mugiさんとの論争再再2

2009.8.31

mugiさんとの論争はご本人の希望もあり終了していたはずですが、葵さんが私に論争を挑まれ、それに対して私が反論したところ、再度mugiさんから「一知半解」さんのブログを通じて、私の「mugiさんとの論争再再1」に対するmugiさんの反論(下記の通り)が紹介されました。これは私を「他人に反論されるのが余程耐えられない性質と見受けられ」るなどと批判しているものですが、本人が論争を望んでおられないので今まで放置してきました。
しかし、あらためて「一知半解」さんのブログに私に対する個人攻撃と共にこの反論が紹介されましたので、私としては再反論せざるをえません。なお、mugiさんは氏のblogへの私のコメントは拒否されていますので、本欄のみの掲載となります。mugiさんは「相互理解など戯言」と言っている方ですので、生産的な論争は出来ないのですが、反論しておかないとどんな個人攻撃を受けるかわかりませんので、やむを得ません。

2009-08-04 21:30:33
>tikurinさん

貴方のブログに直接コメントすればよかったですね。いずれにせよ「一知半解」さんにご迷惑でしたが、あれだけ他人のブログに長文レスをするところを見れば、本心は迷惑と思ってなかったと私は見ています。掲示板などで旗色が悪くなった者の常套句が“人に迷惑だから”。早く貴方が自分の所でやろうと提案するべきだった。
貴方が言い訳がましく「議論で批判はあたりまえ」と言ったのは、私の“被害妄想”の言葉の後でした。何度か“私を批判して”の言葉を使用しているところも、他人に反論されるのが余程耐えられない性質と見受けられました。

tiku 7/31のmugiさんとのやりとり
mugi 私は“批判”でなく“疑問”を抱いてその言葉を使ったのですが、どうも貴方は異なる意見には、すぐ“批判”と受け取るようですね。ならば、貴方はずっと私を批判されていたのですか。私は性格が異なれば意見が違うのは当り前と考えており、被害妄想のように受け止めませんので。

tiku このmugiさんの発言は”すぐに批判と受け取るのは被害妄想”という発想から出たものです。だから私は「議論で批判はあたりまえ」といったのです。むしろ貴方の方が「他人の反論に耐えられない性質」の持ち主ではないですか。論理矛盾を指摘されると、すぐ個人攻撃に転じられるようですから。

>>素人がこうした専門的概念を

mugi これぞネット左翼がよく使う言葉です。利いた風に「素人が~」ですが、当人自身も素人。貴方は辞典を見ただけで書いたのではない。もし著書があるならブログで紹介を。ベンダサンも実はユダヤ教に関して完全に無知と、本物のユダヤ人ハロルド・R・アイザクス、B・J・シュラクターらから嘲笑されていた。
そもそも、貴方は非クリスチャンでしょ?私は預言者など信じていないし、モーセはユダヤの英雄と見ている。神の啓示を受けたと称するペテンで民を導いた。モーセは勝者だったので讃えられ、ヒトラーは敗者だから断罪されたに過ぎません。モーセに関し興味深いサイトがあります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/moses.html

tiku 言論に対して支持する人もいれば批判する人もます。『日本人とユダヤ人』や『日本教について』は、聖書学者(関根正雄)やユダヤ教ラビ(トケイヤー)、神学大学教授(北森嘉蔵他)、評論家滝沢克己など実に多くの人が高い評価を下していました。後段の、「神の啓示を受けたと称するペテンで民を導いた。モーセは勝者だったので讃えられ、ヒトラーは敗者だから断罪されたに過ぎません。」ですが、思いつきでこんなことを書くべきではないと思います。

>>私が「一神教」を完全に解っているというつもりはありません
mugi 一神教徒間でもあれだけ宗派があること自体、彼ら自身判っていないとの証明です。どれも自分達だけが正しいと主張しあっている。ただし、一神教文化が他の宗教を認めないという事実は決して消えない。
私から言わせれば「クリスチャンが何か悪いことをしましたか?」の言葉こそ、実に不用意かつ不遜な発言です。十字軍や新大陸での大虐殺、植民地主義に触れないのは、南京虐殺を否定する右翼と同じ。

tiku 信仰の自由は基本的人権として憲法に認められていますし、宗教に対する寛容も「教育基本法」にも規定されていました。貴方が学問的に「一神教」を批判されることは自由ですが、それを根拠に個人攻撃をしてはいけない、といっているのです。
「十字軍や新大陸での大虐殺、植民地主義に触れないのは、南京虐殺を否定する右翼と同じ」という貴方の論法についても、前段と後段は何の論理的関係もなく、貴方の得意なレッテル貼りに過ぎません。
こうした勝手な貴方の判断で、特定の宗教を信仰している人を個人的に批判するのは間違っているし、また、それに対する正当な抗議に対して、それは「南京大虐殺を否定する右翼と同じ」などと決めつけられたんではたまったものではありません。


