浅見氏の「にせユダヤ人論」について

ブログ「一知半解」コメント / H21.5.31

 サンヘドリンの「全員一致の議決は無効」云々についての議論がなされていますが、私見を申し述べさせていただきます。山本七平を批判される方の多くは、浅見定雄氏の『にせユダヤ人と日本人』のこの箇所を持ち出します。でも受け売りが多いようですね。大切なことは自分で調べて自分の頭で考えることです。そこで私見ですが、まず、浅見氏がこの本を書いた動機がよくないと思います。氏は山本七平を、ベンダサン=山本=右翼と決めつけていますが、まずこれが両方とも間違い。次に、山本の「日本人論」に直接挑戦せず、彼の「聖書学」がいかにインチキかを証明することでそれを抹殺しようとした。これは議論ではなく”インネン”です。また、議論の立て方自体もおかしいですね。「全員一致」に関する議論については次の通りです。
 浅見氏は、『日本人とユダヤ人』の「全員一致の審決は無効」の章の論旨の要約を次の二つにまとめています。(三つ目については後述)
(一)旧約聖書のミカという預言者は、神に絶対服従すること自体が罪であると言った。なぜならそれは無批判な態度であり、従って何事につけても「全員一致」を生み出す結果となるからである。
(二)従ってミカの末裔であるユダヤ人は、「全員一致」を認めない。その代わり決まったことは絶対守る。
 まず(一)ですが、これは要約として間違っていると思います。つまり、ベンダサンは「ミカは神に絶対服従する事自体が罪であるといった」などどとは言っておらず、「神殿(現体制を象徴するもの)を壮大にすることは、神を賛美し神に仕える行為」だが、それが貧者を搾取するものならば「神の意志に反する=罪」である、ということを言っているに過ぎません。そのためにわざわざ「ミカ書」二~五章の言葉を引用しているのです。そのまま読めば宜しいと思います。
 また、(二)については、ベンダサンが、「全員一致の議決は無効」の論を一般論化しているとの指摘で、そう理解される書き方をしているのは事実ですが、もともとこれは「イエスの死刑判決が全員一致でなされたとの記述が聖書(マルコ、マタイ福音書=筆者)にあるのは、聖書の著者達(ユダヤ人でありキリスト教徒であった)が、当時『全員一致』で処刑するのは違法だと言うことを知っていて、この判決は違法だと言いたかったのだろう」という記述のなかでなされているものなのです。従って、その本旨は「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方がユダヤ人の血や肉になっている、ということを言っているのであって、私はこれ自体は間違いではないと思います。また、こうした指摘は、「人間」教徒である日本人には大変有益だと思います。(だから売れたのです。)
 それから(三)「日本人は何事につけても「全員一致」が好きである。そのくせ決まったことにはあまり拘束されない、というのは、たとい「全員一致」でも、もし「人間性」に反してるならそれを無視しても世間が許すから」についてですが、これについては浅見氏は「ああそうですか」と二度”切り捨て”ているだけです。きっと氏は山本の「日本人論」には深入りしたくなかったのでしょう。もともと氏は山本の論を「右翼の論」と決めつけているのですから仕方ありませんが、山本七平(私はベンダサンとは一応区別しています)の「日本人論」は、到底”切り捨て”できるものではありません。私は、山本七平の言葉は「日本人に対する預言として今後も生き続ける」と思っています。
 一方、浅見氏の言葉ですが、残念ながら浅見氏自身の「人間」としての「品位」はこの本でかなり落ちましたね。「専門家の役割は専門外の人を貶めることではなくアシストし励ますこと、とは小室直樹氏の弁ですが、私はそれを聞いて安心しました。
 それにしても、タルムードを参照できる人はほとんどいないはずなのに、サンヘドリンの規定解釈に関する議論をよくやりますね。冒頭申し上げましたが、自分の意見は自分で調べられる範囲でなすべきだと思います。(浅見氏の議論は今後も私なりに点検していこうと思っています)。いずれにしても、お互いに「参考になれば」という謙虚な姿勢が大切ですね。