ahoraさんとの日本と中国の近現代史をめぐる歴史対話

2014年7月21日 (月)

ahoraさんへ
お返事ありがとうございます。中国の若い人と、このような意見の交換ができることを大変うれしく思います。以下、私見を申し上げます。

ahora 1、当時の日本は、発展するため、外部の拡張の必要性がある。
そして、その力も手にいれた。


tikurin 植民地主義の時代、日本が植民地化されないためには、近代化を推し進めると同時に、自らの安全保障策を講じる必要がありました。それが大陸と日本との橋頭堡である朝鮮を日本の同盟国化することでした。しかし、当時、朝鮮は中国の朝貢国であり、中国も、そして朝鮮も儒教国であって近代化の必要を感じていませんでした。また、近代化を進める日本を軽蔑していました。ここに、日清戦争の勃発や、その後朝鮮が日本の保護国から併合へと向かうことになった原因があります。その後、日本はいち早く近代化に成功し、アジアにおける指導力を発揮することになりました。

ahora だから、交渉より、もっとらくな方法を選んだ、欧米みたいに、植民地を作ることです。当時、そのような残酷なことは、世界中、とこにもあることです。

tikurin 日本が近代化に乗り出したのは明治維新以降ですが、開国早々、欧米の先進国より非文明国として不平等条約(治外法権や関税自主権を認められない)を押しつけられました。従って、こうした不平等条約を撤廃するためには、文明国になったことを自ら証明する必要があり、そこで国際法を極力遵守しようとしました。従って、日露戦争までの日本は、占領地の略奪はしないし、捕虜の扱いにも気を遣いました。また、日本に植民地化されたとされる朝鮮についても、その過程における国際法上の手続きをしっかりとろうとしましたし、欧米各国の植民地政策とは違って、朝鮮の近代化にも尽力しました。こうした努力が実を結んで、日本が不平等条約撤廃に成功したのは、治外法権が1899年、関税自主権は1911年のこと。明治維新から約35年から45年という歳月を要したのです。

ahoraそして、当時の人々は、資源に苦しめ、社会も今みたいに開放ないから、極端に導きやすいと思います。

tikurin  こうして日本は近代化に成功し、第一世界大戦を経て世界の五大国に列せられるようになりました。しかし、1917年のロシア革命、第一次大戦の終戦処理を行ったベルサイユ条約、その後の国際秩序を決めたワシントン会議を経て、日本を取り巻く国際環境は次第に厳しくなってきました。まず、アメリカが中国への門戸開放(中国市場への進出)を求め、日本に圧力を加え始めました。まず日英同盟の破棄を日本に迫り、日本の中国における特殊権益を認めた「石井ランシング協定」を破棄させました。さらに、1924年には「排日移民法」を成立させ日本の移民を禁止しました。おっしゃるとおり、日本は近代国家になったとはいえ資源はなく、国土は狭小です。こんなことから次第にアメリカに対する反発が生まれるようになりました。これがワシントン会議における軍縮(海軍は主力艦の比率英米日5:5:3、陸軍は山梨軍縮、宇垣軍縮と二度にわたって行われた)に対する軍人の不満と結びついて、昭和の国家改造運動に発展して行ったのです。といっても、当時、陸海軍を主導していた明治期の軍人達は、日本の国力を考えて、こうした国際社会の軍縮傾向を受け入れました。しかし、こうした軍縮は必然的に軍人の首切りや処遇低下さらには社会的威信の低下を生みます。こうした国際政治や国内政治の流れに反発するようになったのが昭和のエリート軍人である青年将校たちでした。また、当時日本は関東大震災、第一次大戦後の不況、昭和に入ると、金融恐慌、東北地方の冷害などが重なり、国内経済は深刻の度を深めました。こうした状況の中で、英米に対する反発、軍人の処遇不満、それに経済不況が重なり、さらに、これと満州問題=排日運動の高まりへの危機感とが結びついて、軍人による武力を用いた満州問題の解決へと進んでいったのです。また、この頃は、世界恐慌の影響で世界市場がブロック経済化しようしていました。またソビエトのシベリアにおける軍事力強化に備える必要がありました。そこで、日本は日満経済ブロック、さらには日満支経済ブロックを作ることで経済軍事面の資源を確保し生き延びようとしたのです。ただし中国と戦争するつもりはなく、アジア主義的な考え方に基づいて経済提携共同防衛の道を模索していたのです。(これが満洲問題の謀略による武力解決や華北分離工作の侵略的行為によって、中国国民に戦争を決意させることになった)

ahora (一般の人々は、ただ自分の今の生活をよくしたいと、私は思います。)
(もし、同時の状況は真逆で、強い清朝があって、日本は弱い国だったら、状況はとうなると思う?)

