただいた中で、ウィーンフィルや交響楽団の奏者たちと一緒に演奏させてもらったり、協奏曲を演奏させてもらったりと当時の何も知らない若者の為に皆さんがチャンスをくださいました。なんて恵まれていたのでしょうか。。そのほかにも、自分と同い年や先輩にあたるような人たちから「うちの高校教えてよ」と当時上手な吹奏楽の学校をほとんどというくらいオーボエのレッスンからセクション、合奏に至るまで指導をさせてもらいました。これは今に生きている部分が多大にあります。皆さんの暖かさ、素直さに感謝。そういう意味では田舎の長野にいたからこそ、今こうしていられるのかもしれません。ありがたいなぁ。

受験を前に
高校三年生の11月、突然スランプがやってきます。とにかくオーボエを吹くのが怖くなってしまって練習できないのです。はっきりした理由は今でも分からないのですがどうにもこうにもならず、和久井先生のレッスンも1度「すみません、吹けないんです」と先生のお宅まで言って話をしました。その時「受験前そういうふうに一度くらいならないと!また吹きたくなったらでいいから」と優しくフォローしてくださった時は涙がこぼれんばかりにありがたく、なんだかほっとしたのを思い出します。が、家に戻ってもやはりなかなかやる気にならずオーボエにも触れない。受験はもう間近。そんな私を見兼ねて父が「ちょっとでかけよう」といって家から連れ出したのです。大きなゲームセンターで遊びまくり、おいしいものを食べ。。。とにかく楽しいことを学校を休んでもさせてくれたのです。オーボエとは全く関係のないこと。すると数日経ち「少し吹こうかな」という気持ちが芽生えたのです!これには自分でも驚きました。和久井先生と父の支え、これがなくしては受験をのりきれなかったのは間違いありません。
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しかし悪夢のような・・・
しかし、受験を控えた高校3年生の夏ころから体に異変が生じます。もともと持っていたアトピー性皮膚炎。これがすさまじく悪化したのです。とにかく痒い。集中できない、寝れない等ストレスが重なりさらに悪影響。我慢が限界に達し医者へ行きます。すると「この薬を飲んでごらん。これでかゆみがおさまるようならずっと飲めば大丈夫!」と医者に言われ、藁にもすがる思いで薬を飲み始めます。すると確かにかゆみや掻くことが減りかなり改善したのです。芸大に入ってもそれを飲み続けます。しかし、同時に体に別の変調が出始めます。常にだるく、眠気が取れない。疲れやすく、若いのに徹夜も出来ない。気分が下がり鬱っぽくなることが多くなり人を非難して自分を守るようになる。だから友達になりにくいし、人のいいところを見つけるのが上手だったはずなのに人の悪いところばかりみてしまう。だから引きこもりがちに・・・。そんな自分にイライラ。そして顔がまん丸になり微熱が2年にわたって下がらない。。。さすがに心配になりいくつもの病院を受診し精密検査をしますが全く原因がわからず。終いには検査で胆のうのポリープがみつかるなんてハプニングまで!(特に問題はなかったのですが)とにかく「どうして?どうして?」と疑問に思うばかり。それはオーボエを吹くことにも無論影響を及ぼします。続けて吹くのが困難、すぐに眠くなる、そして集中力がなく暗譜も全く出来い。芸大ではもちろん、素晴らしい体験をたくさんしましたが、それよりもこれらの「どうして?自分の体がいうこときかないの?」ということの方が頭に残ったまま卒業をしたのです。
