我善坊さんとの対話――日本文化の個別性の自覚なしにそれを普遍化し他に押しつけようとしたことが昭和の悲劇を生んだ

2012年12月30日 (日)

日本の保守主義について論じていたところ、我善坊さんから個別主義に跼蹐するのでなく普遍主義を目標とする視点が大切だとの問題提起を受けました。日本人の普遍主義を考える上で大変重要な観点ではないかと思いましたので、以下、氏とのその後の対話を再掲させていただきます。戦前の日本思想の最大の誤り――日本文化の個別性の自覚なしにそれを普遍化し他に押しつけようとしたこと――に触れる問題と思いましたので、参考までに・・・。

投稿: 我善坊 | 2012年12月26日 (水) 09時40分
Edmund Burkeの保守主義の規定から、これに対立する自由主義の定義までの行論、および戦前戦後(1955年ころまで)の日本の政治思想の評価としては、バランスのとれた議論だと思います。しかし政治思想としての保守主義や自由主義を見て行く上ではもう一つ、普遍主義Univerasalismと個別主義Particularismという軸を設定しないと公平な評価は出来ないのではないか?
国家とは多かれ少なかれ個別主義に立つものであることは、以前福沢の「痩我慢の説」を引いて解説されていた通りですが、日本は政治家を見る限り普遍主義の要素がいかにも希薄で、僅かに大正期以降の一部に見られるだけです。(たとえば石橋湛山)
現在の日本の右傾化の最大の危険は、多くの政党に普遍主義への配慮がなく、日本の歴史や文化への盲目的信仰を煽るだけに終わっている点で、それを単純に「戦前回帰」と呼ぶのも、あながち不当なことではない。
教育基本法が廃された今、日本の政治システムの中で普遍主義を正当に評価しているのは憲法のみです。
もちろん固有の歴史や文化は大切ですが、それと同じ程度に、いやそれ以上に世界の歴史を通じて人類が築き上げて来た、相対的ながらも現時点で「普遍的」と認められている価値に対する敬意を失わぬこと、これこそが現在の日本に最も必要とされる要素でしょう。
世界が「日本の右傾化」として警告を発しているのは、まさにこの点です。

投稿: tikurin | 2012年12月27日 (木) 02時05分
我善坊 さんへ
重要な問題点を御指摘いただきありがとうございます。以下個別に私見を申し上げます。

>しかし政治思想としての保守主義や自由主義を見て行く上ではもう一つ、普遍主義Univerasalismと個別主義Particularismという軸を設定しないと公平な評価は出来ないのではないか?

tiku ユニバーサリズムといっても普遍的な一つの思想にはなかなかまとまらないのが現実なのではないでしょうか。ユニテリアン・ユニバーサリズムを標榜する団体もあるようですが、「メンバー(UU教徒)が自由に思想・信仰を決める事ができる。これにより宗教的多元性、多文化の伝統を尊重し同じ教会内でも複数の信仰や活動を認めている」「UUは個人が自己や社会、自然との繋がりの中で各自意味を追求することを重要視し決められたドグマを持たない」(wiki)とされます。

一方、パティキュラリズムという言葉を、「推論における道徳原理の役割に懐疑的で、我々は個別の道徳判断において一般規則に訴えることはできず、時にはそれが有害だとする。正しい行為を見つけるには、個々の事例において敏感にそして詳細に事例を検討し、その事例に含まれる特異な特性を把握する以外にない」http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~sasaki/study/McNaughton1988_ch13.html
というような考え方だとすれば、ユニバーサリズムの考え方とそれほど大きくかけ離れてはいない、ということになります。

いずれにしろ、ここにおける日本人の課題は、自らが無意識のうちに拠っている「ものの考え方」を他との比較の上で相対的に把握すると言うことで、それが出来て始めて、他の文化と比較して、自分たちの「ものの考え方」を修正したり発展させたりすることができるようになるのです。まあ、日本人にとって大思想=普遍思想はいつも外からやってきて、それ故に、それへの迎合と反発を繰り返しているわけですが、早くこうした状態から抜け出し、自らの伝統思想を把握しそれを更改することで未来に対処するという基本的態度(=保守の思想)を身につける必要がありますね。

