mugiさんとの論争再3

ブログ「一知半解」/ 2006.7.26

(参照)再びtikurinさんへ
再びmugiさんへ
非生産的な議論になると「一知半解」さんには迷惑ですから、なお必要があれば貴方又は私のサイトでやりましょう。

tiku 私は間違いに気づいてすぐ訂正しました。(それにしてもハンドル名mugiをmagiと表記したなど、つまらぬ批判をされますね)私が言っているのは、貴方が「問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないか」と批判されたので、山崎氏の提案は「認識された事実ではなく、認識の方法の面白さを教えるべき」ですよ、といったのです。貴方が、その「認識方法の面白さを教える」という提案が危険だというなら、議論になりますが、提案されていないことを批判されても、答えようがないと言ったのです。

>>私は「信者」ではなく「学習者」であり、学習内容についての議論には関心がありますが、お説教には関心はありません。
mugi あなたは前に「山本絶対化」(これは無害)」と仰っていましたね。

tiku 神ならぬ人は絶対化すべきでないが、これはその人の思想信条に関わることだからダメとはいえない、だが、「自己絶対化」は自分の注意で避けられるといったのです。「お説教」といったのは、貴方のブログ記事「山本七平信者との対話」を読んだ印象で、到底生産的な議論にならないと感じたという意味です。貴方が山本七平をどう評価しようと、それは貴方の自由で、申し訳なく思う必要はありません。
また、選民思想に関する貴方の理解は、私は間違っていると思いますが、「見解が異なる」ということですので、この議論は終わりにします。
また、罪の意識に関する議論も同様に終わりです。でも「性悪説」を唱える貴方に「罪の意識」がないとは不可解ですね。

mugi「個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません」と以前あなたは言われましたが、その言葉をお返しします。私はいわしの頭を崇めようが結構だと思っているし、信仰の対象を選べない方が恐ろしい。やはり、己の信仰しか認めない一神教思想が感じられます。異教徒から見れば、十戒全て人間の作った法に過ぎませんが、それを聖法とするのこそ問題でしょう。

tiku 私が、日本の信心は「信心する人が信仰の対象を選べる」(これは言葉足らずで誤解を招きやすい表現でした。)といったのは、もちろん「信仰の自由」のことではなく、日本人にとって、神は絶対意志を持つ存在ではなく、人間が必要に応じて取捨選択する「薬」のような存在だ、ということを言いたかったのです。なぜ、そんなことを言ったかというと、貴方が、十戒第一条を「まず信じることが第一歩」と日本的な理解をしていたので、十戒は「唯一絶対神の一方的命令(戒命)」だ、と言うことを指摘するためでした。

>>あなたはクリスチャン?そうではありませんが余計なお世話です。

mugi 私の予想通り感情露なご返答、有難うございました!「そうではありません」と否定されても、へそ曲がりの私は信用しませんので、あしからず。これだけ聖書への好意的解釈のコメントから、自称非信者はまず通じないでしょう。

tiku 別に感情的に応答したのではありません。(他者のプライバシーを軽視した)レッテル貼りなど下品なことはおやめなさいと言っているのです。

mugiモーセが選ばれたといえ、選んだのは人ではなく神なので、人間に対する「ノブレス・オブリージュ」とは意味合いが異なるのでは?

tiku 貴方はノブレスオブリージという言葉がルカ12:48の次の言葉から来ているとあなたのサイトで指摘していますね。
ルカ12:48 しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。
この節で「多く与えられた者」というのは「神から多くの恵みを受けた者」という意味ですが、人間に対する「ノブレスオブリージ」とは意味合いが違う、というのはどういう意味ですか。もし人間間のルールと理解されているなら、ルカを引用すべきではありません。

終わりに、議論は教えたり教えられたり、お互いに学ぶことがあると思うからするのです。相手を貶める事が目的ではありません。学ぶもののない議論はやめましょう。もちろん批判でも、学ぶに値するものならokです。