それから数週間後、東京で仕事をしていこうと決めていたので、長野でもらっていた薬を東京でもらおうと再び病院を訪ねます。「このお薬と同じものを」と見せると「なんだこれ、みたことないぞ??」と医者があわて始めたのです。数人の先生が集まり何やら話したり本を調べたり電話をしたり・・・。びくびくしながら待っていると数十分後「君、これを何錠、どのくらいの期間飲んでたの」と真剣な顔で質問するのです。「ええっと、一日2錠を3回ずつ、あっでも薬好きじゃないのでこのごろは4錠にしています。4年くらいになりますか」すると医者は「なんだって?あり得ない!!!この薬はどんなに長く飲んでも1週間しか飲んではいけないんだよ!しかも一日2錠まで。とても強い薬で副作用がたくさんあるんだ。何か変わったことはあったかい?」といわれるものだからあわてて大学時代に疑問に思っていた変調を言い並べたのです。すると「全部そうだ、ステロイドの副作用だね。君、音楽大学卒業したって言ったっけ?よく卒業したね。鬱になったりやめたくなったりしなかったかい?卒業して今こうして仕事をしていること自体が奇跡的だし驚きだよ。よく頑張ったね」と言うのです。思わず「そうだったのか!」という今までの疑問と悩みが一気に思い出され年甲斐もなくその場で大泣きしたのです。悔しさと後悔と悲しさ、とにかく悲痛な、という言葉が当てはまるその時の思い。今でも悲しくなります・・・。先生が「だれか一緒に住んでいるのかい?」というので「母方のおばあちゃんにお世話になって妹も一緒に住んでいました、今は妹と2人暮らしです」と答えると「それがあったから今君はこうしていられるんだよ!おばあちゃん、そして妹さんにうんと感謝しなさい。その2人が気持ちを紛らわせたり支えてくれたりしたから今生きていられるんだよ。大げさに聞こえるかもしれないけれど実際、耐えられずに自殺してしまう人もいるんだからね」と。それを聞きまた号泣。「この副作用が抜けるのに数年は覚悟しておきなさい」と言われかれこれ2時間程の診察になったでしょうか・・・ようやく終了(待っていた人ごめんなさい)。帰りはただただ茫然。「これからどうしよう、取り戻せるのか?」と。そしてここから復活への戦いが始まりました・・・。
芸大での素晴らしい経験はもちろんたくさんありました!それについては次回以降に!
何かと大変だった受験から芸大時代。思うところはたくさんあります。でも本当にたくさんの人たちに助けてもらい支えてもらったからこそ、今こうして元気にドイツにいられるわけです。自分と関わった全ての人に感謝の言葉を言いたいと今でも思います、「ありがとうございます!」と。

第一話〜なぜ「オーボエ」そして「音楽家」なのか?

♪幼少の頃は何でも大好き、その中で。。。
良くも悪くも小さい頃から遊ぶことが大好き。砂遊びから始まって、鬼ごっこ、〜ごっこ、ブロック遊びにパズル、野球、バドミントン、合唱、ピアノ、釣り、テレビゲーム、何にも興味があって、また両親もできる範囲でやりたいと思うことは何でもやらせてくれました。特に6歳から始めた「合唱」はとても毎回楽しみにしていました。地元の大作曲家「中山晋平」を記念して当時創設された「晋平少年少女合唱団」。その指導者として「山本昇先生」がいらっしゃいました。歌うことの楽しさ、聞いている人へ楽しさを伝えるために、という氏の音楽的指導が子供ながらにとても楽しかったのです。その一方、毎日暗くなるまでバドミントンをし、夜遅くまで親に内緒でテレビゲームをし・・・ごくごく普通の生活を送っていました。
そんな沢山の経験をし、中学生で選ぼうとした部活は「バレーボール部」。母が学生時代にやっていたというのも少々関係あるかもしれませんが、入学前から部活の見学に行くなど、とにかく入部する気満々でいました。同時に当時持ち合わせていた夢は「外科医」。弱っている人を「治したい」という漠然とした気持ちを小学校から持ち続けていたのをよく覚えています。基本的に自分より他の人に「何かしてあげたい」というのがあったのも影響していた気がします。そんな私が小学校の頃大好きだったのが「お医者さんごっこ」でした(笑)。しかしその夢はあっけなく崩れ去ります。中学校に入学するや否や、担任は吹奏楽部の顧問をしていて、私が合唱を一生懸命やっていたのを知っていたのです。