mugiさんとの論争再4

ブログ「一知半解」/ 2009.7.31

mugiさんとの論争の感想
(できるだけ解りやすくするため引用・説明が長くなりますが最後ですので悪しからず)

mugi 私は“批判”でなく“疑問”を抱いてその言葉を使ったのですが、どうも貴方は異なる意見には、すぐ“批判”と受け取るようですね。ならば、貴方はずっと私を批判されていたのですか。私は性格が異なれば意見が違うのは当り前と考えており、被害妄想のように受け止めませんので。

tiku mugiさんの最初の問いかけは次の通り「あなたの提案ですが、問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないでしょうか?」。疑問か批判かの差はあまりないようですが。ただ議論に批判はつきもの、それを「被害妄想」的に受け止めるようでは議論になりません。私がここで言ったことは、折角議論しているのだから「本論」に入りましょう、ということです。

<<選民思想の解釈について
mugi 異教徒ゆえ誤解はあるかもしれませんが、ユダヤ教徒同士でも教義に関する見解が一致しない事実はどう解釈されるのでしょう。互いが「お前は間違っている、俺が正しい」と主張し合い、内ゲバに至った歴史こそ、教訓になりませんか。

tiku 選民思想の理解のために『聖書思想辞典』三省堂の”選び”の項目を参照したことを紹介しました。貴方が”選民思想”をとんでもない考え方のように言うので、モーセなどを例に出して”選ばれることは大変な負担を強いられること”で本人にとっては迷惑なことだった、という例を紹介したのです。説明したのであって、あなたにそうした考え方を強制したわけではありません。

mugi 「性悪説」を取る者は「罪の意識」があるとする貴方の見方こそ、私には不可解です。キリスト教の原罪と東洋の「性悪説」では違いますよ。

tiku 貴方が「私は罪の意識を植え付け、懺悔に持ち込むシステムには全く共感しません」というから、キリスト教の「罪の意識」についての議論になったのです。そこで、私はこれに対比して日本人の「性善説」に言及し、mugiさんの考え方は日本人的な「性善説」ではないのかと指摘したのです。ところが貴方は、私は「性悪説」というから、「罪の意識」云々の話になったのです(余計なことでしたが)。また東洋の「性悪説」の話ですが、中国の荀子等の「性悪説」は、儒教の徳治を斥け、法律、刑罰を絶対化し、信賞必罰を説いたもので君主の絶対権力を正当化したものです。こちらの「性悪説」は君主の「性悪」は問わず、人民の「性悪」だけを問題にしています。恐ろしいです。(ブリタニカ)

mugi 神の一方的命令と信じるのもまた「信じることが第一歩」となりませんか?そもそも、唯一神を唱えたのは預言者と称する人間であり、その人間が神の言葉なるものを唱え、それに帰依した者がいたからこそ一神教が成立したのです。私は古代はもちろん現代の一神教徒でもそれに疑念を持つ人もいると想像しています。公言すれば爪弾きになるので黙っているかも。ドイツ在住のシリア人作家ラフィク・シャミ(キリスト教徒)は、「イエスやムハンマドも雲をつかむような話をしなければ、預言者になれなかっただろう」と書いていたのを見た時、やはりと感じさせられました。ムガル朝3代皇帝アクバルも「コーランは人間の作品」と「冒涜」していた。結構「無神論的」なことを言う一神教徒偉人もいますよ。

tiku ここでも議論したのは、日本人の「信心中心」の考え方と、キリスト教の「信仰のみ」の考え方の違いについてです。私が言ったのは、前者は”戒律放棄”(=戒律なし)だが、後者はそうではなくて、律法の中でも”あわれみや慈しみ”を最重要視し、それなしに形ばかり律法を守ってもダメだ、という意味であることを、日本の代表的な聖書学者である関根正雄氏の言葉を引用して説明したのです。あくまで、一神教文化を理解するためで、その正非を論ずるためではありません。私にそんな力はありません。

mugi 私は貴方に棄教を勧めてもいないし、クリスチャン?と聞いただけで「余計なお世話」は解せません。もし貴方が他の日本人と違い揺るぎない信仰心があるなら、胸を張ってクリスチャンと宣言しても構わないはず。それを「プライバシー軽視」「レッテル貼り」(※正しくは「張り」)と受け取るのもまた不可解です。そして姑息なレッテル張りなら、貴方自身もやっていました。自分がしているから他人も行うと神経症になるのですか?