tikurin 清朝が近代化政策をとっていたら、当然のことながら日本が日清戦争で勝利するようなこともなく、というより日清戦争は起こらなかったでしょうね。この場合、清朝は朝鮮にも近代化を勧めたでしょうし、日中は競合関係になったでしょう。たぶん日本は、中国や朝鮮との同盟関係を求めたでしょう。仮想敵国はロシアだったでしょうが。

ahora だから、私から見れば、お互いに強いて欲しい、
争うを避け、平等で交渉するため、それは一番効率です。
あるいは、まだ弱いものは、強いもの同士の中で斡旋して、自分の立場を保護するのも、一つの案と思です。
でも、それは、知恵が必要。今のリータは賢明しても、次のリータは賢く政策を取る保証はとこにもない。

tikurin 全くその通りですね。弱いものが強いものと同盟し仮想敵国と軍事的バランスをとろうとするのは当然です。その意味で、当時蒋介石がアメリカに戦争介入を求めたのも、今日の日本が日米同盟を堅持しようとするのも当然です。問題は、それをあくまで平和を維持するための抑止力として運用できるかどうかということで、そこにリーダーの見識と知恵が求められるわけですね。でもリーダーがいつも賢明であるとは限らない。ではその保証をどこに求めるか。日本はこれを民主政治に求めているわけですが、中国の場合は一党独裁ですから、その賢明をどう確保するかが、問題となりますね。

ahora2,今の日本になるのも、戦争で何もかも失って、白紙の上でつくる新社会こそ、皆の今になると思うから、戦争で亡くなった人々達への感謝の気持ちもあると思うのです。
ですが、亡き人への感情と戦争への気持ちは、混同すべきではない。
誰でも、自分の家族をおとむらいをする権利はあるが、それを利用され、戦争に意味付けのはいけないと思うです。
家族を無くすのは、誰でも悲しい、ですが、その原因は戦争にあると、忘れじゃいけないと思う。

tikurin 亡き人への感情と戦争への気持ちは混同すべきではない、というお考えに賛成です。この二つは範疇を異にするからです。だから、私は靖国神社の問題は歴史認識問題とは切り離して純粋に「慰霊の施設」とすべきだと主張しています。もともと日本の神社は、権力闘争に負けたものの「恨み」を慰めることを目的に建てられることが多かったのです。日本の武士の伝統の中にも、鎌倉時代の頃から、けんか両成敗の考え方があり、争うこと自体を悪としました(戦国時代は幕府の権威が弱まり一時むき出しの下克上的実力主義になりましたが)。だから、そうした伝統に沿って、明治以降の日本の独立戦争で犠牲になった人々に対する慰霊を行えばいいのです。日中韓の関係では、東京裁判のA級裁判刑死者を靖国神社にまつることが、日本の戦争責任を曖昧にするものだとして批判されるわけですが、「まつる」ことの意味が、純粋の慰霊であると了解されれば、問題は解決すると思います。(参考:「安倍首相の靖国神社参拝について」)

ahora3、汪と蒋の合流を希望する勢力もいるですが、日本みたいに複数の党派が存在し、在野党、执政党のみたいな政権形は、現在の中国には不適切だと思うのです。
中国の地域は、あまりにも広い、民族も多い、
ですから、力や資源を効率的に動かすのは、
ひとつの、主になる政権は必要と思う。
もし、反対意見があっても、内部て反論、派系を作ればいいと思う。
そして、他の党で観察し、新聞や、興論や、社会代表制度がちゃんと役にたてるなら、大丈夫だと思うのです。
いまは、その体制に少し疑問を持つですが、その必要性については、自分にはまだ否定できない。

tikurin 今の中国で「汪と蒋の合流を希望する勢力もいる」のですか?聞くところでは、汪兆銘の「漢奸」像が、最近撤去されたらしいということですが?

