mugi氏の応援隊「葵」さんとの論争1

2009.8.7

葵さんへ(ブログも読まして戴きましたが、言葉遣いが乱暴なわりには本音の思想が感じられました。以下必要と思われる反論をしておきます。)*こちらの方も輪をかけた悪口雑言居士でしたので、これっきり”で終わり。

>>日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的世界家族思想」

葵 日本には『本音と建前』ってのがあり、こじ付けを真実と言うなんて(苦笑)
開国を迫られて、下級武士が帝を担ぎ、その威光で正当化したに過ぎないだろう?
戦国武将たちも同じ。青年将校が云々・・・バカらしい。戦時中「天皇陛下万歳!」と叫んだ兵士は死なない。本当に駄目な時は愛しい人や母の名をつぶやくものだそうな。
とノタマウ私は、皇室の存続を願っている。

tiku ”こじつけ”が「真実」とされそれが「歴史的事実」になったのです。この「本音と建て前」の勧進帳的会話のメカニズムを社会科学的に解明したのがベンダサンの「てんびんの論理」。本音と建て前を天秤にかけ、世間の空気を読みながら、建て前の量(内容は問わない。罵詈雑言も含めて一に量)を調節してバランスをとり身の安全を図る。葵さんのおっしゃる通りです。

>> 日本人の伝統思想は「人の性は本来善」(貝原益軒『大和俗訓』)ですからね

葵 全てに感謝することが罪状消滅につながる。耶蘇教とはそこが違う。・・・とは言ったけど・・・これは私の持つ仏教感であり、山本のいう日本教かもね?

tiku 「全てに感謝することが罪状消滅につながる。」とはいい考えですね。確かに、「耶蘇教はそこが違う」と思います。だが、その違いは、日本教は、人の心にはみな仏性がある→しかしそれは欲のために曇る→だから欲をすてて全てに(自然や人に)感謝する気持ちを持てば、本来自分に備わっている仏性が輝く、という風に考える。「耶蘇教」は、人は被造物だが神との約束を守ることを条件に自由意志を与えられた→しかし、人は約束を守らず勝手に自由意志を行使して罪を犯す。→そこで神との約束を思い出させるために「懺悔告解」という秘蹟により罪を許す(カトリックの場合)、という風に考える。いずれにせよ、罪状消滅を願っている点は同じですが。

葵 宗教で心が安らぐのならば悪いものじゃない。その信者を利用する為政者が悪いのだ。
宗教は賢い者は利用し、愚かな者は信じる  >、正論!

tiku 信仰は個人のものと言うことで、政治の道具にされることに注意しなければなりません。また、教育基本法にも言及されていますが、教育理念(政策ではない)も本来個人のものです(葵さんもそのように行動されてますね)。もちろん国民としての義務は有事教育も含めてしっかり教える必要があります。
ところで、「愚かなものは信じる=正論」とはならないのでは。

>>(山本の)「軍隊4部作」を見て下さい。そしてこれらの著作の動機は、百人切り競争という無実の罪で死んでいった向井・野田両少尉の汚名を晴らすことだったのです。

葵 山本信者の決まり文句なんだが・・・ならば、新聞記事だけで処刑した南京法廷の違法さを訴えるべきだろう?三百人斬りの大尉や代理で処刑された陸軍中将 谷寿夫 や広田弘毅や、冤罪で処刑された人々は・・・どーでもいいってか?!・・・・・・

tiku 山本は「もし私が裁判官でこの記事だけが証拠だったら二人に有罪を宣告することは不可能であったろう」といっています。この裁判は「南京大虐殺」の存在を証明するための政治裁判だったのです。また、廣田弘毅のA級戦犯は私は間違いだと思っています。氏の気持ちは”広田和協外交”を関東軍につぶされた経験から、”軍人にもその政治的責任を負ってもらうべきだ”だったと思います。しかし、裁判となり結果責任を問われれば、それは首相としては”言い逃れ”できない。だから、氏は東京裁判で沈黙を守った(自己弁護しなかった)のです。それが氏の”美学”だったと思いますが、氏の弁護に当たった、かっての部下守島悟郎はそれに不満で、板垣征四郎等の「華北分離工作」の責任を指摘すべきだ、といったのです。しかし、広田はそれをしなかった。守島はそうした広田に落胆し弁護人を降りたのです。私はそう解釈しています。

