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2010年4月16日

>>tikurinさん

 レスありがとうございました。
遅くなりましたが、私が答えられる範囲で、お答えさせて頂こうと思います。

>岡崎久彦氏は…(『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』)と言っています。

『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか ― 隣の国で考えたこと』は、岡崎氏の在韓国大使館での勤務後、1977年に出版された本だと思います。ということは、この当時の韓国は、朴正煕大統領の下、日本語世代が現役バリバリで活躍し、後に「漢江の奇跡」と言われるようになった時代ということになります。

 その当時、実際の韓国を見た岡崎氏が、引用された文章のような感想を持ったとしても、不思議ではありません。また、その文章自体を読めば分かるように、そこには、当時の日本人の側が持っていた、ある種のパターナリズムも見て取ることができます。
もっとも、そうした情緒的な面だけではなく、当時は冷戦の真っ只中ですから、日韓友好、ひいては日本の韓国に対する支援は、日本の共産圏に対する防波堤を強化するという意味で、日本の国益にも直結していました。

 問題は、こうした感覚を修正することもなく、冷戦終結によって東アジア情勢も大きく変化した90年代、さらに21世紀にまで持ち越してしまっている点です。

 ただ、岡崎氏自身は、後に「日韓関係は日米関係の従属変数」と言い切っています(要するに、日韓関係は日米関係次第。韓国をとくに問題にする必要はない、ということでしょう)。岡崎氏は、情勢判断の専門家ですから、国際情勢(韓国の国内事情も含む)が変われば、当然その結論も変わってくるということだと思います。

>近年の韓流ブームに見られるように、儒教的な倫理観を共有する部分も相当あるのではないですか。

 韓流ブームについては色々ありますが、一応ネットなどでお調べください。
また、一口に儒教的な倫理観と言っても、日韓のそれは全く違うということは、呉善花さんが頻繁に取り上げる主題的なテーマですから、そちらでご確認ください。

>お説のようなパターナリズムからの脱却が、おそらく双方に、求められているのではないかと思います。

※パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では「父権主義」「温情主義」などと訳される。

 上記の※を見て頂ければ分かるように、残念ながら、これでは意味が通じません。
また、私が「歪んだパターナリズム」と呼んだのは、これに屈折した贖罪意識が混じり込んだもののことをいい、状況が変わっても、いつまでも韓国を一つの外国=ある意味で対等な当事者(当然日本が国益を主張すべき相手)と見ることができない精神性を指しています。

>呉善花さん…は、韓国語に漢字の訓読みを導入することを提唱しておられるようで、がんばっていただきたいと思いました。

 呉善花さんは、日本での様々な出版や発言が原因で、事実上、韓国政府からの迫害を受け、すでに日本に帰化していますから、韓国でできることには限界があるかもしれません*。

 また、呉善花さんには、他にも『攘夷の韓国 開国の日本』(1996年 山本七平賞受賞)、『韓国併合への道』(文春新書 2000年)などの名著も少なくありません。近年では、呉善花さん(元韓国人)、石平氏(元中国人)、黄文雄氏(台湾人)は、日本における重要な保守系の論客と言ってよく、かなり国際的になってきました。

*呉善花さん 母の葬儀で“帰国”拒否される
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/071009/kor0710091654001-n1.htm

>…氏(=洪思翊中将)の精神が自己絶対化からは遠いものであったことを示していると思います。

 自分で書いたものですが、「自らの主観的信念に対する忠誠」というのはあまりいい表現ではありませんでした。確かに、これでは「自己絶対化」と読めてしまいます。もっとも、自尊心や思想に対する忠誠という場合は、そうした意味も含まれるとは思いますが。

 本来は、「神」または「天」(朱子学の場合)を絶対化するが故に、人は殉教・殉難へと至るわけです。
では、洪思翊中将の場合はどうか。おそらく氏の場合も「天」を絶対化する発想の延長線上で、自らの決断を含む天命を受け入れた(あるいは天命を義として絶対化した)ということかもしれません。
確かにこれは、士大夫たる態度に通じるものだと思います。

 ただ、日本人にとっては、この「絶対」ということが非常に理解しにくく、岸田秀氏も仏教学者の三枝充悳氏との対談で、日本にはキリスト教などの外来思想の「根本にある絶対性は、(絶対に)受け入れ」ないという極端な相対主義があると指摘しています。こうした点に、日本における「殉教」に対する拒否感に繋がる一側面があるのは確かでしょう。
しかし、この「絶対」ということが感覚的に理解できないと、西欧思想の多くも、朱子学など一部の中国思想も理解できないということになってしまいます。

 私にとって、山本氏は、西欧や中国の古典などを読む上での非常に優れたナビゲーターで、たとえば「神の絶対性」という点についても、『禁忌の聖書学』の「結末なきヨブの嘆き」を読んで、初めて理解できたような気がしました。それまでは、どうしてもM・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理…』などで取り上げられている予定説(=決定論)を感覚的に理解できずにいましたから。

