「県庁舎」ってことで、地方財政の無駄使いを斬る!話かと思ったら違うんですヨ。「健聴者」なんです。
健聴者、聴障者。
最初「ケンチョーシャ・チョーショーシャ」って言われた時、何のことか判りませんでしてねぇ。「チョー」とか「ショー」とかつくんで、てっきり行政関係のお話かと思っちゃいました。
まぁ下らない話はそれとしまして。。
最初「チョーショーシャ」って馴染めませんでした。
漢字で分類されるのって何ていうか世間から隔離されてる感じがネ、するんですよ。アイデンティティーの確立と表裏一体だと思うんですけど、「一般社会とは別物ヨ」というイメージがあります。
「耳の悪い人」っていうのがどっちかというとシックリきてましたよね。個人的に音読みってガチガチして強烈な感じがします。何もそこまで、、という感じでね。
しかしながら言いたいのは呼称をどうこうしようという話ではありません。
名称云々を語る前に、やっぱり事実としては難聴って障害だと思うという話です。
「障害」っていうととてつもなく大きな話で、人前でおいそれと話題に出してはいけないような、何か後ろめたい感じがするかもしれませんが、それって何か変だよなと思うんです。
まぁ、この辺世の中も含めて認識を変えて行けたら良いなって思うんですけどね。
考えてもみてくださいよ、難聴といっても程度が千差万別ですよ。
同じ事で、障害の程度だって千差万別ですよねぇ。障害という単語自体は大した話じゃないと思うんですね。中身の問題だと思うんです。
例えていうなら、「怪我をした人」は全員入院して即手術しなくちゃならないかというと、そんなことはないですよね。単に膝をチョコッと擦り剥いただけの人だって「怪我をした人」です。
障害にも程度があって、他人の介護を必要とするものから自分でフォロー出来るものまで千差万別で、中度の難聴ってまぁまぁ後者だと思うんです。自分でまぁまぁフォローは出来るけど、障害があるって認めた方が、後々上手く行くような気がするんですよね。出来ることと出来ないことをハッキリさせて、出来ないことをどうやって自分でフォローしていくか考えれば良いだけの話だと思うんです。
中度難聴の人って「自分だけ出来ない」「自分だけ判らない」って悩んだり焦ったりすることが多いように思うんですけど、それって障害だから出来ないということに気付いてないだけのような気がするんです。
深く考えることもないけど、まずは障害ってことに向き合うことが始まりだと思うんです。