佐渡島 先祖探訪顛末記 Rev.1 2007_12_18

   文      本間  彰  
   イラスト      本間 正克


目次

はじめに
1.ことのおこり
2.先祖探訪  一喜一憂の旅
3.先祖の軌跡−佐渡から江差へ
4.先祖探しと佐渡の戸籍
  @戸籍の歴史概略
  A佐渡における戸籍
  B先祖の戸籍
おわりに

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  佐渡おけさ
はじめに
佐渡に行けば先祖のことが解るであろうし、またそれが知りたいという漠然とした気持ちで私たちは北海道を後にしたのであった。具体的に先祖のなにをどのようにして知りたかったのか。旅行の目的が不明瞭だったことは実際に現地に出かけ、いろいろと尋ね歩いてはじめて認識させられたのであった。

 以下に私と父が佐渡に渡り、見聞したことをその時々の感情をも交えて述べてみたいと思う。母が他界した直後のことでもあり、私にとっても感慨の深い旅行でもあった。 その時々の記録を取っていなかったので記憶をたどっての記述となった。従って話の前後や内容に正確さを欠いていると思われるが容赦願いたい。 縁あってこれを読んで頂いた方の中で自分のルーツに興味がある方の参考になればと思う。「先祖探し」について知見をおもちの方にはあまりにも拙い内容で恥ずかしいかぎりですがごらん頂ければ幸いです。
1.ことのおこり
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 父の祖父(私の曽祖父)が佐渡の出身であることは以前から折に触れて聞かされてはいた。名前は本間 寅吉と言う(以下先祖に敬意を表し寅吉翁と記述)。般に佐渡と聞けば時代劇で有名な島流しと金山、そして罪人の金鉱堀の強制労働。これらがまぜこぜになり佐渡→流人(罪人の島流し)→金山の強制労働といった短絡的なイメージが強いのではなかろうか。一方、日蓮上人や順徳天皇の流刑の話なども有名で特に後者は百人首の最後を飾る歌人として知られていることなどから、文化と歴史の島というイメージも強い。

  あるとき先祖の出生の地が佐渡であることを家族に話したところ、映画の「寅さん」の印象からか寅吉などという名前にやくざな感じを受けたものらしく、先祖はひょっとしたら島流しの一員ではなかろうかなどと冗談を言い合ったものである。これなども時代考証からまったくあり得ない話であることは容易に解るのであるが、食事時の愉快な話題となった。

  聞くところによると父は、父の父(本間 初太郎)すなわち私の祖父から先祖の出身が佐渡の相川であると聞かされていたらしい。そして、一度は自分の父(寅吉翁)の生まれ故郷、佐渡を訪ねてみたいと幾度となく父に話していたそうである。   定年後父は、家に残る寅吉翁の戸籍を頼りに佐渡の羽茂町役場宛手紙を出し、寅吉翁やその父、七郎右衛門翁の戸籍を調査しようと試みたことがある。そのとき豊田村は現在の真野町役場の管轄であるから真野長の役場宛に紹介するよう知らされた。しかし、再度問い合わせた真野町の役場からは古い戸籍で記録にないとの返答であった。

  母の49日も終わり、帰札して数週間経た頃父から電話があった。10月に佐渡に旅行したいという話である。旅程を組み、宿や旅券の手配を済ませた。とりあえず私の家にきて旅支度を整えることとした。

  ところが、出発間際に再度父から電話があり、戸籍は本人没後80年で「廃棄」扱いとなることを知らされた。従って多分佐渡に行っても何ら有力な手がかりを得ることはできないであろうから観光をして来ようなどと話し合った。と言ってはみたものの、人口数千人程度の町であるから行けば何らかの手がかりを得ることができるのではないか、などと安易な期待もあったのは事実である。

  先に触れたように旅の目的意識が曖昧であったためか、旅支度といっても単に身支度を整えるに終わった。父の古くて窮屈そうな背広を軽快なブレザーに買い変えたり、ショルダーバックを用意したりした程度で肝心の「先祖探し」のための知的準備は何つなく、佐渡の旅館に到着するまで父の準備した資料に目を止めることもなかった。今にして思うとまったくいい加減な旅行であったといえる。 ともかく、平凡な旅支度をして佐渡へと出発したのが平成7年の10月12日であった。幸いなことにこの日を始め、旅行中は連日快晴に恵まれ快適な旅であった。 

