mugiさんとの論争再1
(参照)私論に対するmugiさんの批判
mugiさんへ ご意見ありがとうございます。以下私が理解している範囲でお答えします。
mugi サムエル記はユダヤ教の狭量さを否定する内容というより、見事に読ませる人間ドラマだと私は思います。ダビデも“聖絶”とは無縁ではなかったけど、教訓は如何でしょうか。
tiku ”教訓”を使おうかどうしようか、と一瞬迷いましたが、例えば、イスラエルの民がサムエルに対して”王”を求めたのに対して、次のように警告したことなど、立派な”権力の怖さ”について教訓だと思いましたので採用しました。
8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
>>日本人の伝統的な「一君万民的平等思想」「八紘一宇的世界家族思想」
magi 私はこれには疑問に感じます。明治以降はこれらが伝統となりましたが、それ以前に果たしてこのような考え方はあったでしょうか?国家神道も一神教の影響が結構あると私は考えています。あと「信心中心」も、キリスト教にも似たような面はあるのではないでしょうか?特にカトリックの懺悔すれば許される、免罪符で罪はチャラなど、救済の即席化は巧みであり、これぞ世界宗教には効果的。
-御子(イエス)を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既に裁かれている(ヨハネの福音書3-18)
tiku 「一君万民的平等思想」は明治になって急に出来たものではありません。それは徳川幕府が体制思想として輸入した中国朱子学の政権の正統論と、日本の記紀神話を掘り起こした国学の天皇の萬世一系論が習合したことによって、天皇こそ日本の正統政権であり幕府はその非合法簒奪政権だ、とする考えが生まれ、それが幕末の尊皇討幕運動に発展したのです。
その時の、天皇を中心とする国家イメージが、ひとりの天皇の下に万民が暮らす平等社会=「一君万民」天皇親政の国体イメージとなったのです。「八紘一宇」はそのイメージを世界国家に拡大したものです。国家神道は平田篤胤が本家で、これは国学の多神教「国生み神話」に、キリスト教的な一神教「創造神話」を組み込んだもの、つまり国学とキリスト教が習合したもの、と見ることができます。(これが昭和の超国家主義の母体となった)
キリスト教の「信仰のみ」という考え方は、親鸞のいう「信心中心」=「戒律放棄」とはまったく異なるということは『日本人とユダヤ人』でも指摘され、聖書学者の関根正雄もこうした日本人のキリスト教信仰の機微に触れた問題指摘に驚愕すると共に高く評価していました。キリスト教が旧約を聖書に加えている理由もそこにあるのではないでしょうか。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(マタイ5:17)
免罪符の問題は、告白(懺悔告解)は信徒の権利で、過去に犯した罪を告白することにより罪が許され天国に行ける、という考え方が基本にあるのです。そのために、お金を出してでも免罪符を買って「罪の告白」をしたのです。日本人で、自分の金を出してまで罪の告白をする人がいるでしょうか。カトリックの懺悔を笑うのではなく、そういう「罪の許しの思想」があるということに想像を及ぼすべきです。遠藤周作(カトリック)もこの懺悔告解の「救い」について語っていましたね。
最後に引用されたヨハネ福音書の一節は必ずしも「戒律放棄」を意味するものではないと思いますが。
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