[書評]日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ(阿羅健一)

「極東ブログ」コメント / 2010.2.11

enneagramさんへ
 第一次大戦後ドイツが日本に敵対的であったのは当然ですね。またドイツはヴェルサイユ条約で軍事援助を禁止されたために、その秘密の貿易相手国として中国を選びました。そこでドイツの軍事顧問団は蒋介石に対日強硬策を勧めたのです。

 一方、ヒトラーは反共産主義で、ソ連が宿敵フランスと相互条約を結んだのを機に、日本に接近し日独防共協定を結びました。日中戦争が始まると、ドイツのこうした矛盾を調停する必要が生まれ、その結果トラウトマン和平工作が取り組まれたのです。

 結局、この工作は失敗しましたが、その原因についてベンダサンは、日本が自ら示した和平条件を、蒋介石が無条件降伏に等しい形で受諾した(満州国の実質的承認という意味)のに、戦況の変化を理由に日本がこの条件を加重したためだ、といっています。

 おそらく、これは欧米人にはそのように見えた、ということだと思いますが、実際は、蒋介石は交渉相手としての日本を全く信用しておらず、周到に善後策を講じていました。また寛大と言われる参謀本部案に対しても同様で、蒋介石がこれを受け入れる余地は全くなかったと思います。

 このことについて、あたかも政府文官が参謀本部の和平意志を妨害したかのような議論がなされていますが、参謀本部の案は、対ソ戦に備えると共に、究極的には対米戦をも想定し、そのために日満支一体経営の必要を唱えていたわけで、それは、中国にとってははた迷惑以外の何者でもなかったと思います。

 こうした善意の思い込み(そのため上海周辺の要塞化にも気づかなかった)による「日満支一体化」が、結局、相手国の存在を無視することにつながっていたわけで、確かに日本から見れば善意だが、中国から見れば侵略であるという食い違いは、実は、ここから生じているのかもしれません。

そもそも日中戦争を本格化させた第二次上海事件は、蒋介石のイニシアティブにより始められたものでした。そのための準備を支援したのはもちろんドイツで、蒋介石としてはもう少し準備に時間が欲しかったようですが、そうした情況を読めなかった日本軍は上海の戦闘で想定外の大損害を強いられました。

 そこで戦闘が終われば良かったのですが、軍の統制が効かず停戦して和平交渉を進めることができないまま南京を占領してしまいました。こうなれば、国民の側に支那の降伏を求める声が高まるのは必然であり、一方蒋介石は持久戦を覚悟していたのですから、参謀本部案での和平交渉もほとんど絶望的だったと思います。

 参謀本部はこの時、昭和天皇に交渉継続を求めて上奏していますが、天皇はこれに対して”それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければ良かったぢやないか”といっています。華北分離工作など政府の方針を無視しやりたい放題やってきて、今さら「寛大」を粧っても手遅れだ、という意味だと思います。

 では、満州事変以降、日中和平が最も現実的となったのはどの時点でしょうか。私は、昭和10年に、蒋介石が駐日支那公使の蔣作賓を通して、満州問題は当分の間不問に付する、を中心とする四項目の和平提案を日本側に示した時だったと思います。この時陸軍はこれを「承認に改めよ」と主張し譲りませんでした。

 それどころか、冀東政府を樹立するなど華北五省の分離工作を押し進め、政府の日中和平交渉を妨害しました。この間日中間の感情的対立は爆発寸前となり、ついに廬溝橋事件の勃発となったのです。この時近衛は蔣作賓との連絡を求めて宮崎竜介と秋山定輔を送りましたが、両名ともスパイ容疑で憲兵に捕らえられました。

 政府はさらに石射猪太郎の努力で、後のトラウトマン和平工作の元になった船津案をまとめますが、これも先に述べたような事情で実を結ぶことはありませんでした。これら度重なる日本外交の躓きの原因は、陸軍が政府の外交権を無視して、独りよがりのアジア主義思想に基づき勝手に中国政策を押し進めたことにあります。

 この思想から脱却できなかったことが、対中戦争のみならず、ついに対米英、対ソ戦争を余儀なくさせたのですから、こうした安易なアジア主義思想からいかに脱却するこということが、日中戦争を考える上での最重要ポイントになると思います。それにしても上海事変の膨大な犠牲がドイツによるものとはがっくりですね。