2.先祖探訪  一喜一憂の旅
page top 1日目
  札幌から佐渡までの旅程は新潟まで飛行機を利用し、そこからは高速船に乗る。新千歳空港から新潟まで約1時間、新潟から佐渡までは1時間の旅程である。初めて乗った水中翼船−ジェットフォイルは快適で、時速80キロのスピードで佐渡両津港へと向かう。 両津港からバスで40分程度行くと目的地の真野新町に着く。 行く町並みには「本間」の看板が目立つ。ここはやはり先祖の街だったのだ。父も私と同じ思いであったにちがいない。旅館に着くと女性の従業員が出迎えてくれた。旅館は古くそれなりの趣がある。季節はずれのせいか客らしい客も見えない。閑散とした雰囲気を和らげているのは館内を流れるBGMのせいであろうか。先に送った宅急便を受け取り、荷物を解きながら案内してくれた女性の従業員に来島の目的を告げ、父が転記してきた寅吉翁の戸籍を見せた。

   羽茂郡豊田村 本間 七郎右衛門

より分家とある(羽茂は「はもち」と読む)分家したのは慶応の年代である。私も詳しく見たのはこれが始めてであった。彼女は首を傾け不審そうである。佐渡は佐渡郡であり、その中に羽茂郡が存在するのはおかしい。羽茂郡は新潟県のどこかに存在する郡でなかろうかと言い、父の示した記載内容に納得が行かないようである。更に、これは当地(佐渡)ではなくむしろ新潟県庁にでも出向いた方が筋ではないかなどと話す。ともかく帳場に戻り新潟の電話帳で確認してみるとのことである。古い戸籍は父が所収するもので今回の旅行に当たって転記してきたものである。転記にミスがあったかもしれない、あるいは本当に羽茂郡は佐渡にはないのかもしれない。私たちの心は乱れた。

  父はすっかり気落ちしてあきらめの様子である。だめなら観光をして早めに帰ろうと言う話まで出る始末。2人とも肩を落としてしまった。程なく帳場から電話があり新潟にも羽茂郡はないとのことである。もうどうしようもない。夕食までには少し時間がある。せめて町を歩いてみることにし、外に出る。

 佐渡は古い町で、今日に至るまで歴史の重みを支えながらきたことはこの旅館の佇まいや、町並みから十分伺え知ることができる。海岸沿いに延びる町並みは家々がひしめき合い、どこの家も間口が狭く奥行きが長い。これはその昔、家を建てるときの規制として間口3軒、奥行き制限なしといったおふれが出たためだそうである。道路沿いに多くの人が居住できるようにするための知恵であったらしい。道は別として家と家の間は密着し、火災の場合はどうなるのかなどと余計な心配をさせられる。海岸は近いはずなのに潮のにおいも感じられない。

  そこかしこに明かりの灯りはじめた夕暮れの町並みは暖かみがあり、道の脇で遊ぶ子供やそろばん塾に通う子供は皆元気である。ここでは、都会にないゆったりとした空間と、それに見合う時間の流れがあるようだ。飲み屋に類する店はもちろんのこと、飲食店が全く目にはいらない。真野には昨年まで4軒の酒蔵(酒造店)があったが今年は3軒になってしまったそうだ。佐渡の酒蔵が真野町に集中しているとのことである。父とは違い酒には目のない私は大いに気になった。明日訪れるであろう役場の位置など確認し、宿の方向に足を向ける。5時をすぎるころには町は薄暗くなり、宿に戻った頃は5時半をまわっていた。

  食事までにはまだ少し時間がある。靴を揃えて玄関に上がると電話台の横に小さな本箱がありその中に厚みのある「真野町史」が並んでいる。気になったので父に声をかけ、2人でいすに腰を降ろし上下ある真野町史をひもといた。闇雲にページをめくるとやけに本間と言う名が目立つ。これは何かあるかもしれないと心密かに期待しページを進めるとなんと驚いたことに「佐渡の国羽茂郡豊田村」と言う記載が目に入ってきた。やはりここは寅吉翁の戸籍に記載された場所だったのだ。つまり、豊田村はその後の町村合併その他で現在の真野町豊田町となった可能性が高い。

