mugiさんとの論争再再1

2009.8.3

*mugiさんの「山本七平信者との対話」は「mugiさんとの論争6」終了後の7月10日から13日にかけて総論的に書かれたものです。その後第2回目の論争がはじまりましたが、論争の場がmugiさんのブログに移ったので、併せて本論への反論を行いました。しかし、悪口雑言で対話になりませんので、これで終わり。

「山本七平信者との対話」についての総評
tikurinです。以下の記事について、一括して私見を申し述べさせて戴きます。

>>先日、私は熱心な山本ファンのブロガーと対話したが、単なる一作家のファンよりも殆ど宗教信者にちかい印象を強く受けた。もちろん、ある人が一個人或いは対象を絶対化、崇めようが思想・信仰の自由であり問題ないが、そうなれば非信者とはもはや相容れないのを痛感させられた。一個人を絶対化するのは明らかな宗教であり、何やら戦前の天皇絶対化を叫んでいた青年将校にも似た姿勢を連想した。

tiku 対話の相手を「信者」とみなし”相容れない”はずの人になぜコメントするのです?青年将校に言及されてますが、彼らのことをどれだけご存じか、ご教示下さい。

>> ベンダサンのペンネームについての意見で、私が興味深いと感じた箇所を抜粋したい。
-[一人]が認められない社会が、一人の中に二つの人格を認めるはずがないし、沼氏に脅迫状が来る現状では、それは望むべくもない。従って日本では、前述のように「日本人とユダヤ人の著者」「家畜人ヤプーの著者」という木札を首から下げさせられ、都大路を引きまわされて、ジャーナリズムの獄門にさらされる結果になるであろう…
現代ではベンダサンの正体は分っており、私にはベンダサンを演じた山本の自己弁明としか思えなかった。例え版権問題でユダヤ人との共同著作ゆえこの“ペンネーム”を使用せぜるをえなかったにせよ、存在せぬユダヤ人のキャラクターを生み出したのは山本自身であり、その責任は彼自身が負うべきなのだ。「ジャーナリズムの獄門にさらされる」など山本のグチにも感じられるし、自作自演の逃げ口上か、と皮肉りたくなる。
物書きがペンネームを使いたがるのは、言論の自由が保障されたのはつい戦後という背景もあると思う。“一人”を認めているはずの西欧社会さえ、言論、表現の自由が認められたのはごく近い時代なのだ。それ以前は自由にモノを書くことを認めたところなど皆無であり、身の安全もあり偽名で記した。それゆえ一人を認めない社会に理由を求めることは全くの筋違いであり、欧米人人気作家も脅迫状と無縁ではない。

