「天秤の論理」について

ブログ「一知半解」コメント / 2001.6.16

 Q ベンダサンの「天秤の論理」・・・どの本を読めばそのことが記載されているのでしょう?

tiku 『日本教について』が最初、それについての小室直樹氏との共同解説が『日本教の社会学』、日本教の世界を「平家物語」や「太平記」の世界に遡って説明したのが『日本教徒』です。

>「思想は思想自体として存在し・・・」というあなたの思想もまた思想なのだから、それも「大虚構」ではないか」と。
Q 司馬氏を批判したその理由というのは、そういう決め付けを行なうのではなく、なぜそのような考えが出てくるのか?について考察せよという解釈でよろしいでしょうか。

tiku そういうことだと思います。自分の思想を対象化すべきだ、ということですね。

>日本人の場合は、それを「論理=ロゴス=言葉」によって制御する事が「天秤の論理」ゆえにできない
Q 自らの行動規範が言語化されていないため、制御できない。ということでしょうか?確かにそうした指摘は山本七平の記述に出てきますね。

tiku 「天秤の論理」は、上記の本を読まれるとわかりますが、日本人は言葉を丸ごとその人の思想を表すもの、とは考えないで、それを「実体語」(現実を反映した内心の言葉)と「空体語」(空想的な建前→理想の言葉)に分けて天秤にかけ、後者を前者(=現実の重さ)とバランスさせるための分銅のように扱い、その支点に当たる部分に「人間」(=自分)を置いて左右に微妙に位置を変えながら、システム全体のバランスをとっている。
 つまり、自分自身を直接言葉で捉えようとはしないで、世間の空気を読みながら、自分の「実体(語)」とバランスするように「空体語」(日本人が「思想」と考えているもの)の量を加減しつつ、身を処している。この場合、そのどれが、その人の本当の思想かといえば、実はそうした生き方そのものがその人の思想ではないのか、ということを指摘しているのです。そういう生き方が”あたりまえ”として無意識の内に日本人に共有されているので、それを「日本教」といったのです。
 ただ、ベンダサンは、そうした生き方(=思想)を批判しているわけではなくて、それを対象化することで、初めて、そうした考え方を、現代社会で有効に機能するように修正できる、つまり、その問題点を是正し、その新しい活用法を発見することができるといっているのです。そうして初めて、無意識の思想による拘束を脱して、人間の「自由」を獲得できる。それが、より優れた自分の思想を生み出すことにもなる、といっているのです。
 ただ、この「天秤の論理」とは、本来、政治的(=人間関係調整)問題を処理するときに有効に機能するもので、従って、政治問題とならない限りは、通常の論理で処理されることになるのですが、ベンダサンが日本人は政治天才だといっているように、日本人は本来政治的問題でない問題まで政治問題にしてしまう。またそうしないと物事がうまく処理できない、そういう傾向がある。この問題点をしっかり把握し是正することが、日本人には必要である、そういっているのです。
 以上は、ベンダサンの指摘ですが、山本七平自身は『一下級将校の見た帝国陸軍』「言葉と秩序と暴力」において、「陸海を問わず前日本軍の最も大きな特徴、そして人があまり指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根源であったと私は思う」といっています。
 近代戦争を遂行する中で、この日本人の、物事を言葉で明確に規定しないという文化的特徴が何をもたらしたか、結局、その秩序維持の最終方法は暴力でしかなかったではないか・・・。この事実、この体験が山本七平にはよほど強烈な反省として捉えられたのでしょう。彼の「正義を口にすれば必ず汚れる」という思想との共鳴は、ここに端を発しているのです。しかし、一方で、彼は、そういう意味で日本人に近代戦を戦う能力がなかったということは、それは決して恥ではない、ともいっています。

Q それはさておき、三島由紀夫に関する山本七平の記述と言えば、私の中の日本軍(上)の中の記述を思い出しますね。
 三島由紀夫氏が切腹したとき、私は反射的に、氏はこの「フケメシ」という言葉を知らなかっただろうなと思った。フケメシとは読んで字の如く、メシの中にフケをまぜて食わせることである。
三島由紀夫は純粋だったから、軍隊の裏表を知らなかったということを指摘したかったのでしょうか。
それでも「純粋人」は純粋になってしまうものなんでしょうかね?

tiku 先の、「空体語」と一体化したような大言壮語を吐き、正義を振り回し、世間的に純粋を標榜する青年将校が、実際は現場の兵隊にどれほど嫌われたか、ということを指摘しているのですね。このあたりは、司馬遼太郎の感覚と似ています。要するに、言うこととすることが違うということなのです。青年将校に暗殺された犬養毅は「革新革新といいながら彼等は白足袋をはいて毎夜待合まいりをしているではないか」と批判していました。純粋であれば、何をしてもかまわない、鳩山前総務相に見られるような行為が今でも世論の支持を集める、そんな傾向が今でも残っている、ということですね。