なにが人を聡明にするのか

ブログ「一知半解」 / 2009.10.5

 一風変わった標題ですが、
「極東ブログ」[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)の中で、finalventさんは次のような武田氏の言葉が紹介しています。

 「なにが人を、特に若い人を聡明にするのか。「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。・・・「形而上学の不可能性の原理」。これは理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。」

 この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」ということになる。「このふたつは、いわば「形而上学」とその反動形成で、表裏一体のものです」。

 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論をポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。

 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。

 また、社会のルールと、自分が独自に考えて決めた自己ルールを分け、「社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します」と竹田氏は語る。

 社会のルールといえば、「人を殺すな」「人の物を盗むな」といったものが想定されるし、本書でもそうした暗黙の了解は前提になっている。しかし、重要なのは、本書のキーワードである「一般欲望」との関係だ。

 竹田氏はこの難問に対して、欲望というものは自己ルールを介して成立するのだから、自己ルールを作り直すことで、それが克服できる可能性を示している。・・・特に、自己ルールを作り直す上で重要なのは、(1)自分の言葉をたくわえること、(2)フェアな友人関係を形成して批評し合うこと、としている。

 極東ブログのfinaventさんはもっと深く考えているようですが、武田青嗣氏の以上の言葉は自分なりに納得できました。
 一知半解さんのブログも、自分の言葉を蓄える上ですばらしい問題提起になっていると思います。できればフェアーな友人関係を形成し批評し合えるようになりたいものです。