  私は、興奮し父にそれを見せた。目的までの距離がぐっと縮まった。やはりここは先祖本間 七郎右衛門翁の本籍地であることは疑いの無いようである。私たちは心も軽くなり、先ほどの暗澹とした気分もどこへやらで帳場に告げ書棚の本を数冊借り部屋に戻った。

 夕食は母の話など交わしながらゆったりと過ごした。程なく食事を済ませ、土産に持ってきた羊羹を従業員に渡し部屋に戻った。さて少し興奮もおさまったところでこれから先のことを考えてみる。ともかく佐渡は10人いると1人は本間と言うくらい本間姓の多いところである。今にして思えばこの段階で私たちの目的は達成されたはずであったといえる。冷蔵庫から真野町で作られている日本酒を取り出し父と会話を交わす。ほろ酔い機嫌で明日の行動を話し合う。これ以上の手がかりは何であろうか?当然ではあるが来島する前から寺の過去帳を調べる話があった。真野町史を見て行くと「豊田村の大光寺」という記載が目に留まった。これはいけると思い父と話し合っていると、ちょうどタイミング良く電話が鳴った。受話器を取るとそれは旅館の帳場からのものであり、豊田から働きにきている従業員であるとのことであった。彼女の話によると自分は豊田からきているがそこには「古いお寺で大光寺というのがある。豊田はここから歩いて20分程度の所であるので明日電話でもして出向いてはどうか」と親切に勧めてくれるのである。また、屋号はわからないかとも訪ねられた。そのあたりが古くは羽茂郡の豊田村であることを彼女が知っていたかどうかは残念なことに失念してしまったが、我々が羽茂郡豊田村を訪ねてきたことを知って電話をくれたのであった。ともかく偶然とはいえ私たちの会話に符合する内容を伝えてくれたことにすっかり気をよくしたのはいうまでもない。酒の酔いも手伝ってこれで明日の午前中にはだいたい目鼻がつくだろうなどと話し合い「まずは安心」ということでまた飲み直した。父は無事佐渡に着いたことの報告や旅の様子など、あちらこちらに電話をする。 後にわかったことであるが、ちなみに「真町史 別巻 年表」(p284)によれば、

「明治29年(896)4月1日雑太・加茂・羽茂の3郡を廃止し、佐渡郡が設置される。(佐渡国誌)」
とあるので寅吉翁が分家した慶応2年のころは羽茂郡と呼ばれていたのであろう
page top 2日目
  今日も朝から快晴である。朝食後タクシーを利用し大光寺まで行く。門前の道路わきの支柱には町名を指示するプレートが車から見えるように取り付けられ、豊田の看板が下がっている。寺はかなり古い真言宗のお寺である。平日の朝、境内はしんとしていて人気もない。本堂脇の居住場所らしい玄関から声をかけたが誰も出ない。反対側の入り口から声をかけるとお婆さんが出てきたので来意を告げると取り次いでくれた。

  本堂に案内され暫く待つと住職らしい人がでてきて挨拶を交わす。話を聞くと過去帳は戒名で記載されているため本名ではわからない。また葬儀を行った家も屋号で記載されているという。ここでも屋号がでてきた。かの住職に屋号とはなにかと尋ねても明快な回答は得られず、屋号は屋号ですという。

  結局過去帳には本間姓がたくさんでてきたがなにが屋号でなにが姓名か判断がつかない。七郎右衛門は無かったが、にたような名前はたくさんあった。結局のところ訪ねた大光寺では探し当てることはできなかった。またよし本間 七郎右衛門の名前がでてきたとしよう。これでわかることは本人がそこで葬られたこと、運が良ければ墓の存在を確認できることだけである。たとえそうあっても結局本人の人物像はもちろんのこと、連なる末裔については手がかりを得ることは至難である。寺の過去帳とはそのようなものであることを認識させられた。

