mugiさんとの論争1 山本七平の戦友を見る目
mugiさん、横レスごめんなさい。一つ気になったものですから、私見を申し述べさせていただきます。かって山本七平は本多勝一氏との論争を契機に、「クリスチャンなのに、天皇制擁護に汲々とする右翼文化人、自衛隊擁護・憲法改正論者、原発推進論者、元号擁護論者、あげくの果ては朝鮮人を差別し、民族差別するレイシスト」などと、さんざん攻撃されてきました。一つの言を立てるということはこれほど過酷なものかと、むしろ氏の言葉に感銘を受けてきたものとしては、その怨念ともいうべき対立感情の激しさに、改めて人間の限界について考えさせられたものでした。 ところが、最近では、こうした方面からの批判に加えて、さらにmugiさんのような保守系の方から、「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物」と評されるようになったのですから、いささかビックリしました。おそらく、山本七平の論が右とか左とか色分けできるものではなかったことから、こうした現象が起こったのでしょうが、ぜひ、mugiさんにはサヨクと称される人たちが陥ったような「自己絶対化」の罠には陥らないようにしていただきたいと思います。 山本七平は日本民族に対してどういう役割を引き受けたか、それは、本エントリーとも関わるのですが、「日本人が無意識の前提としている人間信仰の観念を自覚させる」ことによって、「言葉による」日本文化の新たな発展の糸口を見つけようとしたのです。そのための手がかりとして、氏の軍隊経験(21歳で応召し、フィリピンのジャングルで骨と皮の終戦を迎え、その後捕虜収容所で戦犯の取り調べを受け、戦後は38歳になるまで熱帯潰瘍外の戦争後遺症に悩まされた)を語ったのでした。 保守系の人たちが日本の伝統文化の遺産を大切にしそれを育てていこうとするならば、なおのこと、その負債部分もしっかり受け取り、必要な総括をして自らの国に信を立てる必要があります。山本七平は、そのための第一歩として、日本人が無意識に生きている「日本教」というべき信仰観念を客体化するという方法で、先の戦争の原因を解明し、その新たな思想発展の糸口を探ろうとしたのでした。でなければ、平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作・黄表紙に至までの文献を読み続けるはずがないではありませんか。 戦後、こうした文献に目をやる人は皆無(戦前の日本の歴史は暗黒と見たため)で、神田の古本屋街ではこれらはほとんど紙くず同然だったといいます。山本七平はそれを49歳に至るまで一人で読み続け、かって自分が体験した「戦争の謎」を解こうとしたのです。その時、彼が共にジャングル戦を戦い死んでいった戦友たちにどのようなまなざしを向けたか、それは彼の「軍隊4部作」を見て下さい。そしてこれらの著作の最初の動機は、百人切り競争という無実の罪で死んでいった向井・野田両少尉の汚名を晴らすことだったのです。『私の中の日本軍』の最後で山本が両少尉の魂に呼びかけた言葉を聞いて下さい。 |