tiku 「一人を認めない社会」を認めるべきだと言っているのですか。

>> tikurin氏の紹介されたサイトで、踏み絵に関する極めてありえない設定に唖然とさせられた。その全文を紹介したい。

――「踏絵」というものを御存知ですか。これは三百年ほど前、時の政府がキリスト教を禁止したとき、ある者が、キリスト教徒であるか否かを弁別するために用いた方法です。すなわち聖母子像(はじめは絵で、後には青銅のレリーフになりました)を土の上に置き、容疑者に踏ませるのです。踏めばその者はキリスト教徒でないと見なされて赦され、踏むことを拒否すれば、その人はキリスト教徒と見なされて拷問され、処刑されました。
ところで、もしかりに、私かあなたのようなユダヤ教徒がその場に居合わせたら、どういうことになったでしょう。御想像ください。容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私たちは当然、容疑者です。もちろん私たちは、懸命に、キリスト教徒でないことを証言するでしょうが、おそらくだれもそれを信用してはくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。どうします?言うまでもありません。われわれは踏みます。われわれユダヤ教徒が偶像礼拝拒否して殺されるならともかく、偶像を土足にかけることを拒否して殺されたたなら、世にこれほど無意味なことはありますまい。これはわれわれにとって、議論の余地のないことです。だが次の瞬間、一体、どういうことが起るか、おわかりですか?
日本人はこういう場合、一方的にわれわれを日本教徒の中に組み入れてしまうのです。おそらくお奉行からは、異国人の鑑として、金一封と賞状が下されるかも知れません。同時に、もしそこに、踏絵を踏むことを拒否して処刑を待っている日本人キリスト教徒がいたら、その人びとは私たちを、裏切者か背教者を見るような、さげすみの目で眺めるでしょう。その際、私たちが踏絵を踏んだのは、日本人が踏絵か踏んだのとは全くちがうことなのだ、といくら抗弁しても、だれも耳を傾けてくれないでしょう。『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏み絵を踏んでお奉行にほめられたような、妙な気を再三味わいました。――
>> イスラム同様ユダヤ教の偶像崇拝禁止は徹底している。イスラム、ユダヤ教徒がキリスト教徒を嘲る最大の理由は偶像崇拝を行っている点なのだ。キリスト、マリア像や十字架を崇めるクリスチャンなど、彼らから見れば偶像崇拝者にしか見えない。それ故、ユダヤ教徒がキリスト教の象徴を破壊することに、何の痛痒も感じないはずだ。ユダヤ教徒にとってイエスなど勝手に救世主を僭称、ユダヤ教を捻じ曲げた背教者に過ぎない。万一ユダヤ教徒が江戸時代初期に来日し、踏み絵を求められたとしたら、喜んで踏み付けたことだろう。憎いゴイム(※豚の意。ユダヤ教徒による異教徒への蔑称)の象徴を辱めるのに、何のためらいがあろうか。
この点を山本は分っていたのか?知らないで上記の意見を書いたならばユダヤ教に完全に無知となり、知っていたならば偶像崇拝を当然と思っている日本人に実態を歪曲して書いたとなる。tikurin氏の話では「平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作・黄表紙に至までの文献を読み続け」ていたそうだが、その割にはお粗末極まるミスを犯したものだ。私にはユダヤ人に成り済ましている山本の戸惑いの心情描写のように感じられた。体制に協力した者と、同じクリスチャンからも白眼視されていたのか。

tiku この議論でベンダサンがいっていることは、ユダヤ人だったら「何のためらいもなく」「踏み絵を踏む」といっているのですが、批判されるときは、「孫引き」でなく「本文」に当たらないと、とんでもない赤恥をかきますよ。

>> 山本はこの破壊行為も(当前?)当然の一言で片付けているが、ならば踏み絵も天皇絶対主義もあの時代は当然となる。やはり身内には甘いようだ。

tiku 「山本はこの破壊行為も当然の一言で片付けている」どこにそんなことが書いてあるのですか。またまた貴方の妄想では?

>> コメントに見るtikurin氏の宗教観は興味深い。氏がキリスト教徒なのか不明だが、親近感を抱いていることだけは分った。氏は聖書も読んでおり、新約聖書からの引用もあった。山本ことベンダサンは『日本人とユダヤ人』の中で聖書でも特に旧約を読むことを勧めていたが、tikurin氏はもっぱら新約の例を挙げていた。氏のコメントを紹介したい。

tiku 旧約を多く引用していますよ。必要な範囲で(サムエル記、申命記)。

>> 聖書の解釈はキリスト教徒の間でも様々だし、tikurin氏が上記のように理解するのは全く自由である。新大陸での原住民殲滅はさて置き、異教徒から見れば西欧での隣国間の果てしなき戦争、異端審問、魔女狩りの歴史から、“隣人を慈しむことを第一義”など理想論の建前に過ぎない。理解というよりも願望解釈にちかいのではないか。そもそも、一神教とは文字通り異端や他の宗教を認めないことで成り立つ宗教ゆえ、信者集団を絶対的な位置に置くのは当然の結果である。

tiku 私は一神教の自己絶対化の危険を否定しているわけではありません。ただ平田篤胤のように日本神話を創造絶対神話化すると「現人神」が絶対神化し、日本でも自分自身を絶対化するものが現れる、といっているのです。

