教科書問題について

ブログ「一知半解」コメント / 2009.7.23

一知半解さん、いつも解りやすい問題提起ありがとうございます。

「イエスは、ユダヤ教のせまい考え方を乗りこえ、身分や民族の差別なく、信じる者はだれでも救われるとする教えを説いた。これがキリスト教である」。

 山本七平がこの中学教科書のキリスト教の説明に「驚いて跳びあがりそうになった」というのは、こうした考え方の背後に、日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的」世界家族思想を見たからではないかと思います。「信じるものはだれでも救われる」という言葉も、「信心中心」の親鸞の思想に似ていますよね。

 つまり、山本は、そのような手っ取い理解の仕方で解ったつもりになるのでなくて、聖書(旧約・新約という分け方はキリスト教のもので、ユダヤ教は前者の部分を律法、預言・諸書に分け聖典としている)の本文を少しでも読んで欲しいといっているのです。(例えばサムエル記なら、そこにおけるサウル、ヨナタン、ダビデの物語が、どれだけ人間的なリアリズムと教訓に満ちたものであるか、これだけでも、とても「ユダヤ教のせまい考え方」とは言えなくなります)

要するに、早わかりするな、自分の無知を知る人間になれ、と言っているのです。

 それから、「教育無料化」についてですが、義務教育は授業料と教科書は無償になっていますが、私は教科書の無償は「教育の無料化」という観点より「教科書の内容統制」の面のほうが強いと思っています。というのも教科書の金額よりはるかに高い補助教材費を支払わされているのですから。だから私は、教科書(検定制度は必要)は有償にして、どんな教科書を採用するかは学校経営の責任とすべきであり、経済的に困っている家庭に対しては、就学援助制度で対応すべきだと思っています。もちろん、そのためには学校経営の責任主体を確立することが必要ですが、これに文科省は徹底して反対しているのです。これも政治の官僚統制の一端です。

 山本七平が教育制度の見直しについて言及しているのは、このことに関わっているのです。塾の勉強のほうが面白く為になった、という経験は多くの人がしていますが、要するあてがいぶちの教育サービスでなく、もっと学校設置基準を緩和して、多くの人が学校経営を競い合えるような教育システムにするべきだ、といっているのです。現在、教員免許は更新制になりましたが、これも効果の程は怪しく、私はそれより教員免許を国家試験とし、その資格基準を明確にすることのほうがはるかに効果的だと思っています。その後の教員管理は各学校の経営責任の問題です。