民主政治というのは、その運営を誤ると大変なことになるのですね。戦前の日本において民主政治の基本である複数政党政治が定着したのは1918年の原内閣からで、これは1932年に犬養毅が5.15事件で殺されるまで続きました。14年間の命でした。その後、軍が政治の主導権を握り日本外交を二重化し、特に、対支外交においては、出先軍が政府や軍中央の方針を無視して独断行動しました。その発端は満州事変にあり、これを結果オーライで認めたことが、華北分離工作につながりました。当時、軍が最も目の敵にしたのが政党政治で、実際、当時の政党は政策論争というより党利党略をこととし、金権腐敗していましたから、国民も政党政治に対する信頼を失っていました。折しも1928年には普通選挙法が成立しましたので、それ以降の政治は世論を無視できなくなりました。この世論対策を真っ先に始めたのが実は軍でした。結局は大政翼賛会という一党にしてしまいました。また、日本のマスコミが事実の報道より軍の宣撫班のような役割を果たすようになったのは、日本の国益追求に協力するためだったのですが、新聞は世論を反映するものであって、世論を無視した紙面作りをすれば、不買運動などで新聞が売れなくなる。そこで、必然的に新聞は世論に迎合するようになったという、当時のジャーナリズムのレベルの問題もあったのです。

複数政党制が今の中国に必要かどうかということですが、問題は思想信条の自由、言論の自由が保障されるかどうかという問題で、複数政党制は、それを政治制度上担保するものです。従って、率直に言って、一党独裁下では、思想信条の自由や言論の自由が保障されることはないでしょう。といっても、これは思想信条の自由や言論の自由が保障されれば自動的に理想的な民主政治が行われるということではなく、見方によっては、戦前の日本の失敗は、政治が世論を無視できなくなったこともその要因の一つなのです。。要するに、民主政治をうまく機能させるためには条件があって、民が主(君)ですから、そうした自覚と責任を持って政治に参加する必要があるのです。もし、民が、権力やマスコミによって扇動されるだけのものだったら、ヒトラーのような政治リーダーが生まれることになります。要は、リーダーを選ぶ国民の政治的成熟度の問題だと思います。この点、日本が戦前の失敗を踏まえて、どれだけ成長できたかといえば、まあ、負けたことによって半世紀以上反省してきましたが、その成熟度という点ではまだまだだと思います。こればかりは嘘やごまかしではできなくて、私自身、事実に基づいた歴史解釈によって日本の民主主義の発展に寄与したいと考えています。そうした一人一人の努力の上にその国の未来は開かれると思っています。


ahoraそして、中国は昔から、家長制度がある。
皆の習慣では、家族長みたいな役が必要とする。
それは、日本と欧米との、文化的違いと、私は思うのです。

tikurin 日本は中国の儒教文化圏の中にあり、かつ、大陸から適当に離れた島国としての地理的条件もあって、独自の文化を形成してきました。その特徴を一言で言えば、儒教的価値観は家族倫理として残り、政治倫理は武士に由来する「器量絶対」の実力主義が定着したということです。ただ、江戸時代は朱子学の強い影響を受け、「治教一致」政治道徳観念を持つようになりました。これが家族主義国家観となり、昭和期にはそれがさらに肥大して「八紘一宇」の世界観になりました。実は、日本の明治期の啓蒙思想家である福沢諭吉が最も強調したことは、家族倫理としての儒教と、政治における法治主義(契約思想)を峻別することでした。福沢自身は家族倫理としては儒教倫理を大切にしましたが、政治思想としては能力主義、契約的法治主義であって、彼自身は一度も官につかず民間の言論人教育者として一生を送りました。「立国は私なり。公に非ざるなり」とは福沢の言葉ですが、私は、これが日本における民主主義を支える基本的な考え方ではないかと思っています。

ahora以上には、私の個人の意見です、私はまだ分からないことが多いし、視野も浅いですから、皆の思考をもっと知りたいです。
ありがとう御座います。

tikurin 以上、私の個人的意見です。日本人は敗戦のショックで日本史をまともに学んでいません。歴史から学ぶことをしなければ民族の将来はありません。そう考えて、地元で「昭和史」講座を開いています。元気が続く限り、事実に基づく昭和史及び日本の歴史を語り続けていきたいと思っています。最近、ようやく昭和史の謎が解けるようになりました。戦前昭和の人間(私たちの親たち)といえども、気が狂っていたわけではなく、その行動にはそれなりの理由があったのです。それを解明しない限り、そこから将来を生き抜く教訓を導き出すことはできません。この昭和史の事実関係の解明において、ahora さんのように公平かつ客観的に歴史を見ようとする中国の方と意見交換できるのは、大変幸運であり、ありがたいことだと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
最終校正7/21 12:40