>国家とは多かれ少なかれ個別主義に立つものであることは、以前福沢の「痩我慢の説」を引いて解説されていた通りですが、日本は政治家を見る限り普遍主義の要素がいかにも希薄で、僅かに大正期以降の一部に見られるだけです。(たとえば石橋湛山)

tiku政治における普遍主義ということになると道徳における普遍主義以上に個別主義的になることは、主権概念を一つを見ても明らかですね。といっても第一次大戦後の不戦条約に見るように国際紛争を武力によらず外交交渉で解決しようとする流れもあるわけで、そうした国際政治における「普遍化」への努力を怠ることなく、その上でしっかり個別文化を主張すること、この両者の整合性を図ることが大切だと思います。

>現在の日本の右傾化の最大の危険は、多くの政党に普遍主義への配慮がなく、日本の歴史や文化への盲目的信仰を煽るだけに終わっている点で、それを単純に「戦前回帰」と呼ぶのも、あながち不当なことではない。

tikuこの場合の普遍主義の内容は具体的にどういうことか、また「右傾化」あるいは「戦前回帰」と呼ぶべき日本の歴史や文化とは何であるか、もちろんその盲目的信仰ではなく対象化が必要な事は言うまでもありませんが・・・。この点については今後論じようと思っています。

>教育基本法が廃された今、日本の政治システムの中で普遍主義を正当に評価しているのは憲法のみです。

tiku旧教育基本法の普遍主義とは、また日本国憲法の普遍主義とはどのようなものだとお考えですか?戦力放棄による平和主義ということ?

>もちろん固有の歴史や文化は大切ですが、それと同じ程度に、いやそれ以上に世界の歴史を通じて人類が築き上げて来た、相対的ながらも現時点で「普遍的」と認められている価値に対する敬意を失わぬこと、これこそが現在の日本に最も必要とされる要素でしょう。

tiku異論はありませんが、現在の日本より中国により強くこれを求めたいですね。圧倒的な軍事力を持つと使いたくなるらしいですから。かっての日本軍と同じように。だから挑発に乗らないようにしないといけませんね。

>世界が「日本の右傾化」として警告を発しているのは、まさにこの点です。

tiku「日本の右傾化」批判が「日本の主権制限」を意味するのでなければよろしいですが。いずれにしても、その批判の具体的中身が分からないことには何とも・・・。

投稿:我善坊 | 2012年12月27日 (木) 17時39分
「tiku ユニバーサリズムといっても普遍的な一つの思想にはなかなかまとまらないのが現実なのではないでしょうか(以下略)」
お話は政治思想についてであると思いましたので、道徳や神学、スコラ哲学にわたる論争は予定していませんでした。その方面はWikipedia程度の知識もありませんのでー。
もう一つ加えれば、「現実政治」に限らず、「政治思想」についてのお話と理解しましたが、間違いでしたか?
政治思想における「普遍主義」からは、いろいろ紆余曲折はありながらも、国家の対外的暴力手段は封じ、国家の主権は制限しようという方向にあり、個人の信条(信仰)、言論、表現などの自由は極力擁護してゆこうという方向にあることは間違いない。
もちろんそこに直接、しかも5年や10年で行き着くとは、だれも思っていない。しかし、やむを得ず短期的にこれに逆行しなければならないなら、為政者たる者そのことを自覚し、本来の道への早期の復帰を模索しなければならない。
「tiku旧教育基本法の普遍主義とは、また日本国憲法の普遍主義とはどのようなものだとお考えですか?戦力放棄による平和主義ということ?」
(旧)教育基本法の真の眼目は、愛国心教育の有無などにはなく、第10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」で「教育行政は、この目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」というくだりにあると、考えてきました。つまり「教育行政は教育の中身に関してではなく、環境条件の整備に徹する」という点にあった。これは教育と国家(行政)との関係について、世界の大きな流れです。(ニュージーランドでは、教育行政はおろか教育委員会制度も廃し、学校ごとに校長を含む評議会を組織し、教育内容を決定するという方向に動き出しています)
日本国憲法で言えば、前文と第9条は国際紛争を解決する方法としてパリ不戦条約の延長にあるもので、これも普遍主義的な理念です。
この理念を隣国にも守らせたいというなら、自らがそれにふさわしい行動をとった上でなら堂々と、かつ実際的にも有効に説得できるでしょうが、「彼奴がやらないならオレもやらない!」という程度の批判なら、自らを貶める以外の何ものでもありません。
「tiku「日本の右傾化」批判が「日本の主権制限」を意味するのでなければよろしいですが。いずれにしても、その批判の具体的中身が分からない」
たとえばTIME誌(アジア版)12月17日号をご覧ください。この他の各誌・紙にも載っています。外国誌・紙でなくても毎日新聞の西川恵など外の動きを熟知している記者は、クレヂット付きで昨今の日本の異常さを指摘しています。
敗戦後の日本は、過剰な個別主義が日本のみならずアジアを惨禍に陥れたことの反省に立って、普遍主義と個別主義のバランスの上に立った国家を建設しようとした。(それは「(一方的な理想主義ではなく)、理想と現実のバランスの上に」と言い換えてもよい)
残念ながらそれも、その後の右派長期政権の中で形骸化して来ましたが、我々戦後を直接に知る世代は、憲法も(旧)教育基本法も国家や政府がこの理念から逸脱しないように、政治家に課した「枷」であると考えてきました。(右派政権の重要なメンバーでありながら、故・後藤田正晴氏は間違いなくそう考えていた一人でした)
その最後の枷を破壊しようとする政治家や、それを見て見ぬふりをするだけでなく、挙句は支持までする若い世代は、まったく理解できません。もはやネズミの大群となって、崖に向かってすさまじい勢いで走り出してしまったような、恐怖を感じます。