>>貴方は不適切な引用だったと認めていましたね
mugi 私は「引用としては不適切だったかもしれません」と推量形で書いており、断定形を使って認めた訳ではありません。姑息な誘導尋問手法であり、またも左翼の得意技。不適切としたのは素人の貴人の主観であり、言論・表現の自由があるから問題ない。なぜ欧州の中世が暗黒時代に陥ったのか、貴方から分りました。それよりも間違った知識でユダヤ人を描き、ユダヤ知識人からも嘲られ恥を曝した時代遅れの評論家こそ問題にするべきです。

tiku 貴方が、一方でノブレスオブリージという言葉は人間相互間のルールだと主張しながら、別の所で、その言葉の出典を、ルカ12:48の「神により恵みを多く受けたものは、それだけ責任が重くなる」としているのは矛盾していやしないか、といったのです。それがなぜ「姑息な誘導尋問手法であり、またも左翼の得意技」「欧州の中世の暗黒時代」になるのですか。

mugi 私は相互理解について議論するつもりは全くありません。先に書いたとおり、そのような戯言を口にする者など信用しないし、相手にするつもりはありませんので、他に相手を探して下さい。貴方が1人で決めた議論に付き合う義務はありません。

tiku 相互理解を戯言とする人がなぜブログで意見を世界に発信しているのですか。葵さんも同様の考えのようですが、不思議でなりません。もちろん、そういうお考えの方と議論するつもりは私もありません。ただ個人攻撃を伴った批判に対しては反論させていただきます。

mugi 先に書いたとおり私はキリスト教に浅学、関心もないのでこの話はもう結構です。エウセビオスの言葉を並べ立てられても感銘もないし、迷惑千万。自分が関心があるから他人も同じとは限らないという、最低の常識もない頑迷で独り善がりな人間とは、これ以上相手にする価値もないと痛感させられました。たとえ聖書の知識が豊富でも、社会常識が欠けているなら論外。

tiku 貴方の聖書理解は、「旧約の歴史と新約の歴史(これはユダヤ人の文書であって、新約の中にユダヤ教主流に対する批判・攻撃があっても、それはユダヤ教内部の批判でその全否定ではない)と、キリスト教成立期の教会史(キリスト教の聖典となり諸文書が絶対的規範となり、それらが「聖なる文書」となりその言葉が「言葉=word」でなく「聖なる文書=The Word」となった)における旧新約文書理解を区別していないのではないか、と指摘したのです。
「教会史」以降のキリスト教批判でもって、ユダヤ人文書としての旧約・新約の批判はできないといっているに過ぎません。これは聖書理解の基本であって、それを指摘したら「最低の常識もない頑迷で独り善がりな人間」と罵倒されるのですから、どうしようもありません。


mugi 聖書を「聖なる文書」と信じる人と人間の作品と見る者では、思考方法が異なっているから議論は成立しないのです。貴方のこれまでのレスは、山本とキリスト教への嫌悪と警戒感を深めただけでした。「一知半解」氏への書き込み時間からしても、かなり暇そうですね。平日からこれだけネットをしているならば、妄想に憑かれても不思議ありません。ネット依存症ほど他人に妄想という言葉を使用したがる例を、私も知っています。

tiku 私は聖書を「聖なる文書」ではなく、聖書学の研究成果を通して学んでいるから、先に述べたように、「教会史」のことについて触れたのです。議論していることと関係のないことで個人的攻撃するのはやめて下さい。

Re:「山本七平信者との対話」についての総評 (mugi)
2009-08-04 21:34:06
>>対話の相手を「信者」とみなし”相容れない”はずの人になぜコメントするのです?
mugi 初めにコメントしたのは貴方側。もう少し知的で礼節のある人間と当初は思いましたが、とんだ誤解でした。コメントしなければ、無責任と貴方は責めたでしょう。それでも武器を持たないから青年将校よりはマシでしょうが、持ったらどうなるのやら。

tiku 私は、貴方が「一知半解さん」のブログにコメントしているのは相互理解のためだろうと思ったのです。ところが貴方は「相互理解を戯言」という考えの持ち主のようで、それではコメントする意味はないではないか、といったのです。また、私は「コメントしなければ無責任」などといった覚えはありません。さらに、「青年将校が武器を持ったら・・・」などという。どうかしているのではないですか。