  これ以上の手がかりをここで得ることは困難である。我が家の宗派は門徒宗でり、一般によほどのことがない限り宗派を変えることはない。試みに佐渡の門徒寺を訪ねるが他の宗派についてはわかりかねると言う返事であった。ただし、相川の方には門徒寺はあるらしいと言う。祖父は「家の先祖は佐渡の相川であった」と生前父に話していたそうである。ひょっとしたら相川の門徒寺を探すのも手ではないかなどと考える。取りあえず、宿に引き返し休憩することにした。

  さてこのまま引き下がるのもしゃくである。宿の電話帳で200余りあるといわれる寺を見てみる。ともかく宗旨を変えるのはよほど理由がないとあり得ないだろうから佐渡の門徒寺を探すことを試みる。電話帳より適当に探し出し電話してみる。結果として門徒寺を探すことはできなかったが親切にいろいろ教えてくれるお寺があった。とりわけ「檀家と寺が同じ土地にあるとは限らない」と指摘されたことは気がつかなかったことである。

  これは当たり前のことといえばあたりまえである。従って、もし寅吉翁が国をでる前に相川に住んでいたとしても相川に本間 七郎右衛門翁の墓があるとは限らない。200余りある佐渡の寺から門徒寺を探すことは不可能なことではないだろう。しかし、更に年代を追って絞り込んだとしても、本人は俗名でなく戒名で記載され、葬儀を出した家が屋号で記載されているとなればかなり困難な作業である。

  しかもこの屋号の意味すら理解できないでいる。まして、本間姓の多いこの地では困難を加速するようにさえ思える。結局先の電話でのお寺さんによれば「もし先祖の墓がわかったら(今我々の手持ちの材料で)それは奇跡に近いでしょう」と言われたのも納得の行く話である。いずれにしても「寺を調べることで有力な手がかりを得ることはできない」という結論に達した。さて、これで万策は尽きたのであろうか。ともかくせっかく来たのであるから真野町役場に行くことにした。
 
    再び旅館を出て役場まで歩いて行く。あちこちで明日からの祭りの準備が見られる。戸籍係で訪ねるとやはり父が以前問い合わせた結果と同じものとなった。戸籍が本人没後80年で廃棄されることも告げられ、もはやこれまでというところまで来た。「矢は尽き、力果てる」の心境である。しかし、手ぶらで帰るのもすっきりしない。資料の収集だけでもしてみようと考え郷土史の編纂を行っている場所を聞いた。

 訪れた町の図書館には先の真野町史の他いろいろと佐渡の資料がある。宿で見た真野町史3冊をセットで購入した。受付の年輩の女性にここに来た目的を告げ、なにか手がかりになる資料はないか訪ねる。そのようなことに詳しいものがいるが今発掘の作業に出向いているので帰るのは昼近くであるとのことであった。しかし、まだ誰かいるから聞いてみようと言い奥の事務所に入る。

  5分ほどして出てきたが「残念だが役場でもわからないことはここでも解りかねる」と丁重に断られた。なるほど、尤もなことである。しかし、せっかく来たのであるから関連の資料を見させてもらおうと閲覧を申し込んだら親切に関連図書の所へ案内してくれた。

  本当に佐渡は歴史の古い町である。他の町の町史やら佐渡全体のもの、その他、目的別によるもの等も所収されている。とても短時間で見るわけには行かないのでそれらしいと思われる資料を取り出してみる。特に驚いたことに本間の由来について書いた書籍があった。これもかなり古い時代の話で現代につなげるには飛躍がある。予備知識なしには読み通すことは不可能であるし、いかんせん時間がない。

  それにしても開く本ごとに本間姓が出てくるのは驚く。このことは逆に考えるとこの地で本間の名前から何かを調べることが困難であることを物語っているといえる。本間は本間でもどこの本間か解らないということになる。

 見ると、旅の疲れからか父はいすにもたれて居眠りをしている。平日の午前の図書館は人気もなく静まり返っている。真野町史3冊を購入し宿に戻る。昼食の用意がないため食堂を探すが見あたらない。宿が経営しているレストランが裏手の海岸沿いにありここで昼食をとる。そこでウェートレスからおもしろい話を聞いた。