投稿: tikurin | 2012年12月28日 (金) 01時13分
我善坊さんへ

>お話は政治思想についてであると思いましたので、道徳や神学、スコラ哲学にわたる論争は予定していませんでした。その方面はWikipedia程度の知識もありませんのでー。
もう一つ加えれば、「現実政治」に限らず、「政治思想」についてのお話と理解しましたが、間違いでしたか?

tiku 「現実政治」の背後には「政治思想」があり、さらにその奥には「道徳観や神学=宗教観」があります。話を政治思想に限定すればユニバーサリズム云々の話は主権の範囲に止まりますから、あえて個別文化の価値観の違いを超えた普遍主義の追求がどのようなものかを見てみたのです。お解りでしたか?

> 政治思想における「普遍主義」からは、いろいろ紆余曲折はありながらも、国家の対外的暴力手段は封じ、国家の主権は制限しようという方向にあり、個人の信条(信仰)、言論、表現などの自由は極力擁護してゆこうという方向にあることは間違いない。

tiku 国家の自衛権に基づく武力行使は国際法で認められています。また、個人の思想・信条の自由、言論・表現の自由などの基本的人権は、主権概念の属性である統治権に含まれるもので、国によってその保障の具体的内容は異なります。国際法上の人権概念でもって国家の主権を制限すべきとの考えもあるようですが、今のところ実効性は余り期待できない。ともあれ、北朝鮮や中国などを説得することから始められたらいかがでしょうか。

>(旧)教育基本法の真の眼目は、愛国心教育の有無などにはなく、第10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」で「教育行政は、この目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」というくだりにあると、考えてきました。

tiku教育基本法は「理念法」であるべきか「施策法」であるべきか、私はその基本的性格は後者だと思っています。法律は基本的に外面的行為を律するもので精神に関する規範を規定するものではないと考えるからです。愛国心であろうとその他の普遍的?道徳規範であろうと同じです。

なお、「教育行政は教育の中身に関してではなく、環境条件の整備に徹する」というお考えについてですが、かって教育行政のインターナ・エクスターナ論がありました。教育行政は教育内容にアンタッチャブルで教師のみがそれを決定できるという主張で、指導要領の法的拘束力が争われましたが、これは最高裁判例「あり」で決着しています。日本近現代史などもっと時間を取って教えて欲しいですね。

 また、旧「教基法」十条の「不当な支配」と「国民全体に直接責任を負って行う」ですが、前者は「不当な支配」の判定は誰がするのか明確でなく、後者もその主体がはっきりしない。まあ欠陥法文ですね。

>ニュージーランドでは、教育行政はおろか教育委員会制度も廃し、学校ごとに校長を含む評議会を組織し、教育内容を決定するという方向に動き出しています。

tiku とのことですが、その評議会の構成は?教科書の選定権も教職員の人事権も持つというお考えですか。私は長年教育行政に関わり実態もよく知っていますが、この組織では到底「教育政治」を処理できないでしょう。

