mugiさんとの論争3 山本七平の戦友を見る目3

ブログ「一知半解」コメント /2001.6.30

mugiさんへ

mugi しかし、外国人に成り済まし、生涯それを貫き通したならば、その姿勢に懸念をもたれても当然ではないでしょうか?

tiku 事実は次の通りです。
イザヤ・ベンダサン名の著書は4冊、山本七平名の著作は共著も含めて200冊以上あります。この4冊の内問題にされているのは2冊『日本人とユダヤ人』『日本教について』です。なぜか、前者は、当時の左翼の絶対平和主義を刺激したため、後者は本多勝一氏の「中国の旅」を批判したためです。所詮、政治的な動機なのですよ。
では、なぜこの4冊がイザヤ・ベンダサン名になったか、それは『日本人とユダヤ人』は二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーとミンシャ・ホーレンスキー)と山本七平の合作で、二人のユダヤ人のうち後者が著作権を持ち、もう一人は資料提供、山本七平は資料提供と編集を担当したようです。従って山本七平はこの本については版権しか持っていません。その後の『日本教について』(s47)『日本の商人』(s50)『日本教徒』(s51)は山本とホーレンスキーの合作と山本は説明していますが、後者の関与は資料提供程度ではないかと思われますが、このあたりは私もよく判りません。
これとは別に、山本は自分自身の名前で著作を開始しています。『私の中の日本軍』が最初です。これらは自らの体験を語るものだったからでしょう。
ではなぜ、上記の著作にベンダサン名が使われたかは、『日本人とユダヤ人』『日本教について』『日本教徒』は「日本教」という独創的見解に関わるもの、『日本の商人』は「日本で国際水準にあるのは商人だけ」という指摘が、これも当時の常識と逆行する独創的見解だったからだと思います。この外に「ベンダサン氏の日本の歴史」がありますが、これも、漱石の「こころ」の分析にはじまる日本思想の源流を探る独創的見解でした。そうした独創性を、余計なことを詮索されることなく、世に問う気持ちがあったのではないでしょうか。(もちろん共著者の存在も大きかったと思います。)
『日本人とユダヤ人』は大宅壮一ノンフィクション賞が賞されましたが、日本にも「読み人知らず」の優れた作品が残されているのだから、著者不明であってもかまわない、ということでこの授賞が決定しました。

mugi (ネットにおける書き込みにハンドル名を使うことと、著作者が自分の所在を明らかにすることの違いについて)まして無名の庶民ブロガーと立場は違い、著名人なら社会的責任が伴うのは当然なのです。

tiku 言葉に対する責任という点では、無名人も著名人も変わりはないと思います。

mugi貴方は「山本絶対化」(これは無害)と仰いますし、確かに個人の一作家絶対化なら無害でしょう。しかし、天皇や書記長、将軍なら有害の傾向大で、宗教の原理主義者のように「教祖」の絶対化は、己の絶対化にも繋がります。

tiku 個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません。教祖の絶対化が己の絶対化につながるというのは、それはその人が教祖を絶対化していない証拠ではないでしょうか。昭和の青年将校は天皇絶対といいながら、奉勅命令も無視し自分を絶対化していました。

mugiところで、tikurinさんにお尋ねしたいのですが、貴方は聖書、殊に旧約聖書を読まれていますか?・・・聖書でも旧約だけは是非読んで頂きたいものです。聖書の解釈は個人差がかなり大きいですが、ユダヤ、キリスト教思想の一端は見えてきますよ。

tiku おそらく、聖書のホロコースト的迫害・弾圧・差別の歴史の記述についておっしゃっておられるのでしょうが、山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています。

mugi 私は山本の「軍隊4部作」を未読なので論評は出来ませんし、彼の主張について貴方と議論することも不可能です。やはり読まない限りは、お相手になれないですね。
山本ではありませんが、くどくどと女のグチのように戦時の苦労話を書き連ね、戦争を語るというスタイルは、はっきり言って狭い体験の年寄りの繰言であり、ウンザリさせられます。「俺はこんなに苦労したんだ。是非、俺の話を聞け」と言わんばかりの同情と同意の押し付けであり、民間人は黙っていろ、との戦前の軍部に似ていないでしょうか?岡目八目の通り、案外部外者の方が状況を把握することもある。

tiku 先の「正確に記録して後世に残す」に尽きると思います。その記録をどのように受け取るかは後世の自由ですが、山本はこれを伝統文化として継承し失わない限り、民族は存続する、といっています。それにしても張作霖事件の真相を日本が隠蔽したのが悲劇の始まりでした。

mugi 山本の書を丹念に読めば、また印象も変わるかもしれませんけど、読書の感想は十人十色であり、貴方が感銘しても私が同じとは限らない。

tiku きっと印象も変わると思いますよ。「一知半解」さんのブログに来られているのですから。