吹奏楽部は当時学校の中で一番時間を割いて一生懸命やっている部活だったので「とんでもない、絶対に入らない」と決めていたのですが、逃げ切れず担任に連れて行かれ見学・・・そこで3年生の先輩の「オーボエ」の生の音を初めて聞いたのです。「素敵な音」だったのをよく覚えています。家に帰ってからもその感動は尾を引きづり、内心「この部活に入ったら医者の勉強どころじゃないよなぁ・・・でも素敵だったな」と揺れ動き、それからはピアノの先生に相談したりして迷い考え、結論「やってみよう」ということに決めたのです。意志が弱いのでお医者様の夢はここで終わり、「オーボエを吹く」ということに今度は執着し始めたのです。が、当時新一年生30人近くが入部希望を出し、そのうちなんと約10人が「オーボエ」という希望をだしてきたのです(ちょっと異例でした、この状況。それだけ先輩の音が魅力的だったのだと思います)。それでも「他の人に譲るわけにはいかない」と、他の希望者に「どうしてもやりたいからほかに移ってもらえないかなぁ?」とお願いして回り、最終的に私一人が、晴れてオーボエ担当となったわけです。

♪没頭、そして転機の連続
とはいえ正直、入部したての頃はそこまでの熱の入れようではなかったのです。学校の楽器が音が鳴ったり鳴らなかったり、少し「?」を感じながらの日々、そこまで本気ではなく充実もせずという感じ。そんな折、私を見兼ねて、ある日両親が「楽器を買ってあげるよ」と言うのです。40万円位したでしょうか、当時の私にとっては嬉しいというより「ショック」に近いもので「これは大変なことになった、どうしよう」と思いました。ここでまた漠然と「オーボエで一番にならなきゃ、県で一番、いや日本で一番」なんてとんでもないことを思いました。楽器を手にした時の「緊張感」はすさまじいものでした。それくらい「ショック」だったのです。それ以降朝、毎日部活が始まる1時間前に登校し一人で外でロングトーンの練習。そして休日も部活がないというのにこれまた一人でいそいそとでかけ朝7時から夕方暗くなるまで、長野の寒い冬、雪が降る中ロングトーン。帰りは雪まみれで自転車をこいで帰っていました。でも本当に「好き」で「上手になりたくて」していただけのこと、全く苦ではなかったのです。
決して上手とはいえない部活でしたが、一生懸命な素晴らしい仲間たちがいたから頑張っていた。これも事実でした。一緒に練習し、語り、笑い、楽しい日々でした。そして転機が続きます、2年生からは私の「オーボエ人生」を決定づけたといってもいい恩師「山浦幸治先生」に出会います。氏は常に「音楽は人に何かを伝える手段、何かを伝えられなければ、喜ばせてあげられなければそれは音楽でない」と言い放ち、子供たちに向い、常に「考え」させ「気を遣う」ということを本気で毎日教えてくださったのです。吹奏楽コンクールの為に、とかではなく、「今自分で吹いた音はどうだった?そのヴィブラート本当に素敵だと思う?」等、一番大事な「自分で自分の音を聞きそして作る」ということを求めてきたのです。毎日が素晴らしい「戦い」の連続でした。仲間たちと毎日話し合い、聞きあい、考えあい、そして氏と毎日喧嘩し、ある意味無駄な時間もあったかもしれないけれど全てに「没頭」していました。そして氏の影響で自分のオーボエ熱も過熱。それを象徴するような、今では考えられないようなエピソード・・・・・
ある日、リード(オーボエの先に付ける振動体。これがないと音が出ません。一つ一つ良い、悪いがあって、一本2500〜3000円位します)を買ってもらうお金とそれを買いに行く「交通費」をもらった日のこと、「その交通費を節約したらもう一本買える」と考え、当時住んでいた自宅から30km離れた長野市内の楽器屋さんまで自転車で買いに行くことがありました。真夏炎天下の中、今思い出しても「すごい」と思ってしまいます。でも本当にオーボエが「好き」だからこそだったのでしょう。