> 日本国憲法で言えば、前文と第9条は国際紛争を解決する方法としてパリ不戦条約の延長にあるもので、これも普遍主義的な理念です。この理念を隣国にも守らせたいというなら、自らがそれにふさわしい行動をとった上でなら堂々と、かつ実際的にも有効に説得できるでしょうが、「彼奴がやらないならオレもやらない!」という程度の批判なら、自らを貶める以外の何ものでもありません。

tiku 9条第一項は不戦条約の流れにありますが、第二項の「戦力放棄」はそうではありません。自衛権行使のための戦力の保持まで否定するものではありません。また、侵略の定義は国連安全保障理事会の判断に委ねられています。なお、日本はこの9条の規定にそって自衛権の行使についても極めて抑制的に解釈してきました。だから、「オレがやってる程度には中国も自衛権の行使を抑制したら」と言えるのでは?少なくとも言えたのでは?と言っているのです。あなたはそんな当たり前のことが言えない。その上、その自らの不作為の責任を他に転化しようとする・・・。

>(日本の「右傾化」批判について) たとえばTIME誌(アジア版)12月17日号をご覧ください。

tiku 原文を見ましたが、どの部分の批判ですか?
http://www.channelnewsasia.com/stories/afp_asiapacific/view/1243107/1/.html

>毎日新聞の西川恵など外の動きを熟知している記者は、クレヂット付きで昨今の日本の異常さを指摘しています。

tiku慰安婦問題については私は秦郁彦の『戦場の性と慰安婦』を参照していますが、西川氏の慰安婦論は、日本以外の国の戦場にも適用して公正に論じていただきたいですね。

>敗戦後の日本は、過剰な個別主義が日本のみならずアジアを惨禍に陥れたことの反省に立って、普遍主義と個別主義のバランスの上に立った国家を建設しようとした。・・・
残念ながらそれも、その後の右派長期政権の中で形骸化して来ましたが、我々戦後を直接に知る世代は、憲法も(旧)教育基本法も国家や政府がこの理念から逸脱しないように、政治家に課した「枷」であると考えてきました。

tiku 民主党の政治家に架したその「枷」はうまく機能したのですか?そこでは普遍主義と個別主義のバランスはどのようにとられたとお考えか?また、3年半で政権を失ったのはなぜ?なお、憲法制定あるいはその改正は主権行使の最たるものです。その主権を否定するおつもり?山本七平は「自分が作ったものは変えられるが、他が作ったものを権威として受け入れたものは変えられない」と言っています。憲法改正が必要な所以ですね。

>その最後の枷を破壊しようとする政治家や、それを見て見ぬふりをするだけでなく、挙句は支持までする若い世代は、まったく理解できません。もはやネズミの大群となって、崖に向かってすさまじい勢いで走り出してしまったような、恐怖を感じます。

tiku 枷は何度でもよりいいものに作り変えればよろしい。大切なことはその主体性を持つこと。自分は古い枷を守るだけ、それを作り変える人は悪い人、というあなたの論法は主権放棄と見られても仕方がない。もちろん認識不足の若者は大いに論破して、よりいいいものを作る、悪いものは作らない、これは必ずやらなければならない仕事だと私は思います。それに恐怖を感じるのは、貴方の「道徳感」あるいは「正義感」の然らしめるところで、私の関知するところではありません。

