沿革(1977年発刊「かめおか」より)

中魚沼郡誌その他によれば
鎌倉時代 中魚沼郡誌その他によれば鎌倉時代に至って、魚沼郡内は三荘(上田:南魚沼、藪神:北魚沼、津張:後に妻有に転化した中魚沼)に定められた。 鎌倉幕府は当時越後の豪族、城資長と言う武将を越後の守に任命された。 荘園は皇族その他の遺領、賜田、功田、開墾田、勅言田、社寺田等からの私田で、治外法権下にあったらしい。 その歴史は相当古く種々の弊害が出て来たので、豊臣秀吉が天下統一することになって検地を行え荘園を廃し村里を都に直結した。
建武元年 新田義貞が越後の守護となって領有したことがある。
貞治5年 足利氏が政権を執る事になって上杉憲顕入国以来守護し、235年間上杉領地に属した。
慶長3年 上杉景勝が会津に転封された後、堀左衛門賢秀治の領地となった。
慶長19年 徳川家康の六子、上総介忠輝が六十万石の領主となった。
元和2年 国政不正で没収された後、酒井左衛門家次宿将が納める。
元和5年 松平伊予守忠昌(二十四万石)が六年間にして福井に転封、参議 福島正則安芸から川中島に移された七万石を領有した。この中に中魚沼二万石が 含まれていたと云われる。
寛永元年 3月松平光長が管轄なる。
天和元年 6月徳川幕府の直属となる。
明治元年 5月越後府管轄となり、小千谷民政局の支配下となる。
11月に柏崎県に属す。
明治6年 6月柏崎が廃県となり新潟県に編入され第十二大区第五小区に編入される。
明治22年 町村合併実施により以下の三ヶ村に称した。
 *寺田村:寺石、上田
 *上郷村:大井平(大井平、亀岡、今井、灰雨)/子種新田(子種新田、亀岡新田、中子新田)
 *宮野原村:大字宮野原、烏帽子、出浦、前子
明治34年 上記、三村を合併して上郷村となった。
昭和30年 上郷村、下船渡村、外丸村、芦ヶ崎村、秋成村、中深見村の六ヶ村が合併して町制を布き津南町となり現在に至る。

亀岡集落は、大字大井平地籍に属する亀岡本田と、大字子種新田に属する亀岡新田とに分かれていた。
亀岡本田は元禄5年には八戸60人との記録があり、古くから水に恵まれた山裾の現位置に居住していたものと思われる。
古くは大井平と一つの集落であったものが戸数増加に伴い大井平の枝村として独立し、亀岡と呼ぶようになった様だ。
亀岡新田は、子種新田に属し戸数増加によって子種新田の枝郷として存在していた様だ。
明治22年の町村制実施後も別個の集落として自治、共有資産の維持管理を続けていたが、昭和11年に合併して行政上、亀岡部落として統一された。

「かめおか」の名称の由来

その昔、大井平の善福寺付近から亀岡の"なかじま"(屋号)の辺りまでは大井平神社境内が浮島に見える程の沼地だったらしい。 これを水田化するために大井平側から信濃川に数年掛りで排水を実施したと言う。
この時、ここに古くから棲みついていた大亀(甲羅が三尺にも及ぶと言う)が、観音堂(現、亀岡公民館前)に這い上がり、 数日間、沼の水が減って行く様を見下ろし、やがて向きを変えて静かに坂を下り子種神社付近を通って信濃川に入ったと言う。 この間、三日間を要したと言う。現在の子種-亀岡間の道はこの時の亀の通り道だったとか?
このことから、亀が上がった岡に因んで、「亀の岡」「亀ヶ岡」等と呼ばれ、現在の「亀岡」になったらしい。