♪転機と理由探し
そんな日々を過ごして中学3年生の夏、最後のコンクールを前にして初めて不安を感じたのです。自由曲はイタリアの作曲家ロッシーニの「オペラ・アルジェの女序曲」。オーボエソロの嵐、それはそれはすごい数で、さすがに練習だけでは・・・と思ったのです。それまでは全くの独学。学校にあった古い本を引っ張り出して見よう見真似でリードを巻いて削ってみたり、自分でできることはなんでもしてみたのですが、さすがにこの時だけはお手上げ。その時に手を尽くしてくださったのがもう一人の恩人、「浅井管楽器工房・浅井保氏」。山浦氏からの紹介で楽器の修理他いろいろな面で支えてくださった、今でもお世話になっている氏に相談したところ「東京の楽器屋さんで無料の講習会があるから申し込んでみたら?」と紹介してもらい早速学校の公衆電話から電話をしました。その頃の母校は建て替えの時期でまだ木造校舎、その職員室前の公衆電話から暑い晴れた7月の授業の間の休み時間、緊張して話したのを今でもよくよく覚えています。そして当日、期待と不安を持ちながら当時まだ新幹線ではなかった「特急あさま」で3時間、長野から上野まで旅をして渋谷へ行ったのです。オーボエが沢山並ぶ圧巻の店内の光景、興奮。そしていよいよレッスン。講師は私の進路を決定づけてくださった恩師、現在NHK交響楽団オーボエ奏者の和久井仁先生。初めて氏が吹いてくださった時、その美しい音色、滑らかな心地よい音楽、言葉ではとても表せない初めての衝撃が体中に走りました。レッスンの間はもう夢のよう。しかも関東近郊から参加するようなイベントだったため私のように僻地からは他にはいなく、特にたくさんみてもらいました。幸せでした。レッスン終了後、「なんだかもっと習ってみたいな」と突然思ったのです。そのまま足は氏の方へ向かい「あの・・・先生、もう少し教えていただけませんか?」と発言したのです、すると「音大に行きたいの?」との返事、すかさず「はい」と答え「じゃあ芸大ね」って。。。何も音大に行きたいだなんて全く思っていなかったのに「はい」と返事をしてしまい、しかも「音大??」とんでもないことをいってしまった気がしてあわあわしながら長野へ帰りました。そしてどきどきしながらそのことを両親に言うと「うちはできるだけのことしかしてあげられないけどできる範囲でやってみたら?」とこれまた予想外の返事にさらに動揺。でも今考えたら氏の言葉と、両親の了解があったからこその今、この時のことは今でも3人に感謝しています。
しかしその夜からは必死に考えました、「いいの?その道で?」と。一方その頃もうひとつ、大事ないつも考えていたトピックがありました、それは「死ぬのが怖い」ということ。「死んでしまうのなら今こうして考えていること、食べていること、していること、意味ないよ。どうしよう」と。「宇宙ってどこまであるのかしら?」と同じくらい考えていました(笑)。ところがある日の夜、音楽と死、両者がなぜかリンクしたのです。それは和久井先生のレッスンを受けたあの「感動」でした。「あの音を聞いただけで、今自分がこんなにも前向きになっている。ということは音楽を聴くということで何かを感じてもらうことが出来れば、その人の「明日」が変わるわけで、音楽を聴くか聴かないか、その瞬間を通るか通らないかでその人の人生が変わるかもしれない。つまり自分が影響を与えることが出来ればその影響でその人が変わり、またその人が他の人との関わりで何かを与えるかもしれない。そうすれば音楽自体は一瞬だけれど、自分が与えた影響というのが0.000001パーセント、限りなく0パーセントに近くても何年、何十、何百年、自分の存在していた意義が残るじゃないか。これだ、これしかない、やってみよう」 そう、これが私がいまオーボエを吹いている、音楽を仕事にしている理由なのです。

それをしたくてオーボエを吹き演奏会をしています。