mugiさんとの論争再2

ブログ「一知半解」/ 2009.7.29

参照「日本古典文芸要約全集」
参照「tikurinさんへ」

mugi さんへ

mugi あなたの提案ですが、問題のある教師による時代や歴史事実の選定は危険ではないでしょうか?

tiku 「歴史記述の古典的名作・・・」は私の提案ではありません。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』谷沢永一、からの引用(もとは前中教審会長の山崎正和氏の提案)と断っています。また、その主旨も「歴史記述の古典的名作を教室で読ませ、同時に後世それがどのように批判されたかを生徒に教えることで、認識された事実ではなく、認識の方法の面白さを教えるべき」としています。私はそのための教材(『日本古典文芸要約集成』など)があったらいいなあ、といっているだけです。反論なさるなら、対手の論旨をしっかり掴んでからにして下さいね。

その他、mugiさんのブログで「山本七平信者との対話」を読まさせていただきましたが、いずれの論についても反論の必要を感じませんでした。私は「信者」ではなく「学習者」であり、学習内容についての議論には関心がありますが、お説教には関心はありません。

ところで、サムエルの「権力の怖さ」の指摘は「反権力」ではありませんよ。もしそうならなぜサムエルはサウルやダビデを認めたのです?
「ユダヤ教のせまい考え方」というのはmugiさんはこれを”自民族中心の選民思想、神権政治と解釈”し、その上で、サムエル記15:3節を引用し、万軍の主が「一切、滅ぼし尽くせ」と指令を発するのは恐ろしい、とおっしゃっています。

要するに「選民思想」を”自民族を他民族より優れたものと見なす考え方”と解釈して、それを批判しているのでしょうが、私はそのようには理解していません。
「選民」とは神との契約の対象として一方的に選ばれた、ということで、モーセなどを見ても一面では大変な災難ですよね。そのことは民族についてもいえるのではないでしょうか。(『聖書思想辞典』三省堂の「選び」の項目を参照)

申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:14 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。

選ばれることはホントに大変!mugiさんの言われるノブレス・オブリージかも。

それから、mugiさんが引用されたサムエル記15:3節は、15:2節の「イスラエルがエジプトから上ってくる途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する」をうけたものです。さらに、3節の主旨は、サウルを否定しダビデを王として選ぶための布石で、サウルが神の命を無視し「ぶんどりものに心を奪われた」ことを非難しているのです。(『旧約聖書略解』日本基督教団出版局p277)

mugi私は罪の意識を植え付け、懺悔に持ち込むシステムには全く共感しません・・・

tiku 日本人の伝統思想は「人の性は本来善」(貝原益軒『大和俗訓』)ですからね。また、キリシタン禁制時(1614)に日本人がカトリックの「罪の告白」を危険視したのは、それが聖職者に対してなされるものだったからで、要するにそれは組織の秘密を外のばらすことと誤解されたのです。今はやりの「内部告発」ですね。それは懺悔告解の本来の意味(罪の許し)ではありませんが、日本では否応なしに、mugiさんが指摘する様な政治的陰謀とみなされてしまいます。

で「内部告発」についてですが、これは組織の論理よりより高次の法規範に従うということで、いわゆるコンプライアンスですが、日本の組織がこれに堪えられるようになることは、私は大変いいことだと思っています。

確かに、「あるブロガー氏は欧米人の怖いところは、異教徒に何か犯罪行為をしても、懺悔告解で帳消しになると考えている節がある」らしく、かって山本も同様の指摘をしていました。

しかし、大切なことは、そうした考え方の背後に「罪の許しの思想」があるということで、それを否定するのではなくそれを相対的に認知することではないでしょうか。いずれにしろ、人生には「罪の意識」は付きものですから・・・。

mugi 私が引用したヨハネ福音書3-18は「戒律放棄」のためではなく、「信心中心」の言葉として引用しました。これは他の宗教も同じですが、宗教とはまず信じることが第一歩。第一条「あなたは私以外の何者をも神としてはならない」こそ、唯一絶対神への帰依を説いています。それがなければ信者ではなくなりますから。やはり、あなたはクリスチャンですね?

tiku 日本人の信心は「いわしの頭も信心から」になりやすい。つまり、信心する人が信仰の対象を選ぶのです。一方、十戒第一条は、唯一絶対神からの一方的命令です。その違いを問題にしているのです。あなたはクリスチャン?そうではありませんが余計なお世話です。