tiku 先の貴方の文面からして、貴方は「一神教」に強い懐疑の念を表明されていますね。その文脈の中で「やはり、あなたはクリスチャンですね?」といっている。それは”あなたは「一神教」なんか信じているんですか!”といっているのと同じですよ。私がクリスチャンであってもいい気持ちはしないと思いますよ。まして、信者でない私に、この言葉を投げる、それは”レッテル貼り”と同じではないか、といっているのです。もし私が信者なら、胸を張って堂々と”クリスチャンが何か悪いことをしましたか?”とお尋ねします。なお、「レッテル貼り」の「貼り」は「正しくは「張り」とおっしゃいますが、辞書を参照して下さい。

mugi (ルカの一節の引用は)引用としては不適切だったかもしれません。ただ、人間が生きて行く上で人間間のルールは不可欠であり、「選ばれし者」「多く与えられた者」の判断を下すのもまた人間なのです。やはり異教徒には異教徒の見方しかできないし、キリスト教徒もキリスト教徒の見方しかできません。この論法を適用するなら、ユダヤ教を理解しているとは到底いえないベンダサンの馬鹿げた書評(踏み絵等)も引用すべきではありません。ユダヤ、キリスト教徒もまた異教の教典からの不正確な引用を、「言論・表現の自由」として盛んに行っていることをお忘れなきよう。

tiku これも、貴方がノブレスオブリージという言葉の出典をルカ12:48と言ったから、私は、いわゆる選民思想における”選び”という考え方は、mugiさんの言われるノブレスオブリージ(ルカは神により恵みを多く受けたものは、それだけ責任が重くなる、といった)と同じかも、といったのです。人間間のルールが不可欠ではない、などとはいってないし(いえるわけがない!)、告白(=懺悔告解)の不思議については言及しましたが、ベンダサンの「踏み絵」の引用もしていません。また、なぜ私が、ユダヤ、キリスト教徒が不正確な引用をしていることを「お忘れなきよう」努めねばならないのか、おそらく、彼らが不正確な引用をしている(?)から、ご自分の不適切な引用がとやかく言うべきでない、とおっしゃりたいのかもしれませんが。

mugi これまでのやり取りで、意図的なのか無意識か不明ですが、貴方の論調は左翼に酷似しています。ある対象への盲従性、大上段に道徳を振りかざす説教口調、「議論」「理解」の言葉の多用。相手への理解はせず、己への理解のみ求める一方性。異論を批判と見る被害者意識。左翼が共産主義圏での粛正、弾圧に口をつぐむように、貴方は欧米の負の歴史には触れずすり替え、辻褄あわせを繰り返す。こんなことを書けばまた「説教」「貶める」「批判」と取るでしょうし、私もまたあなたの「説教」及び主張には共感がもてません。

tiku 前段2/3の私への批判は反省の材料として伺っておきます。なお、貴方は私が欧米の負の歴史に触れない、と批判されますが、私は相互理解の話をしているのであって、欧米の歴史の正負を論じているのではありません。重ねて言いますが、そんな力は私にはありません。  

感想 裁判員制度と同じで、まず論点を確定しないと、議論になりません。mugiさんは大変な博識で、世界の宗教について批評を下されますが、議論するときにははじめに設定した論点を逸脱しないようにしないと、議論が拡散してしまい、折角の議論が悪口に終わってしまいます。今回はそのような結末で残念でした。私が貴方に最初に言葉をかけた動機は、山本七平に対する誤解を少しでも解きたいと思ったからですが、うまくいきませんでしたね。

失礼のあった点はご容赦下さい。応答ありがとうございました。