>>「一人を認めない社会」を認めるべきだと言っているのですか?
mugi それは貴方のこじ付け的いいがかりであり、現代日本は「一人を認めない社会」と貴方がお考えなのですか?社会が認める、認めないに関らず人間はどの社会でも生きている。

tiku 貴方の言葉「”一人”を認めているはずの西欧社会さえ、言論、表現の自由が認められたのはごく近い時代なのだ。それ以前は自由にモノを書くことを認めたところなど皆無であり、身の安全もあり偽名で記した。それゆえ一人を認めない社会に理由を求めることは全くの筋違い」
この文章が、「”一人”が認められているはずの西欧社会でも、自由にものをいうことは危険であり、だから偽名で記した。」という意味であれば”一人”が認められない社会はなお危険であり、偽名で記すのは当然、となるのではないですか。
従って、ベンダサンというペンネームで本が書かれたことの理由について、貴方が「”一人”が認められない社会に理由を求めることは全くの筋違い」というのは論旨が転倒している。
現代日本が「一人を認めない社会」であるかどうか、それは言葉を代えて言えば思想信条の自由を含め基本的人権が守られているかどうかで決まります。mugiさんがそれを尊重されるなら、もう少し他者の思想・信条の自由に寛容であるべきではないでしょうか。


>>批判されるときは、「また引き」でなく「本文」に当たらないと、とんでもない赤恥をかきますよ。
mugi 私はあなたのHPの本文を紹介しているので赤恥とは思っておりません。それより底の浅い書評を書いたベンダサンが赤恥もの。そして、真昼間からウダウダ他人のブログに粘着している貴方自身も。

tiku 貴方が引用しているベンダサンの言葉は次のようなものです。
「ユダヤ教徒がその場に居合わせたら、どういうことになったでしょう。御想像ください。容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私たちは当然、容疑者です。もちろん私たちは、懸命に、キリスト教徒でないことを証言するでしょうが、おそらくだれもそれを信用してはくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。どうします?言うまでもありません。われわれは踏みます。われわれユダヤ教徒が偶像礼拝拒否して殺されるならともかく、偶像を土足にかけることを拒否して殺されたたなら、世にこれほど無意味なことはありますまい。これはわれわれにとって、議論の余地のないことです。」


これに対して貴方は、「キリスト、マリア像や十字架を崇めるクリスチャンなど、彼らから見れば偶像崇拝者にしか見えない。それ故、ユダヤ教徒がキリスト教の象徴を破壊することに、何の痛痒も感じないはずだ。ユダヤ教徒にとってイエスなど勝手に救世主を僭称、ユダヤ教を捻じ曲げた背教者に過ぎない。万一ユダヤ教徒が江戸時代初期に来日し、踏み絵を求められたとしたら、喜んで踏み付けたことだろう。憎いゴイム(※豚の意。ユダヤ教徒による異教徒への蔑称)の象徴を辱めるのに、何のためらいがあろうか。」といっています。つまり同じことです。

それがなぜ、次のような山本批判になるのです?

「この点を山本は分っていたのか?知らないで上記の意見を書いたならばユダヤ教に完全に無知となり、知っていたならば偶像崇拝を当然と思っている日本人に実態を歪曲して書いたとなる。tikurin氏の話では「平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作・黄表紙に至までの文献を読み続け」ていたそうだが、その割にはお粗末極まるミスを犯したものだ。私にはユダヤ人に成り済ましている山本の戸惑いの心情描写のように感じられた。体制に協力した者と、同じクリスチャンからも白眼視されていたのか。」

tiku  不思議です。

2009-08-04 21:34:50
>>どこにそんなことが書いてあるのですか。またまた貴方の妄想では?
mugi 一知半解氏は「違和感のある情報…」で山本の言葉「当時の、否、明治でも、宣教師にとって「異教否定・偶像破壊」は当然のことである 」2009/06/18(木) を紹介しています。お時間があるなら他人のレスをじっくり見て下さい。

tiku 他人のレスは見ておりません。

>>思想史の紹介がどうしてアナクロニズムなのですか
mugi 今時「萬世一系」「現人神」神話など信じている日本人がいるでしょうか?一部存在している可能性は否定しませんが、この言葉さえ今時の若者は知らない方が多いはず。だからアナクロニズムを感じたのです。なお、「現人神」的存在ならイスラム社会にもいました。もちろん「現人神」とは名のらず、「地上における神の影」のような称号となりますが、自己絶対化では引けを取らない。

tiku 今の話ではないから思想史なのです。明治憲法第一条に「萬世一系」という言葉があったことが、昭和にになって統帥権の暴走を招いた、というのが、最近放映されたNHKジャパンデビュー「天皇と憲法」の主題でした。それが昭和における青年将校の暴走を生んだのです。