  やはり3年くらい前であるが年輩の夫婦が訪れ3日ほどかけて佐渡の寺々を全部まわったそうである。これなどもおそらくルーツ探しではなかろうかなどと2人で話し合った。再び旅館に戻り2時近くまで休息とする。着替えて横になり少し睡眠をとる。昼食時のビールのせいで眠い。

page top 2時過ぎに再び外出、タクシーを呼び今度は羽茂の役場に出向くことにした。真野の役場と同じように訪ねるがこれも以前の父の調査と同様の結果となる。これで万事が終わりである。せっかくここまで来たのであるからここでも慶応から明治にかけての資料を集めようと訪ねてみたら別棟にある郷土史の史料を編纂している場所に案内された。

  そこは事務室の内部である。対応に出た年輩の男性がイスを勧め、お茶まで出してくれたのには驚いた。さて目的は何でありまた当方が何者であるかを訪ねられ、名刺の提示を促された。いろいろ話をしているうちに戸籍の写しを見て「今までなんと言ってこれを見せたか」と訪ねられた。つまり、なにが目的で歩いているのかと言う問いと等価である。そう考えると確かに目的の明快でない行動であることに気がつく。

  ここで驚いたことにはその年代の戸籍資料は保管してあるといい、かなりのものは残っているとのことであった。結局の所、ここで解ったことは確かに羽茂郡豊田村は現在の真野町の管轄であることと、資料として明治前後の戸籍が保存されている可能性が濃厚なことである。

  外にまたしてあるタクシーも気になったので早々に辞退した。帰路は西3河の砂金堀のゴールドパークに寄り短い観光をした。それにしても先ほどの訪ねられた「なにが知りたいのか」という問いは引っかかるものがある。冒頭でも述べたように結局先祖のルーツを訪ねるということはどういうことなのであろうか。何代さかのぼればよいのか?先祖がどのような暮らしをしていたのかを知ることか。等々であろう。
 
 振り返ってみると先祖探しなるものはいわば遠い昔に遡って思いを馳せる浪漫のようなものではなかろうか。私は子供の頃4方を山に囲まれた田舎で育った。日の息吹をもたらす太陽は山から上がり、また山に沈む。あの山の向こうにはまだ山があってそのまた向こうには自分たちと同じ人々が住んでいるのだろうか?その人たちはどんな暮らしをしているのだろうか、などと考えた。だいたいに憧れや想像は幸せな状態を暗黙のうちにもベースとしているのではなかろうか。上田敏訳によるカールブッセの有名な詩、山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う・・ではないが先祖探しも時間を遥か越えたかなたに思いを馳せる点では時間・空間の違いはあれ、意識としては共通のものがあるのではなかろうか? 今にして思うとこのような期待の現れであったのであろう。事実私たちは旅行直前にひょっとしたら本間 七郎右衛門の末裔、つまり我々の親類筋に会える可能性があるのではなかろうかと話し合ったものである。

 さて、宿に戻ってみたものの釈然としない思いがこみ上げ、いたたまれない。何かもっと他にすべき事はないのか。先の羽茂の資料はなにを物語っているのか等思いはめまぐるしく行き交う。真野町にも郷土の資料はあるはずだ。観光課に電話して郷土資料を編纂している教育委員会の電話番号を聞いた。時間はすでに4時20分を過ぎている。取り急ぎ電話をするが応答はない。5時まではもうすぐである。鞄を肩に、父に外出の旨を伝えて宿を飛び出す。急ぎ教育委員会に出向き窓口で来意を告げるとそのような資料関連は図書館の方で、そこに詳しい者がいるからといわれ、結局朝出向いたところにもう度逆戻りの格好となった。対応に出たのは年の頃30才過ぎくらいの日に焼けた痩せ形の男性であった。発掘の作業から帰ったところであるという。例の戸籍のメモを見せるとこの時代の記録はあると言い、机上の資料をパラパラとめくりはじめる。あまりにもあっさりと言い放ったので驚かされる。

  話をしていると戸籍の記録は保存されている可能性があると言う。それはあくまでも役場等の公的機関の記録ではなく、戸籍を作る段階で当時の名主や庄屋といった立場の人間がとりまとめ役として持っていたものが資料として保存されている可能性があるという。