>>「日本神話をイザナギ、イザナミをアダム、エバに擬し…」という発想が実にユニークで唸らせる。そのようなことは全く思いつかなかったし、本当に人の考え方は多様だと感じさせられる。国家神道は一神教に影響を受けて創設されたと私も考えていたが、今時神と人が万世一系で繋がっていると信じる日本人は至って少ないのではないか?若い人はイザナギ、イザナミの名すら知らないのが大半だろう。万世一系の神話を持ち出すのにはアナクロニズムを感じさせられる。

tiku 日本神話を絶対神化した平田篤胤の説を紹介したのです。
「遙か西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(アダム)といひ、女神の名を延波といへるが、此二人の神して、国土を生りという説の在るは、全く皇国の古伝の訛りと聞えたり」(『霊の真柱 上巻』平田篤胤)
「抑天地世界は、万国一枚にして、我が戴く日月星辰は、諸蕃国にも之を戴き、開闢の古説、また各国に存り伝わり、互いに精粗は有るなれど、天地を創造し、万物を化成せる、・・・諸蕃国の古説は、我が国にも古説なること、」(『赤県太古伝一』上皇太紀一)

tiku 日本神話がなぜ「萬世一系」「現人神」神話に変化したかを、思想史的に説明したのです。思想史の紹介がどうしてアナクロニズムなのですか。


>> そして氏が言う超国家主義も、確かに日本史上昭和のそれは異様だが、如何なる形態を超国家主義と定義するのだろう?皇帝は絶対神でもあった歴代中国王朝もその意味では超国家主義だし、聖俗一体のオスマン朝もそれに含まれるだろう。国王が教会の首長(信仰の擁護者)を務め、イギリス国教会を国教としている英国もまた大英帝国時代は超国家主義的ではなかったか。

tiku 日本の「超国家主義」について話をしているのです。戦後最初にそれを定義したのは丸山真男です。それをベースに、その後の山本七平の「現人神の創作者たち」などの研究を参考に議論しているのです。

>> tikurin氏とのやりとりで一番驚いたのは以下の応酬。
私:「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。
氏:「では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね」
つまり氏は一神教徒より多神教徒や汎神論者こそ、思想を他人に強制する傾向があると考えているのだ。

tiku 「思想とは他人に強制するものではない」と考えること(人を訂正)は、一神教を信じる人だけでなく、多神教的な日本人にも難しい、ということを言っているだけです。驚く前に正確に文章理解をして下さいね。

>> 山本は左翼からレイシストと非難されたそうだが、私の印象では彼の思想で差別感が出ているのは朝鮮人でも中国人、ましてアメリカ人にではなく日本教徒、つまり非キリスト教徒日本人に対してだった。敬虔なクリスチャンなら、それも無理はない。同じ日本人ではなく選ばれたるキリスト教徒なのだから、蔑視も不思議はない。

tiku 印象と言うよりほとんど自分勝手な「妄想」で他者を差別者呼ばわりする人ですね。

>> 他にtikurin氏の紹介した山本の言葉で、面白いものがあった。
――山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫(竹山道雄?)氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています…

>> 異教徒の私には全く苦笑させられる。ユダヤ・キリスト教徒が「正確に記録して後世に残す」ことばかりしていたと見ていたのならば、実にお目出度いとしかいう外ない。

tiku 苦笑されるべきは貴方ですよ。聖書の不都合な記述を削除しないのは「正確に記録して後世に残す」ことが重要だと考えているからだ、といっているのであって、「ユダヤ・キリスト教徒が(なにもかも)『正確に記録して後世に残す』ことばかりしていた」などと誰が言っているのですか。ご自分の妄想にはご自分で責任をお取り下さい。

