中度難聴(感音性難聴)WebSite 【 静かの森 】

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中度難聴から見る手話

聴覚障害者を大きく2つに分けるものがあると思います。
それは手話です。

世間的には聴覚障害者と手話は切っても切れないもののようで、これを言うと意外に思われる健聴の方もいらっしゃると思うんですが、聴覚障害者の中には手話や読唇を全く知らない者がいます。

何で知らないのかというと、つまり「必要がないから」です。

補聴器をつけてなくても、言葉はそこそこ聞き取れるので、世間と同様に声での会話が当たり前なのです。補聴器は、それをつけるとよりクリアに、より大きく聞こえるので、聞き返しが大幅に減って会話における相手方に対する負担が減りますし、それだけ多くの言葉が聞き取れるので、日常生活がスムーズになるからつけるのです。同じくらいの聴力の方なら他の人も多分そうだと思います。
いずれにしても言葉を「聞く」世界であるので、是非はともかく、特に関心が無い限り言葉を「見る」手話には余り馴染みがありません。

口語が出来る者でも、こうして文を読むことがあります。しかし、音のない世界では「あ」という文字は例えば「§」のようなものなのではないでしょうか。
日本語、すなわち平仮名のどれか一字で「§」を読もうとすると、「音がない」ただの記号であることに気が付くことでしょう。(本当は何かの読み方があると思いますが)読んでいる分には音のない世界のように思えますが、実は無意識に頭の中で声を出しているのです。

手話に関する世間の思い違いとして、「手話とはジェスチャーみたいなもの」ということがあるんではないでしょうか。少なくとも恥ずかしながらボクは長年そう思ってきました。ま、ある意味ジェスチャーなんでしょうけど、ジェスチャーというとまず当然日本語の文体があってそれを動作に直したハズ、、と無意識に思ってしまうんです。

例えば「朝起きたら目の前にうさぎがいたので驚いた」という状況を説明するとします。口語の世界の発想ですと、「朝」という動作をして「起きたら」という動作をして「目」という動作をして「の」という動作をして「前」という動作をして「に」という動作を、、と考えます。しかしそれは聞こえる世界の文の構築であって、手話の世界はまた別の捉え方をしているようなのです。
どう違うのかは残念ながらボクには今のところ上手く説明できません。

こうして文字を介せば手話の方々とも言葉の遣り取りは可能ですが、しかし、「手話」を取り巻く状況や背景、環境の成り立ち、そういった見えない要因をして、口語の世界と手話の世界の間に、到達したくても到達出来ない何がしかの隔たりがあるような気がしています。

それは丁度、静かの森の外を眺めて、表に行きたいけど行けない状況と同じのように思います。