葵 捕虜だった頃に山本はユダヤ人に仕えていたそうな。靴底を舐めたのかい?
そんなのはどーでもよい。日本はそうゆう人たちの力で復興したんだからね。

tiku 「靴底を舐めたのかい?」とは穏当を欠く言葉です(そういう口の悪さが最近話題になってますね)。

葵 日中国交正常化には「ごめんなさい」はつきものであり、本多勝一の刃をかわすために百人斬りのホラ吹き将校を利用した・・・と私は想っているから・・・・

tiku ベンダサンは「ごめんなさい」が、日本では責任解除(全ての罪が許される)となることを指摘したのです。しかし、中国人はそれを「罪を認めた」と理解する。ここに誤解が生じる。あやまっているのに”しつこく日本に謝罪を要求するとは何ごとだ!”と日本人は中国人に反発する。そんなことが繰り返される危険性を指摘したのです。
なお、戦場のホラについては、山本の「戦場のデマ・ホラ」を再読して下さい。戦場ならぬ平和な時代の貴方のような「ホラ」が、どういう現実を生むかもご想像あれ!

葵 あぁ~すっきりした  ブログは私の心の護美箱だから・・
戦争の反省ってのはね、今度やるときの為に負けないようにするもんさ。
今度は何処と戦争できるのかい?!出来やしないだろう・・・アホ!
アフガンに自衛隊を出したら泥沼にはまるから止めとけ!

tiku 護美箱を、世界に向かって押し拡げ、「自己顕示」する業の深さよ、といったところですか(笑)。

終わりに、葵さんのブログの「百人斬り競争」裁判についての意見について、私見を申し述べます。

葵 山本七平は、日本刀三人限界説という『猫騙し作戦』でそれから国民の目を逸らすために、浅海特派員を悪者に仕立てたと私は思います。
言葉巧みで読者を導き「二人の少尉の死の責任は、虚報を事実と信じ込ませた記者と、それを信じた国民にある」と言い、南京裁判批判をかわしています。

tiku 山本は戦闘武器としての日本刀の脆弱性と近代戦における無力性を指摘したのです。それまでは日本刀で鉄兜の唐竹割ができると信じる人がいましたから。殺人道具としてなら、安全カミソリでも可能です。「百人斬り競争」における虚報の指摘が「南京裁判批判」をかわしたといいますが、では、その「南京裁判」の政治裁判的性格を含めてその実態を明らかにしたのは誰ですか。鈴木明と山本七平がいなければこの問題は一切表に出なかった。二少尉等が処刑されたとき日本の新聞はニュースさえ報道していないのです。もちろん裁判の実体も。
また、彼らを弁護した中国人の崔弁護士の上訴文は見事というほかありませんが、日本人にこれだけの戦犯被告人の弁護ができたかどうか。なお、GHQが谷寿夫を中国側に引き渡すとき、公正な裁判ができるか尋ねています。結果的には、その裁判の実体が解ったことから、GHQのカーペンター法務局長官から蒋介石へ裁判の打ち切りと服役者の巣鴨への移送が要請され、49年2月、岡村寧次他260名が米国戦で日本に送られました。彼らの死は無駄ではなかった、ということですね。(『新南京大虐殺のまぼろし』鈴木明、「いわゆる『百人斬り』競争の虚と実」秦郁彦)

葵 結論
葵 日本軍が捕虜処分したことは事実だと私は思いますが、何故、南京攻略以外での処刑された戦犯はいないのでしょうか?

tiku たくさんいますよ。『世紀の遺書』をご覧下さい。B、C級戦犯で1000人に上ります。

唐生智 をしっかり読み、推理してください。歴史は科学ではありません。証明するなんて無理ですよ。その人の立ち位置や推理力で歴史認識や解釈は異なるもの・・・違いますか?

tiku 秦郁彦氏は、アメリカにおける南京事件に関する討論で、この唐生智の責任を追求しています(勇気ある行動ですね。貴方のように歴史的事実関係の証明が無理だと考えたらできないことです。罵詈雑言(どこかで聞いたことがある?)で大変だったみたいですが)。
私は唐生智の責任は重大だと思います。WIKIは、その責任を問われて処刑されたという説も紹介していますが、要領よく生き延びたという説がホントのようですね。
また、葵さんは山本七平の視点を批判されますが、太平洋戦争における日米の死者数9万対260万(日中戦争50万を除く)、その内120万位が広義の餓死という悲惨をきわめた負け戦を経験したものが、自らの民族の弱点を痛感しその克服を後輩たちに伝えようとするのは、私は当然だと思います。(戦争の反省ってのはね、今度やるときの為に負けないようにするもんさ。)以上