  明治政府になって戸籍が作られたこと、一般の人々には苗字を持たない人が多かったこと、文字を読めない人が多かったことなどを考えあわせると「村のまとめ役」的な存在の人物が戸籍の作成に当たって一役買ったことは十分あり得ることである。

  資料を探しに奥に出向いて数分経ってから戻るが、資料がどこかに移動してすぐ見ることができないので明日もう一度来ることはできないかという。すでに明日の予定が組まれていたため、後日連絡してもらうことにして辞することにした。できるだけのことはしますからといって見送ってくれた。明日は土曜でしかも真野町は祭りが始まるという。予定を変更することも可能であるが焦っても仕方がないと考えた。

  ここでの30分ほどの会話からいろいろ参考になることを教えてもらうことができた。資料としての戸籍の記録はあっても(多分個人のプライバシーに関わることなので)法律上の問題が絡み、簡単に公開することはできないことなどは特に重要なことである。従って今回もし何らかの資料が発見されてもそれを開示してもらうことは困難であるといえよう。それはともかく、何か手がかりが得られることの期待に気分は最高である。結果の如何に関わらず、調査の糸口を見つけることのできた喜びは大きい。喜色満面で宿に帰り事の次第を父に話した。

  
3.先祖の軌跡−佐渡から江差へ

    我が本間家の先祖が佐渡から江差へと渡ってきたことは前出の寅吉翁の戸籍によるものであるが、これを取り巻く時代背景などについて考えてみたい。現在のところ手元の資料を頼りにする他はないので前出の真野町史下巻を開いてみる。 

     第5節に生活の補いという節がありその(3)として松前稼ぎのことが記載されている。(p181)江戸時代に入り江差を中心に鰊漁が隆盛を迎えたこと、またこの繁栄が関西方面にまでその経済面での影響を与えたこと等は今日良く知られているところである。
  先祖がどのような経緯をもって北海道に渡ったかは想像に頼るほかないが、このような時期に「松前稼ぎ」といって佐渡から当時の渡嶋国(北海道渡島半島)へ多くの人々が出稼ぎに来ていたことは確かなことのようである。これらの人々は「佐渡衆」といわれ親しまれ現地の人々の間にとけ込んで生活していた様子が記録に残っていており、実際父の若い頃にもこのような呼び方をしていたそうである。

 明治以降、鰊場の衰退が進み明治30年頃を境に大きく減少するがこれにつれて佐渡人の松前稼ぎも幕末のそれには及ばなくなる。寅吉翁は既に慶応2年に江差町に移籍していることから江差町の隆盛期にやってきたと思われる。このころは佐渡から江差に渡り財をなし名を上げる者があり、江戸時代から明治にかけて真野町から北海道に渡り成功して帰った人々の名が記録に残っている。当時佐渡荒物の主要産物であったワラジの他竹細工、石細工等が北海道への主な輸出物であり、こうした品々を扱う佐渡出身の商人がこのころ北海道に多く居住していたという。同書から引用しよう。 

  幕末、元治元年(1864年)のこと、吉岡村百姓伊兵衛は「倅の辰之助を数年来、松前稼ぎにやっている。ところが倅人では忙しくて手が回りかねるので、3男3蔵を連れて身上稼ぎに行きたい。行く先は山本屋林右衛門(四十物・荒物問屋)方である。出航証明(出帆)をいただきたい」と港役所へ願い出ている。佐渡ではこのころ松前稼ぎが恒例化されていたのである。云々 

 元治元年と言えば寅吉翁が江差町豊部内に移籍する慶応2年(866年)の2年前に当たるので、当時の出航許可書が資料として残っていることから当然寅吉翁の出航許可書も残っている可能性が高い。先の引用でみたように先祖来道の経緯を知る有力な手がかりとなるのではなかろうか。はじめから移住するつもりであったのか、それとも松前稼ぎの延長で住み着いたのかは知る由もないがいずれにせよ寅吉翁は日本海の荒波を越え、幕末の鰊漁隆盛期の渡島の国へと希望を燃やしやってきたのであろう。ちなみに先に引用した文中の「四十物」は「あいものと」と読み、間物と同じ意味であろうと推測される。江差には四十物屋なる苗字があったそうである。(現存するかは未確認)
4.先祖探しと佐渡の戸籍
page top     先祖のルーツを探す方法として戸籍を追跡するのはすぐに考えつくことである。戸籍そのものが現在のような形になって編纂されたのは明治政府になってからであるから始めにこの辺の事情、戸籍の歴史について調べてみたい。