2009-08-04 21:37:10
>>戦後最初にそれを定義したのは丸山真男です
mugi 丸山の本は未読なので論評出来ませんし、議論に応じられません。

>>一神教を信じる人だけでなく、多神教的な日本人にも難しい、ということを言っている…驚く前に正確に文章理解をして下さいね
mugi 先に貴方は「多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと…」と書いており、「一神教を信じる人だけでなく」と今回のレスでアリバイのように突然持ち出した。これは誤解する書き方をした貴方に一切責任がある。

tiku これに関する貴方の最初の発言は次の通り
mugi tikurin氏とのやりとりで一番驚いたのは以下の応酬。
mugi:「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。
tiku:「では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね」
mugi :つまり氏は一神教徒より多神教徒や汎神論者こそ、思想を他人に強制する傾向があると考えているのだ。

tiku 私は始めから、「思想は他人に強制するものではない、という考え方は、一神教には難しい(と貴方はいう)が、多神教or汎神論の日本人にも難しい」といことをいっています。優劣をつけているわけではありません。

mugi 異教徒の私には全く苦笑させられる。ユダヤ・キリスト教徒が「正確に記録して後世に残す」ことばかりしていたと見ていたのならば、実にお目出度いとしかいう外ない。

tiku 貴方のもとの発言
「他にtikurin氏の紹介した山本の言葉で、面白いものがあった。
――山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫(竹山道雄?)氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています…

これに対するその時の私の反論
tiku 苦笑されるべきは貴方ですよ。私は、聖書の不都合な記述を削除しないのは「正確に記録して後世に残す」ことが重要だと考えているからだ、といっているのであって、「ユダヤ・キリスト教徒が(なにもかも)『正確に記録して後世に残す』ことばかりしていた」などとはいっていません。ご自分の妄想にはご自分で責任をお取り下さい。


tiku 貴方の再反論
mugi 書物に書いてあることをそのまま鵜呑みにするのは、服従への道なのです。書物にガセや間違いはないのか、史料は確実なのか、想像力を働かせなければ、歴史など読めない。歴史はともかく想像力が働かない人間こそ、ドグマ、全体主義に支配される。

tiku ここでは「書物に書いてあることを鵜呑みにするな」という話になっていますが、私が紹介したことは、新訳聖書にあるユダヤ人呪詛の記述についての話であって、書物一般の話ではありません。また、その主旨は「歴史上の事件を隠蔽せず『正確に記録して後世に残』すことの重要性」について紹介しているのです。別に「書物に書いてあることを鵜呑みにする」事を勧めているわけではありません。

>>本名も素性も隠して、言いたい放題書き散らしている貴方が
mugi その言葉を貴方にお返しします。己のことは棚にあげ、他人を糾弾する幼稚性には呆れるばかりです。2ちゃんねるなどに常駐しているニートのネットジャンキーそっくり。山本学を学んで得たのは自由な言論・表現の否定、つまりファシスト精神だった。ついに左翼と同じ本性を見せましたね。

tiku 貴方が、ペンネームで作品を書いたことを強く批判するので、作品の内容で評価したらどうか、といったのです。ペンネームには「言論・表現の自由」を保証するという意味もあるのですから。しかし貴方は、ベンダサンというペンネームで著作さなされたことを「それはユダヤの権威を借りた姑息極まる手法でもある」と批判している。

しかし、そういう批判は、あなたがハンドル名で「言いたい放題」言っている(そうすることで「言論・表現の自由」を享受している)ことと矛盾しないか、といったのです。それに対する貴方の再反論は、私がそう指摘するのは「自由な言論・表現の自由の否定」であり「ファシスト精神だ」と言う。ダブルスタンダードというも愚かな自家撞着です。

貴方はかって有名人と無名人の言論に対する責任の度合いは違う、というようなことをおっしゃいましたが、私は無名人であっても言論に対する自己責任の度合いは同じだと思います。しかしそれがどれだけの社会的影響力を持つかはひたすらその内容によるのであって、ベンダサンだって書いた本の中身が面白くなければ有名になることはなかったのです。

また、私はネット社会におけるハンドル名を否定していません。それによって自由な発言が可能になるのですから。しかし、自らの発言に対して、その自由に見合った自己責任が全ての発言者に求められると思います。特に、ネット上の論争においては個人攻撃は厳に慎まなければいけません。しかし、こうしたルールは無視され、悪口雑言を多く言ったものが勝ちということになりやすい。なぜなら、泥仕合がいやな人は退散しますから。

ではこれに対する対抗策はあるか、それは議論の内容をそのまま正確に記録し公開することです。著作権は論争者に分有されますし、公開することで第三者が公平な立場で批評することが可能になりますから。ですから、対論者のプライバシーを侵害するような発言は厳に慎まなければいけません。

mugiさん及び葵さんの発言は、この基本ルールに抵触する恐れがあり、注意を喚起しておきたいと思います。