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 それにしても、『現人神の創作者たち』は不思議な本です。

 確かに、山本氏はあとがきで「現人神の創作者」について、『私は別にその「創作者」を“戦犯”とは思わないが、もし本当に“戦犯”なるものがあり得るとすれば、その人のはずである」と言っています。

 しかし、これはどういう意味なのか。

 山本氏は『また「なぜそのように現人神の創作者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命がもたないよ』までそれをつづけようとするのか」と問われれば、私が三代目キリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また、外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく』とも述べていますが、そうであれば、これは極めて個人的・主観的な問題であり、通常の“戦犯”に対する考え方とも無縁で、どの程度一般化できるのかという疑問も生じます(そう単純ではないことは後述します)。

 また、浅見絅斎は朱子学的にも異端的で、正統的な朱子学者はむしろ佐藤直方の方であることは、山本氏も本文で詳述していますが、この浅見絅斎のような考えがなぜ生まれたのか、という点について、山本氏は、後に対談で(司馬遼太郎氏との対談だったのかどうか、出典不明)、耶蘇(キリスト)教の影響ではないかと指摘され、同意していたという記憶があります。
一方で、江戸時代の儒学は非常に多様で、朱子学を儒教とは認めない荻生徂徠(古文辞学派)ですら相当な影響力があり、綱吉・吉宗の時代にはその政策顧問も勤めたことはよく知られていることで、山本氏にもこれに触れた著作がありました。

 また、「現人神」という言葉についても、古来から、伝統的な日本人にとってはイデオロギー的な意味が無かったことは、『小林秀雄の流儀』で小林秀雄の『本居宣長』から引用していますし、『日本人とは何か。』では、明治以後の宣教師による「現人神=Living God」という翻訳は、完全な誤訳であるとも指摘しています。

 他方、『存亡の条件』では、『「殉教者自己同定」…は明治の欧化時代にはほとんど見られなかった傾向で、西欧的合理性の導入が、当然その非合理性も導入し、それが「志士=社会主義者」の逆の形、すなわち「楠公=殉教者」で定着した結果と見るべきであろう。従ってこれは、前述の非合理性の二重の累加(注:日本の伝統的儒教的非合理性+西欧的非合理性)を招来している」とも指摘しています。

 要するに、山本氏は浅見絅斎の思想が潜在的に継承され、昭和のある時期に猛威を振るったと単純に考えていたわけではないということが分かります。また、山本氏にとって、浅見絅斎の(キリスト教の影響を受けた)異端的朱子学が、単に個人的・主観的な“異端論争”の対象ではなかったことも理解できます。

 また、『現人神の創作者たち』は、解説で松本健一氏が言うように「ひとつの言葉、もしくは言葉となり終わるまえのエトス(心性)がどこに淵源をもつかを探」った労作であることは確かですが、そこで核心となる問題意識は、そうした言葉ないし思想の内容自体ではないとしても、その淵源や思想的変遷を自覚しないことによる呪縛なのか、それとも朱子学であれ西欧思想であれ、外来思想の受容の仕方そのものの問題なのか、結局、山本氏の言う“戦犯”とは何のことだ、というのが以前から判然としない点で、一種のトートロジーに陥ってしまっています。

 いずれにしても、こうした“謎解き”は私の能力を超える問題です。
以後は、tikurinさんにお任せします。


*ここまで書いてきて気づいたことは、私とtikurinさんとは、山本七平氏の著作の理解の仕方が結構違うということです。そして、おそらくその大きな原因の一つが、著作を読んだ時期と順番ではないか、と思い至りました。

 たぶんtikurinさんは、出版されたのとほぼ同時期、リアルタイムでお読みになっていたのだと思いますが、私が主に山本氏の著作を読んでいたのは、80年代末から90年代前半で、当時手に入れることができた著作をだいたい読んだ後に、残った作品を没後に出版された全集で読むという形になりました。

 『現人神の創作者たち』はまさにそうした作品で、かなり最後の方で読んだ著作であるため、上記のような感想になったということだと思います。

 以前、一知半解さんのところで、吉田 五郎太さんがとても興味深い論文を引用なさっていました。これは、M・ウェーバーに関するものですが、山本七平氏に関してもパラレルな状況にあるように、私には思われました。

※「ウェーバーは罪を犯したのか——羽入・折原論争の第一ラウンドを読む」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Index%20Max%20Weber%20Debate.htm

 その中で、著者の橋本氏は、自らを「遅れてきた世代のウェーバー読者」と自己規定して、自らの見解とその世代の特徴を述べていますが、非常に類似した意味で、私は「遅れてきた世代の山本七平読者」ということになるのだろうと、上記論文を読みながら感じていました。

(つづく)