>> 私は『空想紀行』を未読ゆえ論評は出来ないが、tikurin氏の反応も妙だった。「wikiの山本評についてはそのうち修正を求めたいと思っていますが、なぜ『空想紀行』を敢えて紹介しているのかよくわかりません」と氏は書く。もちろんwikiの記載も正確とは限らず、私も修正を求めたいものがいくつもある。ただ、wikiの上記の情報が正しいならば、山本はサルマナザールの詭弁を学んだとなり、これまで目にした彼の文章からその可能性はかなり高いと私は想像している。
私が見た山本作品は『日本人とユダヤ人』『日本人と中国人』の他は、「一知半解なれども一筆言上」氏のブログにある引用から。だが、記述を見るほどきめの粗さ(特に中東地域)が目に付き、誤記述が気になってくるので、単なるミスよりも意図的なものを感じてしまう。

tiku 未読で作品を批評したり、他者の見解の受け売りで想像をたくましくしたり、驚きのほかありません。

>> しかし、ファンでない私は版権よりもユダヤ人として発表した方が一般に受けると睨んだ戦略ゆえだと憶測している。平たく言えば、その方がハクがつくから。だが、それはユダヤの権威を借りた姑息極まる手法でもある。

tiku イザヤ・ベンダサンは、山本をと二人のユダヤ人の合作作品につけたペンネームです。此のペンネームで公刊された著書は4冊のみです。山本七平自身の名前で出版された本は共著等合わせて200冊に及びます。その事実を踏まえた上で、ベンダサン名の著作を作品として批評の対象にすればいいのではないですか。確かに「ユダヤ人名にした方が日本ではストレートに受け取ってもらえる」という考えもあったと思いますよ。実際そういう傾向を日本人はもっていますから。しかし、貴方ほどの博識が有れば、その問題点を具体的に指摘できるできるでしょう。その方が、ネット上でハンドル名を使い、本名も素性も隠して、言いたい放題書き散らしている貴方が、他者をペンネームでものを書いたと批判する不徹底より、よほどスッキリするのではないですか。いつでもお相手致しますよ。

>> 氏と私は年代、感性、価値観、性格も異なるし、どのような思想信条、宗教を選択するのは個人であり、それについて他人が言うつもりはない。ただ、私自身はこれまで人間でも組織でも、ある対象を絶対化して見たことはない。私にとって絶対化または絶対視ほど厭わしく忌まわしいことはない。ある対象を絶対化すればもはや宗教だと考えているし、そうなれば己の理性を「自己絶対化」に奉仕させる危険性を感じる。

tikurin氏は個人が誰を絶対化しようと他人がとやかく言う問題ではないとするが、ならば、暴力団組長やカルトの教祖も問題ないのか、と余計な突っ込みをしたくなる。また、一作家の著作を聖典化、真理は全てそこにあると見るのなら、真実は聖書にあると考えていた中世の僧侶と同じではないか。

tiku 私が言っていることは「他者が誰かを絶対視していることの危険性を指摘するよりも、自分自身の「自己絶対化」する危険性の方が大きい」といっているのです。山本については、私自身は「学習者」だと思っています。山本は教祖じゃなく聖書学の専門図書の出版店店主です。(出版物は全て聖書学の専門図書です)聖書を「聖典化」から解き放ち学問の対象とすること、その成果を日本に紹介することこそを本業としたのです。
また、個人が何かを絶対化しても、それが犯罪に結びつかなければ、罰せないとするのが憲法にいう「思想信条の自由」です。貴方は絶対化(信仰上の絶対化と暴力団組員が組長を絶対化することを同列におく非常識さにもあきれますが)していると言うだけで、それらの人たちをどうしようというのですか。お聞かせ下さい。もちろん私は山本の著作を聖典化してなどいませんよ。あたりまえじゃないですか。

>>「大切なことは、自分の言葉と自分の思想即ち行動を一致させることです。それが誠実というものです」ともtikurin氏は言う。反論の余地もない正論だが、私が山本への信用と誠実性に疑惑を深めたのは、皮肉にも氏のHPに見える山本の発言だった。
以上の記事は山本ファンからすれば、あまりにも公正性を欠く偏見と思われるだろう。ただ、「人は偏り見るもの」と言ったのは他ならぬ山本であり、私を含め凡人には己の見たいことしか見えないのだ。

tiku 己の見たいことしか見ない「バカの壁」という本がベストセラーになりましたね。その壁を越えて、会話しようとしてきたのですが・・・。

興味のおありの方は私ブログ「竹林の国から」及び私HP「山本七平学のすすめ」を参考にして下さい。