投稿: 我善坊 | 2012年12月28日 (金) 17時18分
tiku様、

たびたび長いレスポンスをありがとうございました。
「現実政治ー政治思想ー道徳、神学、哲学」を時に都合よく(自在に?)跳び越える技量には感心しましたが、私は現下の日本の政治情勢は「保守主義」「自由主義」ということ(だけ)では説明出来ず、「普遍主義」「個別主義」という軸を設けなければ、世界が警戒している「右傾化」についてさえ理解できないのではないかと考えて、そこに議論を絞っているつもりです。
これを超える話は、ブログの僅かなスペースへの書き込みでは難しいと思います。
また政治思想においては「(普遍主義的)価値」と言っても、かつて神学や観念論哲学が志向したような、唯一絶対な「価値」があるなどとは考えない。個人の自由と社会や国家との調和を模索し、国家による災禍を減らしてゆく為の漸進的な検討であって、時代によって少しづつ変わるものです。
現実政治を見る上での普遍主義、個別主義とは、以前このブログで採り上げておられた「痩我慢の説」を例にとれば、「公」は普遍主義、「私」は個別主義を代表していると言っても良いでしょう。もちろん現実は未だ国家間に境界を立て、区々たる争いに終始している状況にあり、福沢も小生もそこが総ての出発点であることは重々理解しています。
しかし「この状況は未来永劫に続く。従って偏頗心を有効に活用し、他国を凌駕すべき手段に育てることこそが課題の総てである」と考えるなら、それは悪しき現実主義、いや現実から何も学ばない「現実べったり主義」に過ぎません。それはまた、日本を世界の利害関係の客体とのみ考える三等国意識に過ぎない。我国もまた世界を構成する一員であり、世界のより良き秩序に向って貢献しなければならないはずです。それを謳い上げているのが憲法前文です。
tikuさんは永年教育行政に携わってこられたとのことですが、どういう立場だったかは存じませんが、凡そ教育においては先ず、人間としてのあるべき、普遍的な道徳(モラル)を教えることから始まり、文明への理解と敬意を深めたうえで、我国固有の文化やマナーを教えるのではないでしょうか?よもや、主権国家が現在許容されている限界を最大限に解釈し、その範囲で国威発揚に向けてあらゆる手段を行使せよということだけを教えるのではありますまい。もちろん政治や通商などに携わる実務家には後者は必須のことですが、日本人が総てそういう役割を担うわけではない。しかし一方で、総ての日本国市民は国家の行為を監視する義務があり、国家に対して責任を負っています。
福沢の時代からの一世紀余だけでも、世界は愚行を繰り返しつつもそこから学び、僅かながらも普遍的な価値を具体化してきました。その間の政治思想もまた、主権国家の存在を相対化させる方向に進んできました。
福沢を論じ、政治思想を論じられる以上、このブログもそうした当然の(まさに「普遍主義的な」)志向をもった方のものと思って書き込ませていただきましたが、「そんなのんびりした議論には関心がない。今や喫緊の課題は領土問題であり、国(家)益の死守こそ最優先すべきである」という昨今の一部の風潮を繰り返すだけでしたら、これ以上申し上げることは何もありません。

投稿: tikurin | 2012年12月28日 (金) 23時23分
我善坊 さんへ
> 「現実政治ー政治思想ー道徳、神学、哲学」を時に都合よく(自在に?)跳び越える技量には感心しました

tiku 技量のいる話ではありません。国際政治における「普遍主義」と「個別主義」を論ずるのであれば、当然そういう話になると言うことです。また、「右傾化」は必ずしも「個別主義」に結びつくわけでもなく、むしろ「普遍主義」と結びついた時の方が危険だと言えます。

>我国もまた世界を構成する一員であり、世界のより良き秩序に向って貢献しなければならないはずです。それを謳い上げているのが憲法前文です。

tiku 我が国だけでなく他国も「世界のより良き秩序に向かって貢献しなければならない」はずですね。憲法前文を中国や韓国にも採用するよう働きかけるべきでは。

>凡そ教育においては先ず、人間としてのあるべき、普遍的な道徳(モラル)を教えることから始まり、文明への理解と敬意を深めたうえで、我国固有の文化やマナーを教えるのではないでしょうか?

tiku 結局、普遍的な道徳(モラル)の話になっているじゃありませんか。

>よもや、主権国家が現在許容されている限界を最大限に解釈し、その範囲で国威発揚に向けてあらゆる手段を行使せよということだけを教えるのではありますまい。

tiku 誰がそんなことを主張しているのですか?一定のルールの下に国家間の競争が行われることは当然いろんな分野においてあることだと思いますが、それは「あらゆる手段を行使して」「国威発揚」することとは違うでしょう。

>総ての日本国市民は国家の行為を監視する義務があり、国家に対して責任を負っています。

tiku 公法が基本的に権力の足枷であることはその通りですが、それは権力の秩序形成力を認めた上のことで、国民はその秩序形成に参加すべき義務も負っています。その上で権力の暴走を防ぐため、法治主義、国民主権、権力分立・相互牽制、選挙による政権交代などの近代民主主義的な諸原理や諸制度が確立しているのです。このたびの政権交代もこうした制度的保障の下で起こったことです。