@戸籍の歴史概略
    制度として確立した最初のものは大化2年(646年)、改新の詔によるものらしい。戸主の申告によるもので6年ごとに作成され、年齢、性別の他、戸主、戸口、官職 等社会的身分等が記載されたという。個人の財産などを間接的に管理する目的や盗賊、浮浪者の増加を防ぐ目的などもあったかもしれない。その後、時代を下り江戸時代になると人別帳が作られたが人民の移動を防止するための人口調査が目的であったともいわれている。寛永15年(1638年)島原の乱以降、キリシタンを弾圧する目的で宗門改帳がつくられた。これは人別帳と共に互いに代用されることもあったという(宗門人別帳とも言われた)。

  明治4年(1872年)になり戸籍法が公布され翌5年、(壬申、「じんしん」と読み干支にちなんだ)2月1日に施行された。これがいわゆる「壬申戸籍」であり佐渡の資料を眺めていてもよく出てくる。壬申戸籍は徴税、徴兵、警察、教育など行政、治安の目的のための戸口調査の色彩が強いものであったという。戸を単位とし、戸主を中心に家族、結婚、職業、宗旨、身分、犯罪歴等が記載された。その後、家制度を基礎とする戸籍法が公布され、出生、死亡、婚姻などの届け出を記載する身分登記簿と、家を単位とし戸主を中心に家族関係を記載するところの戸籍簿とが使用されていたが幾度かの見直し改訂が行われ、現在の戸籍になったのは昭和22年(1948年)である。

A佐渡における戸籍
    以上、戸籍の歴史のおおよそを眺めたがこれらの知識を頭に入れて先の真野町史を読んでみる。真野町史には戸籍についての記載がかなりあるが下巻(p33)に「壬申戸籍」の項があり、佐渡では明治政府が施行した壬申戸籍と形式的に同じものが明治2年にすでに作成されていたことが述べられている。また同書によると

相川県史には明治年に、「御維新の折柄戸籍明細がなくては相済まぬので、去冬各組合村々において雛形どうり取り調べ差し出すように触れてあるが未だ出していない村も少なからずある。お咎めを申しつけるところであるが、最初でもあるのでそれには及ばないが、毎年3月15日までには必ず差し出すように。」という布令が佐渡県から格村々の総代(名主)宛に出されている。この記述からみると、明治元年の終わりから同2年の始めにかけてすでに各村々では戸籍の取り調べを行っている。

と気にかかる記述があり。更に、「明治2年の佐渡の戸籍」の項をみると最初に作成された戸籍は、ほとんど宗門人別帳の形式を受け継ぎ、姓がない点、5人組ごとにまとめられている点など、前近代的な点が多かったこと、これが戸籍になってからは職業、屋敷、田畑、山林、牛馬、船などの財産が明確にされていることが述べられている。また嫁・養子の実家及び行き先、刑罰、奉公先などが詳しく記載されており人人の人間を掌握しようとしていたことなども述べられている
  更に「明治3・4年の佐渡の戸籍」の項には

明治4年になると、平民に苗字が許されたことから姓が記載されてくる。明治3年9月に苗字が許されて4年の3月には戸籍に載せたわけであるから、人々のあわてぶりがうかがえる。云々

とあり「戸長・副戸長」の項には戸籍事務遂行のため新しく行政区画の区を設置したこと、明治4年に佐渡県を相川県と改め、それに伴って全島350ヶ町村を25区に分け、戸籍戸長の任命し壬申戸籍の編成が進められたことが述べられている。

