話し合い絶対と思想信条の自由の関係

ブログ「一知半解」 / 2009.10.3

 一知半解さんしばらくです。
日本人の”話し合い絶対”の根底には、人間性信仰に基づく平等主義があります。(きっと8,000年に及ぶ縄文時代の平和がもたらしたものでしょう)しかし、その弱点は、個人倫理においては他者の「思想信条の自由」を認めない自己絶対化に、社会面においては個別利害に終始する派閥主義に陥りやすいことです。

 といっても、人間性信仰に基づく平等主義自体は貴重な伝統だと思いますので、その弱点をいかに克服するか、ということになりますが、問題は思想信条の異なる他者とどう付き合うかということで、当然はげしい議論になりますが、その場合のフェアネスをどう身につけるかと言うことでしょうね。

 それから、社会面においては、談合社会をいかに卒業するか、ということでしょうね。コンプライアンスということがいわれますが、個別利害を超えた全体のウェルフェアにつながる法規範を作るとともに、それを遵守する態度をどう育てていくか、ということだと思います。

 ところで、先のフェアネスですが、ネット上の議論には、その匿名性の故に、折角のコミュニケーションの場を、他者の思想信条を罵倒することで自己満足の場としようとする人がいますね。つまりはじめからコミュニケーションの可能性を放棄しているわけです。

 その思想は大抵、建前と本音のダブルスタンダードで、いわゆる「てんびんの論理」に支配されている場合が多い。つまり、自分の思想的基軸を明確に自覚しないまま議論に参加するために、自分の意見と異なる意見に遭遇すると、不安になり、そこで、建前と本音を巧妙に使い分けて相手を罵倒し、自己の不安を解消しようとする。

 自分の思想をしっかり把握していさえすれば、自分の考えの長所や欠点を自己把握することができ、コミュニケーションを通じて対手を説得することもできるし、自らの意見を補強したり修正したりすることもできる。その結果、そうした議論を楽しむことさえできるのです。

 それができない原因は、繰り返しになりますが、私たちが、自分の思想を言葉として明確に把握していないと言うこと。それを他者に判るように説明できないと言うこと。そして、思想信条を異にする者の間のコミュニケーション技術及びモラルに習熟していない、ということだと思います。

 従って、私たちにまず必要なことは、私たちを拘束しているこの強力な伝統的思想=”てんびんの論理”を対象化し、それを思想として客観的に把握することではないでしょうか。その上で、日本人のコミュニケーション技術とモラルを高めていく必要があります。お互い、辛抱強く問題提起していきましょう。