> 福沢を論じ、政治思想を論じられる以上、このブログもそうした当然の(まさに「普遍主義的な」)志向をもった方のものと思って書き込ませていただきましたが、「そんなのんびりした議論には関心がない。今や喫緊の課題は領土問題であり、国(家)益の死守こそ最優先すべきである」という昨今の一部の風潮を繰り返すだけでしたら、これ以上申し上げることは何もありません。

tiku おそらく、我善坊さんは将来、国際政府機関が出来るとしたら、各「個別文化」が完全に解け合って、まさに普遍主義的な「合金」道徳を共有する単一世界国家が出現すると思っておられるのでしょう。

「世界が単一市場化すると「地球人」とか「国際人」と言う生態不明のものを生み出すのではなく、各民族がそれぞれ文化的民族自治を要求するような状態を生み出すであろう。言葉を変えれば国家統制を離れた「民族」が出てくる・・・いわば世界の単一市場化は一面で民族の時代の到来だが、この言葉はすぐ日本では誤解される――というのは(日本では)民族と民族主義国家を区別しないからである(一つの国家の中に複数の民族が固有の文化を保持しつつ共存する状態を知らないということ=筆者)。遠い将来には、単一世界市場の中の文化的民族自治連合のような体制になるかも知れないが、これはあまりに遠すぎて予測がつかない。さしあたって予測できることは、普遍主義の中における文化的自治という状態であろうが、これも地球的規模にはなるまい。政治は経済ほど進行が早くない。イスラム教圏、中国圏、インド亜大陸圏等は、伝統的な普遍的宗教乃至普遍主義に基づいていて、先進国圏とは別の普遍性を持ち、それぞれの圏内において文化的民族自治へと向かうと想像して良いと思う。ただその自治の形態は決して同じではあるまい。」(『民族とは何か』山本七平P134)

つまり、国際政治における「普遍主義」と「個別主義」を論ずる場合に問題となるのは、文化圏によって「普遍主義」の内容が異なる、ということであって、これを強権的に「合金化」するようなことをしてはいけないと言うことなのです。また、同一文化圏例えば「先進国文化圏」においても「普遍的」と考える観念は民族によって異なります。それは日本の左翼の反米ナショナリズムを見ても明らかです。これに比べれば「領土問題」は一定の国際法上のルールも確立していますので、あからさまな侵略は困難で、日本は相手国の武力挑発に乗せられないよう、また、万一の場合の抑止力を用意しておけば良いのです。

といっても、韓国が竹島の武力的実効支配にこだわるのは、過去の朝鮮併合に対する民族のプライドをかけた抵抗の証だそうですし、中国が尖閣を領土問題化しようとするのは、資源の問題と言うより第一列島線内を領海化することだそうですから、領土問題はまさに両国にとって国威発揚の象徴なのですね。こうした行為に警告を発すべきことは当然で、もちろん日本の取るべき態度は上述の通りで、安倍政権もこの通りだろうと思いますので、ご心配には及ばないと思います。まあ、半年もすれば判ります。

といっても、私が本稿で「保守の思想」を論じているのは、安倍氏らの歴史認識が保守反動に陥ってはいけないと思うからで、これはこれで結構シビアーな議論になると思っています。我善坊さんの阿倍批判は、戦前の八紘一宇的な世界人類皆兄弟思想の模様替え普遍主義に依拠しているように思われますが、これこそ最も伝統的な無意識の普遍主義ではないでしょうか。この普遍主義を信じない人を「非国(際)民」と決めつけるあたりそっくりですね。

満州事変を起こした日本のある参謀将校に中国の高官が言った言葉、「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」つまり、日本人が勝手に思い込んだ「内なる中国」観を中国人に押しつけるのではなく、「中国は日本とは別の普遍主義思想をもつ国である」ことを知って欲しいといっているのです。このように、それぞれの民族の個別主義を尊重しつつ共存の道を探ることが、戦前の日本を反省する最も重要なポイントなのです。

そうした日本人の「内なる中国」観(=内なる普遍主義)を脱却すること。自らの文化の個別性を自覚すること。安易にそれを普遍化して他に押しつけたり、他に仮託したりしないこと。それが最も肝要なことではないかと思います。その「内なる中国」観の脱却どころか、逆にそれを日本人に押しつけ、それを受け入れない日本人を「崖に向かって走り出す鼠に大群」と規定するようでは、昭和の青年将校らの悲憤慷慨「めしいたる民、世に踊る」と変わりませんね。