B先祖の戸籍
  以上のことより佐渡において戸籍編成の作業が行われたのが壬申戸籍の完成より早い、明治元年であることがわかった。従って、寅吉翁が江差町豊部内に分家したのは慶応2年であることから本人の戸籍が佐渡において作成されたものかどうかは疑わしい。

  天保11年(1840年)が寅吉翁の誕生した年であるから、仮にこれが七郎右衛門翁が20才のときとしても戸籍の編纂が行われたとされる明治元年(1868年)の七郎右衛門翁の年齢は48才である。仮に31才のときの子供としても明治元年では58才であるから佐渡で戸籍の編成が進められていた明治元年の頃は七郎右衛門翁は51から61才位の年齢であったと推測される。従って、七郎右衛門翁に関する戸籍の記録が現存する可能性も十分あるのではなかろうか。

  戸籍から先祖を捜すことは本人が死去してから80年が限界であることは先に触れた。また壬申戸籍の編纂が行われたのが明治4年であることなどから父の年代から2代遡ると天保にかかる可能性が強いので、役場などで探すことは不可能であると考えられる。佐渡の例にみるように幕末から明治元年にかけてはいろいろな面での動きが多く、行政面でも統一がとれていなかった面が多い。もし、80年の限界を克服してルーツを追跡するのであれば幕末から明治にかけてその土地の動きを研究し、未だ眠っている資料を探し出してみる必要があると考えられる。その意味では相川での調査も行うべきでなかったろうか。それは既に述べたように、祖父が「家の先祖は佐渡の相川であった」と生前父に話していたことによる。何らかの理由で戸籍と居住の場所が異なっていた可能性も考え得るからである。

  寅吉翁が江差町に移籍したのが慶応2年、その2年後に戊辰戦争が始まり開陽丸が江差沖で沈没している。座礁した開陽丸は空砲を撃ってこの難から逃れようとしたが、かなわず海底に横たわることになった。この様子を見守る群衆の中に我が先祖もいたのだろうか、などといろいろと調べているうちに佐渡−江差を中心に明治の動きが見え、なかなか興味深い作業となった。時間があればもっと進めてみたいとも思う。
 ともかく、今回の拙い考察から先祖の記録は佐渡の何処かに眠っている可能性の高いことがわかった。いつの日かまた彼の地を訪れたいと願っている。

  振り返って考えてみると、今回の佐渡旅行では行く先々でいろいろな方にお世話になった。見ず知らずの者が尋ねていったにもかかわらず大変親切にして頂いた。身構えること無く他人に接することができるということは素晴らしいことである。佐渡には都会で失われてしまった人間味や人情味といったものが未だ残っているのである。繰り返し述べることになるが、機会を作り是非また佐渡島を訪れたい。

おわりに
本稿は平成8年7月自費出版の拙著「佐渡島先祖探訪顛末記」から個人的な色彩の強い部分の削除と若干の加筆訂正を行い掲載したものです。 わずか3日ほどの滞在でしたが佐渡の印象は強く心に残りました。佐渡の人々をはじめ江戸末期から明治にかけ多くの人々が北海道に渡ってきました。
    こんな話を恩師であるS先生にお話ししたら、「私の先祖は石川県の能登半島から来た」と教えてくださいました。その昔は親しみを込めて能登衆と呼ばれていたそうです。
  北海道に長く住んでいる方には自分のルーツに興味を持っている方が多くいるようです。拙稿がこのような方の目にとまれば幸いです。最後になりましたが佐渡でお世話になった方々に心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。
資料など

《参考書》

真野町史(上・下)、真野町史・別巻

《その他の資料》

真野町図書館  0259(55)2223
真野町教育委員会  0259(55)2917
〒952-03 新潟県佐渡郡真野町大字吉岡







* 承久の乱と順徳天皇
建久8年(1197)に生まれ仁治3年(1242?)に佐渡で亡くなった。後鳥羽院の第3王子、鎌倉幕府との間に起きた承久の乱にやぶれ承久3年(1221)佐渡に流される。順徳天皇は和歌の世界では順徳院として知られ、百人一首の100番目にある

百敷や古き軒端のしのぶにも
            なほあまりある昔なりけり

と当時の朝廷の衰退を嘆いた歌はつとに有名。

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